2015年12月27日日曜日

遺伝子情報を利用した医療サービスの議論に、生権力に関する議論が欠けていることを憂慮する

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厚労省の「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」で、進展するゲノム関連の医療技術に関する「規制」が議論されているが、ここではゲノム情報を「個人情報」として、個人情報保護法の範疇で議論することを求めるとされたようである。これに冠しては例えば「難病治療研究の妨げにも」という報道もあるが、逆に「個人情報として扱うだけでは、規制として不十分なのではないか」という議論もしておく必要がある。何方かと言えば、個人情報保護法とは別の枠組みで、ゲノム情報の取得と管理に関するルールが定められるべきであろう。というのも、ゲノム情報は、個人の情報というだけではなく、その親族の情報を部分的にせよ含んでいる。たとえばAさんがポリシーとしてゲノム情報を秘匿しておきたいと考えたとしても、家族数人のゲノム情報がとれれば、Aさんのゲノム情報はかなりの程度推察できる、という問題がある。もちろん、ゲノム情報が医療などでの有用性を持つことを考えれば、「Aさんの親族全員の同意をとるまでAさんの遺伝子検査をしてはならない」などということは非現実的である。一方で、なんらかの落としどころとして、Aさんの親族関係情報と、ゲノム情報が結合して処理されないようなストッパーは必要であろう。この点は、現在の個人情報保護法で十分とは言いがたいであろう。

また、「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」が、差別、排除の問題しか検討していないように見えることも懸念される。これは、例えば「遺伝子解析を「差別」につなげない仕組みづくりとは」という、遺伝子診断を実際におこなっているジーンクエスト社の高橋祥子社長へのインタビュー記事でも同様である。

2015年12月24日木曜日

大学入試新テストはOECD-PISAテストがモデルか?

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大学入試センター試験に代わって記述式の問題などを取り入れた「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)が検討されているが、その試験問題などが朝日新聞(記事「考えるプロセス問う 大学入試新テスト問題例」)などで報道されていた。問題の全文は、文科省高大接続システム改革会議(第九回)の配布資料で示されたもののようである。記述式試験というと、フランスのバカロレアなどが有名である。グローバル化が主張されている中、そういう方向性化と思っていたが、問題文を見るとPISA試験との類似性が見て取れる。参考資料などとあわせてみると、PISAをモデルのひとつにしていることは明らかなように思われる。

2015年12月20日日曜日

「がんばる人を評価する政府」は極右ないし全体主義政府です

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民主党の玉木雄一郎氏(香川2区)が次のような発言をしていました。

それに対して、批判が殺到すると、

さて、この議論は大きな問題を孕んでいると考えますが、それについて説明します。

2015年12月18日金曜日

夫婦(選択的)別姓問題 …そこで「くじ引き」ですよ。

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夫婦同姓規定に関する最高裁判決が出て、「とりあえず同姓にすることを強制する法律は違憲とまでは言いがたい」という結論のようです。
 その余波で、以前の Tweet

が沢山 Retweet されています。

2015年12月11日金曜日

良いベーシックインカムと悪いベーシックインカム

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フィンランド政府がベーシック・インカム導入、というニュースが話題になった。結果的には、即導入というものではなく、導入を検討中、というニュースであったため、騒ぎは沈静化の方向だが、先進国のひとつが現実的な選択肢として捉えているというのは、大きなニュースであるとは言える。
さて、ベーシック・インカムとは、全国民に固定で(最低限生活できる程度の)現金を給付するというものである。フィンランドのケースでは、800ユーロ(約11万円)の支給が想定されているという。未成年にも配るかといった方法の違いはあるが、基本的に個人単位で配るため、数人で世帯を形成すれば生活費は確保できる。つまるところ、「働かなくても(最低限)暮らしていける」社会がやってくるのである。さて、これはいいことだろうか?

2015年12月8日火曜日

軍事研究を大学が受けることの問題について

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第二次世界大戦後、長く日本の大学は軍事研究に参加しないという方針を共有して来た。近年、政府の方針転換や大学の予算不足と言った様々な方針により、徐々に解禁の方向に動いている。これには当然ながら反対運動もあり(私はこの反対という立場に賛同するものである)、様々な議論が行われている。また、議論が行われている中でも、実際に軍事研究費の受け入れは行われており、12月7日付けでも東京新聞が「日本の研究者に米軍資金 12大学・機関に2億円超」と報じているが、この記事の中に多少気になる表現が見られる。

2015年11月16日月曜日

「TPPのよいところ」と「民主党の駄目なところ」について

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TPPにもいいところがあるとか、あるいは民主党がどうしょうもないとか書くとなると、安部首相を支持するのかと言われそうであるが、そういうことも言わざるを得ない、という話である。

維新の党に続いて、民主党でも分裂論争が続いている。自民党一強時代にあって、野党側がなんとか立場を強くしようと離合集散を繰り返す様は大変見苦しいとしかいいようがない。政党というのは、元来、追求する理念や政策を共有する人々があつまり、その代表を国会に送るための組織であるが、日本では(共産、公明を別として)理念の共有というよりは、選挙に受かるための互助団体という側面が強い。ただ、このことには選挙制度の問題や、政策を吟味して投票しない有権者の責任もあるので、一概に野党政治家の責任とばかりも言い切れない(また、野党に回った自民党の政策議論能力のなさも我々は見て来た訳である)。
 ただ、野党に多少は政策集団としての気概を見せてもらわなければ、国会での論戦がやせ細る。国会での論戦がやせ細るということは、立法においてより目配りの利いた議論が行われ、それが法律に反映されるということがなくなる、ということであり、これはテロや領土問題よりもよほど国家の危機である、という認識が欲しいである。

2015年11月14日土曜日

パリの事件について: 憎悪に憎悪を重ねるのではなく、グローバルな連帯に基づいた対応を

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11月13日夜(日本時間で14日早朝)パリの複数の場所で大規模なテロ事件が同時発生しているという報道がされている。全容が判らないうちから軽々なことはいうべきではないが、これがニューヨークの911のときのようなことにならないか危惧している。ニューヨークの事件では、米ブッシュ政権は犯人であるイスラム教原理主義グループであるアルカイダへの憎悪をあおり、アフガニスタンと、(そしてアルカイダとはほぼ関係のない)イラクとの戦争に突入し、その後遺症としての紛争は未だ続いている。今回のテロ事件も、どの程度直接的にかは判らないが、二つの戦争の結果として中東域で強化された先進国への憎悪が原因になっている可能性も高いであろう。

各国首脳が声明を発表する中、日本政府がほぼ沈黙している(パリの対策本部設置という案内はされた)のも気になるところである。これまでの安部政権の立場としては、他の先進国と協力して対テロ戦争で役割を果たしていくという方向性を打ち出しているのだから、こういうときこそ強いリーダーシップと他の先進国との連帯を表明しなければ行けないはずである(もちろん、私は「そうすべき」だと言っている訳ではない)。しかし、今のところ、そういったポーズすら見られず、即応力や情報処理能力に問題があるのではないかと考えざるを得ない。そういった政権が軍事的にのみ「強い」ことや、「強いことを求める」ことは、民主制に対して大きなリスクになるということを、有権者は考慮する必要があるだろう。

2015年11月10日火曜日

カナダ、トルドー新首相、科学に二つの大臣ポストを

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 カナダが先の総選挙の結果、政権交代し、カナダ自由党のジャスティン・トルドーが首相の座についた。すでに、組閣から新風を吹かせており、首相を除く30人の閣僚には男女が同数、任命された。また、法務大臣には先住民系のジョディ・ウィルソン・レイブルド、また「民主的機構大臣」にはアフガニスタンからの移民だった(ヘラートで生まれ、11歳のときにカナダに移住した)30歳のマリアム・モンセフが就任した。多様性を担保した理由について問われたトルドー首相が「もう2015年だから」と短く答えた映像は、世界中の話題となった。

さらに、国際的な科学雑誌であるNature誌は”Canada creates science-minister post”という記事で、科学大臣ポストが二つ(!)新設されたことに注目している。1995年以降、カナダでは科学の担当は産業省の副大臣の管轄とされて来た。これが今回、独立の科学大臣として復活したわけである。初代の科学大臣(Minister of Science)に任命されたのは、医療地理学者で、トロント市内の小選挙区から当選したクリスティー・ダンカンである。エジンバラ大学の地理学博士号を持つダンカンは、1918年のスペイン風邪に関する研究などで知られ、早くから気候変動が世界の病気の分布に与える影響について着目して来た。
 Nature誌では、オタワ大科学、社会と政策研究センターの前所長であるマーク・サーナー氏の「本当の科学大臣が、博士号をもった人に!」という驚きの(笑)コメントが紹介されている。
 また、「ハーパー前首相は科学の範疇を産業の範疇に突き崩してしまったのであり、その結果、カナダの純粋科学や公的利益のための科学は劇的に衰退した。」というヴァンクーヴァーの非営利環境団体デスモッグのキャロル・リニットのコメントが紹介されている。近年、科学の理論が産業の理論に置き換わりがちであるため、基礎科学や公的な利益のための科学の担当者を独立させた、ということになる。先のサーナーは、「イメージという観点からは、これはすばらしいことだ。しかし、これが実践面で機能するかはわからない」と期待を含ませつつも懐疑的なコメントをしている。

 また、これまでの産業大臣も、産業、科学と経済発展大臣(Minister of Industry, Science and Economic Development)に改称されている。これに任命されたのは、インド系カナダ人で、シク教徒でもあるナヴディープ・バインズである。バインズは経営学修(MBA)を持つ会計士でもあり、ナイキやフォードで働いていた経歴もある。

 日本でもそうだが、各国、
礎科学や人文社会科学の軽視が深刻化していると多くの研究者が感じているところだが、これらはエートスの違うものとして、基礎科学とイノベーションの担当者をきっぱり分けてしまう、というのは今後のトレンドになっていくのかも知れない。

 最後に、Nature 誌は環境大臣が、環境と気候変動大臣に改称されたことにも着目している。このポストに任命されたのは、弁護士であり、東ティモールの平和維持活動などにも係って来たキャサリン・マッケナである。
 多様性を維持しつつ、適材適所で若い人材を配置しており、どうみても内閣に多様性も若さも適材適所も欠如している日本からみるとうらやましい限りである(たまには我々も「文部大臣に、博士号保持者が!」と驚いてみたいものである)。

2015年11月9日月曜日

社会包摂のための言論の自由とその限界について

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カイエ・ド・ドレアンス(from Wikipedia)

1)「言論の自由」はデモクラシーの根源である

「言論の自由」はデモクラシー(民主制)の根源であると考えらえている。というのも、第一に自分のおかれた苦境について、そのことを表明し、社会に対して改善を求めることから始まるからである。もちろん、この苦境の原因には、上位者の社会的不正やより直接的な抑圧も含まれるであろうから、言論の自由が完全に認められないことは、それが社会的問題として認識されることを阻むことになる。

フランス大革命に先立って、Cahier de doléances (カイエ・ド・ドレアンス/陳情書)が三部会によって全国から収集された。特に第三身分(平民)からは生活の不満が多く伝えられた。アントニオ・ネグリに言わせれば、これが民主制の原点である。つまり、クレーム(異議申し立て)という言葉は、日本ではあまりいい意味に使われないことが多いが、弱い立場の人のドレアンス/クレームがどれだけ自由に出せる社会であるか、というのが民主的な社会であるかどうかの試金石である。もう少し定式的に言えば、身分や出自といった属性に係らず、全ての個人にこの「異議申し立て」の権利が認められ、その誓願が適正なプロセスで討議にかけられるか、ということが、世俗社会、近代社会、そして「社会包摂的な社会」の条件であり、逆にこれがエスニック・マイノリティやセクシャル・マイノリティであるといった事情によって排除される、というのが「近代国家ではない」ということである。どういったことが「適正な討議か?」という点は、第二項以降で説明される。


第二に、我々は言論を自由に行うことで「弁証法」が機能することを期待している。弁証法とは、ある意見に対して、それと対立する意見をぶつけ、両者を吟味することでよりよい(総合的な)意見を導きだす、という手法である。これは、古代ギリシャの思想家プラトンに遡る考え方であるが、しばしば「(西洋)哲学はすべてプラトンの注釈である」とも言われるように、この考え方は哲学の基本を形成している。まず先行する意見を「テーゼ」、対立する意見を「アンチテーゼ」、その両者をぶつけることによって生み出される新しい意見を「ジンテーゼ」と呼ぶ。たとえばディベートの授業などで、二つの対立する意見をランダムに割り振ることには、「自分の信念に係らず主張を言いくるめる能力を磨くため」という見方と、「自分と異なる意見でも詳細に吟味するため」という二つの側面がある。プラトンは、前者の意見をソフィスト(詭弁家)の立場であり、師であるソクラテスはソフィストと対立して後者の意見をとった、と述べる(ただし、二人と同時代の劇作家アリストファネスは、ソフィストとソクラテスの違いを認めず、両者ともにギリシャ青年の誠実さをを脅かす詭弁家であると考えていた)。

この立場に立てば、アンチテーゼの提示という検証を受けていない「テーゼ」はその正統性に疑念が残る、ということになる。議論において「全会一致は否決」などと言われる現代的意味はそういうところにある(元々は古代ユダヤの風習として知られていた)。従って、民主国家に置いては「アンチテーゼを提出する」という作業それ自体が、デモクラシーの健全性を担保するために重要な作業である。この「アンチテーゼの提出」を「批判(/クリティーク)」と呼ぶ。

馬上試合 (from Wikipedia)

この「弁証法」はしばしば、闘技モデルで考えられてきた。つまり、乗馬し、槍と甲冑を身につけた騎士が二手に分かれて突撃し、勝負をかけるという「討議」があるとすれば、二人の賢者が異なる立場を主張し、議論を闘わせる「言論上の闘技」がある、ということである。そして、民主国家に置いては、武力ではなくこの「知力」の討議が社会的決定の根幹を担うべきである、と考えられるようになった。理由はいくつかあるが、第一に、「知力の闘技」では誰も傷つかない、と考えられたということがある(この見解は、後でヘイトスピーチについて述べるように、若干の修正を余儀なくされた)。また、武力での闘技による「決定」は、そもそもの問題の根幹との関連性が若干疑わしい、という面も理由である。つまり、例えばA王国とB王国の国境紛争で、両国が代表として選んだ騎士同士が決闘して、勝った方が領土を獲得するというのは、たぶん戦争をするよりは合理的な解決策であるが、賢者同士が歴史資料を付き合わせて議論することに比べると、やや納得感に乏しい、と考えられるようになって来たのである(その「合理的関連性」に対する洞察を得るということが、社会が近代化するということでもある)。最後に重要な点は、武力による闘技は社会にそれ以上の利益をもたらさないのに対して、知力による闘技は社会に蓄積をもたらすと考えられた。テーゼAとアンチテーゼBを検討した結果、ジンテーゼABが生み出されたとする、これは新たにテーゼABとしてアンチテーゼCと付き合わされ、ジンテーゼABCが誕生する。このように、ジンテーゼは新たにテーゼとしてアンチテーゼの挑戦を受けることにより、人類の「知識」は限りなく研磨され、凝集されていく、と考えられたのである。


2)言論の自由と知的所有権(特に「引用」概念)の関係について

さて、近代に入り、すべての知的生産物は、他の生産物同様、生産者が権利を持つ、という考え方が普及して来た。これは現代日本でも「著作権法」という形で担保されている。しかし、これはほぼ全ての国で同様であるが、その中で引用という条件だけは担保されている。これは、「ある議論を参照し、それに批判を加えることで、よりよい議論が生み出される」という先の弁証法が可能であるようにである。

引用の条件は一般には、必然性、主従関係、明瞭な区分、出典の明記等とされる。つまり、引用することが必要であり、かつ引用される文章が引用した著作者の手による地の文章に対して従属的な関係にあり、引用部分が地の文章と明確に区別でき、また引用元が明示されている、ということである。これは要するに、引用元がテーゼであり、誰かが発信するということは、それに対してアンチテーゼ、ジンテーゼを付け加えることである、ということである。従って、引用という慣行がなくなると、議論から弁証法が失われてしまうのであり、近代の「合意」として、知的所有権よりもこの弁証法プロセスによる知識の凝集のほうが重要である(あるいは、弁証法プロセスを放棄するとそもそも知的生産が不可能になる)と考えている、ということである。

また、現代社会では、後に述べる理由によって、全ての言明(意見表明)は政治的である、と表現される。この状況下においては、公表された意見はすべてテーゼとして扱われる(アンチテーゼの洗礼を受ける可能性に開かれている)と見なされるべきだ、ということになる。アンチテーゼはもちろん、ジンテーゼを導く理路が明瞭であるものである方が好ましいが、単なる罵倒にしか見えないケースもあるだろう。しかし、すべてのテーゼが(プライバシーの権利などの私権とコンフリクトを起こさない限り)いかなる形で表明されようとも自由であるように、原則としてすべてのアンチテーゼの表明のされ方も(プライバシーの権利などの私権とコンフリクトを起こさない限り)自由である、と言わざるを得ない。つまり、ある意見に関して「馬鹿な意見だ」と吐き捨てることは、ジンテーゼへの結合性が自明ではないと言う意味で好ましいことではないが、結合性が原理的に排除できるわけではない、という意味で否定はできない。それに対して「この意見を持つものは馬鹿だ」という意見は、文脈次第では別の権利(言われた側の私権)を侵害している可能性がある。この私権の侵害と言論の自由のバランスの個別の判断は、司法にゆだねられる。

なにが批判の対象になるかという点について言えば、著作権概念の中に「公表権」という概念が設定されている。これは、世界を公共圏と親密圏に切り分ける概念でもある。私が友人に出した手紙は、私と友人の間の「親密権」にとどまることを予定されており、そのなかでどのような表現を使っていようと、それは私と友人の関係の問題である(私が人種差別的な表現を使うことで、友人が怒りに燃えて縁を切る、ということはあり得る)。一方、不特定多数に公開する(公共圏に公開する)ということは、私が自分のテキストを、不特定の誰かからの批判を受ける場に提示するということでもある。この公共圏と親密圏の間は存在しない。出版(Publish) が「公的にする」(Publicare)というラテン語を語源にするように、出版することは公的にすることと同義である(Twitter や他のSNS でも、読者を友人に限定せずに書き込めば、対価を得るか否かに係らず、それは Publicare である)。公表/出版とはテキストを公共圏に押し出すことであり、それはテキストがすべての批判に開かれることを意味する。テキストは公共圏にあるか、親密圏にあるかであり、煉獄は存在しない。

逆に言えば「引用」の要件を満たすことは、批判であることを担保する。たとえば、誰かが私を単に「バカだ」と罵ることは、(仮に事実であるとしても)批判の要件を満たしているか判断しづらいが、引用の要件を満たして私が言ったことを再録し、その上で「こういう意見はこれこれの理由で馬鹿げている」ということは、従前たる批判/アンチテーゼの提起であり(その妥当性を問わず)、社会的には賞賛されるべきである。引用の要件さえ満たしていれば、「春日はバカである」でも「春日はベルゼバル神をあがめるカルトを支持している」でも主張していただいて構わないのであり、その真偽の判断はそのテキストと引用元とを比較する読者の考えに委ねられて構わないのである。


3)ところで、「正しい議論の仕方」とは

もちろん、引用をきちんとしているだけでは、正しい議論を形成しているとは言い難い。では、厳密に正しい議論の仕方があるか、というと包括的な議論はないが、今のところのコンセンサスとしては、ハーバーマスが論じた点が、最大公約数的な共通認識となっている。よく「理想的発話」として論じられるものである。一方で、「理想的」というだけあって、厳密にハーバーマスにしたがって議論することは実質的に不可能であるというのもコンセンサスといえる。逆に、「理想的発話」では取りこぼすなにかがあると人は考えているからこそ、芸術や感情に頼る、ともいえる。これら、芸術やその他の「非合理な」陳情をすべて却下するべきであるという前提を置くことは、デモクラシーを前進させない、というのも近年の合意事項である。

また、近代は聞き手の態度も求める。たとえばドナルド・デヴィドソンのいうチャリティーの原則、つまり誠実な会話において、聞き手は話者が一貫した、理性的で正確なメッセージを伝えようとしていると前提しなければいけない、という原則は重要な前提である。しかし、これにも若干の修正事項は発生している。ここでは詳細は論じないが「利益相反」は理性的とされる会話において相手の誠実さに疑いをもってよい条件を形成している。この「利益相反」概念が確立したのは、20世紀も終わりに近づいてからであると言ってよい。

いずれにしても、西洋哲学は「誠実で批判的な対話」の諸条件について、様々な考察を加えており、そういった原則の限界も明らかになってきている。ここでそれらについて詳細を論じる余裕はないが、一定の理想像としてそれらのイメージを担保しつつ、実際の対話においては「自分も対話相手も、決して発話を理想的な形ではおこなっていない」という覚悟が必要である。


4)ヴォルテール原則と「人を傷つける」ことについて

しばしばフランスの思想家ヴォルテールのものとされる(実際はヴォルテール自身はその言葉を残していない)言葉として「私はあなたの意見に賛同しないが、あなたがそれを表明する権利は命をかけて守る」というものがある。これは、これまで述べて来た理由によって、民主国家の大原則を表現するものとしてしらている。この見解は、確かに「全ての発言は批判的に検証されることによって、新たな意見の獲得につながるという価値がある」という大原則に照らして正当でもあり、必要でもあるように思われる。では、この議論で、差別発言も正当化されるのだろうか?

 このヴォルテール原則の差別発言への適用は、ふたつの問題に直面する。ひとつは、古典的課題であるが、「社会包摂のため、すべての人に異議申し立ての権利を認めるべきだ」という原則と、社会排除的な差別発言が矛盾を来さないか、という問題である。そこで、社会排除的な発言は禁止する、という解決策を取り入れることは検討に値する。しかし、国家が差別発言かどうかの検閲の権利を得ることは、単に差別発言だけではなく、すべての「完全な言論の自由」という概念に傷を付けるのではないか、という疑念は起こるであろう。

これにはいくつかのレベルで解決策がある。第一に、強い自由主義とでもいう立場がありえる。つまり、国家が担保すべきは「誓願の権利を妨げない」ということだけであり、他の社会セクターからの障害はその誓願者自身が自身の責任で排除することを求めればそれで十分である、という立場である。第二に、市民連帯による自由主義の擁護(弱い自由主義)とでも呼べる立場があり、国家の検閲の権利は否定するが、社会排除的な発言に関しては、NGOの活動や市民による発言者への批判など、「言論活動によって対抗する」ことが大事である、という立場である。これはアメリカ合衆国などで採用されているといってよいが、強い社会運動が必要になる。この中間形態として「差別発言者は、ただし先験的にその対象が社会包摂の権利を持つことを認め、その権利を尊重することを合意した上で、差別発言を行うならばよい」という議論は可能ではあるが、極めて特殊な状況以外にはこれは妥当な見解ではなさそうである。

最後に、発言になんらかの法的制限を加える条件があるのだ、という議論もありえる。これは、国家の権利を拡張するロジックであるため、慎重な扱いが必要である。そこで、ヘイトスピーチという概念が誕生する。


5)ヘイトスピーチと単なる差別発言の差について

 「言葉も人を傷つける」と言われるが、単に「傷つける」だけではそれを禁止するのに十分とは言い難い。逆に、あらゆる言葉が人を傷つけうる(たとえば、あなたが「安部首相を支持しない」ということは、自民党の熱心な支持者である誰かを傷つけるかもしれない)のであり、傷つけることを理由に規制できるようになってしまったら、言論の自由の担保は不可能になるであろう。基本的に傷つけるかどうかは私権の問題とみなされるべきである。

 一方で、近代化の進行は「差別」概念を拡張してきた。19世紀であれば、人種ごとの生物学的性質に関する議論が差別的であるかどうかには議論があったが、現代社会においては、それはそれ自体が差別的であり、非難されるべきであるというコンセンサスが形成されている。フェミニズムはしばしば「個人的なことは政治的なことである」と主張するが、これは、男女をめぐる力学が個人の生活の中に浸透する形で作用しているからである。男女が結婚に際してどちらの姓を選択するかは個人的な(両者の間の親密圏の)選択だが、マスに見れば圧倒的に男性の姓が選択されるという事実は、それが政治力学を反映していることを示している。したがって、差別の中から、特に規制にたる発言を厳密に定義することは可能だろうか、というのは当然の疑問である。

 そこで、「ヘイトスピーチ」という概念が誕生する。ヘイトスピーチは、「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」という概念が先行している。憎悪犯罪は、日本では一般的な言葉ではないため、ヘイトスピーチだけが突出して普及してしまっているため、混乱が生じているように思われる。ヘイトクライムとは、単純に言うと「属性によって行われる犯罪」である。たとえば、ジョンが「ラシードに恋人を寝取られた」という理由でラシードを殺すのは通常の「殺人事件」であり、「ラシードを殺してやる」と叫べば脅迫である。しかし、ジョンがラシードと個人的な利害関係を持たず、単にラシードがイスラム教徒であるという理由で殺せばヘイトクライムであり、ラシード個人を特定せずに「イスラム教徒を殺す」と主張すれば、それはヘイトスピーチということになる。

 強迫行為の場合、特に立法の必要性は明らかである。すなわち、ジョンがラシードに「殺してやる」と言えば、それはラシードに対する脅迫罪ということになる。しかし、「イスラム教徒を殺してやる」という主張は、果たして誰かに対する脅迫罪になるだろうか?(日本ではこういった「抽象的な強迫行為」は「威力業務妨害」という、どうとでもとれる法律で対処される傾向があり、これはこれで好ましくないと思う)。

 「言論の闘技」モデル(それは実際には人を傷つけないとされた)やヴォルテール原則は、言論と実力行使の間には明示的な線が引けることを前提としているが、ヘイトスピーチはヘイトクライムと結びついている。過去にヘイトクライムが行われたという実績があれば、現実のヘイトクライムが発生していなくても、ヘイトスピーチを許容するる社会では、それが自分の身に起こる可能性を考慮しないのは難しい。その結果として自らのアイディンティティを隠し、「請願の権利」の行使を控えるようになれば、民主的で社会包摂的な社会は崩壊の危機にさらされる。

 したがって、ヘイトクライムとは属性を理由にした犯罪行為であり、ヘイトスピーチとはその予告や、それを正当化したり扇動したりする言説の流布、と定義するのが好ましいであろう。すべてのヘイトスピーチは差別を内包するが、差別的発言のすべてが「脅迫的、扇動的」とは認められないのであり、ヘイトスピーチは差別に包含される概念、とうことになる。また、差別は不適切な罵倒発言だが、不適切な罵倒発言のすべてが差別的であるわけではない(また、実際は表面上は極めて礼儀正しいが、対象者の社会的排除を含意する発言もありうるが、こういった発言は「礼儀正しい罵倒」とでもいうべきであろう)。

 日本社会ではヘイトクライムがアメリカに比べて多くはなく、したがってヘイトスピーチ概念の導入の意義も薄い、という議論は妥当だろうか? 実際は、「属性を理由にした犯罪的行為」は常に起こっている。そもそも関東大震災のときの虐殺行為などのヘイトクライムの歴史に思い至らないということが、ヘイトクライムがあったということ以上に、危険なことであろう。


6)社会包摂のための戦略の構築

さて、ここまで議論してきたことを念頭において、最初の「請願の権利の十全な保障」という議論に立ち戻ることが重要である。我々は、我々の社会における「言論の自由」をどのように維持していくべきであろうか? この観点から、なにを差別とすべきか、どのような用語や議論を社会が担保すべきか、そして「ヘイトスピーチ」の規制を法的に導入すべきか否か、議論すべきであろう。

2015年10月31日土曜日

「財源」論から「優先順位」論へ

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1. 「財源」って何だ?
 軽減税率が話題になっている。10パーセントと8パーセントという違いならあまり意味がないので、そもそも軽減税率をやめたらいいのではないかと思う(やるならば10とゼロにするぐらいでなければ実質的な意味はほぼあるまい)が、それにもまして「新たな財源は子どものいる低所得者世帯への給付を削減することなどでひねり出す案がある」という議論まででてきているのがバカバカしい。
 そもそも、軽減税率は、所得が低い層へのサポートを念頭に置いたものであるはずだが、実際は高額所得者も(当然、生鮮食品を食べる訳で)減税を享受するという「副作用」は回避できない。
 それに対して、「低所得者世帯への給付」は、通常は(所得を誤摩化していないとして)100パーセント低所得層に行く訳で(「給付」であれば中抜きも起こりにくい)、これを軽減税率の財源にするということは、実質的に低所得者世帯への給付切り下げでしかない訳である。
それ以上に、そもそもこの「財源論」というのを考え直す時期に来ているのではないかという気がする。
 最も重要なことは、何れにしても「財源は何か?」と言えば、特別な財源を手当てしない限り(例えば、気候変動対策のために炭素税を設定したり、第三世界の貧困対策のために航空税を設定したり、といったことである)基本的には「財源は一般会計です」ということである。
 これが「財源論」になるのは、各省庁が(あるいはその下部組織が)が既得権益として枠を押さえており、新しいことを始めるのはこの枠の取り合いであると認識されるからである。
 そうではなくて、「財源の優先順位」はなにか、ということを考えれば、こういったおかしな政策は生じる余地がない。

2015年8月18日火曜日

OLD HOPE: 反核、そして科学技術を人間のために

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どこかアレックス・ギネス演じるオビワン・ケノービを思わせる風格の老ジェレミー・コービン下院議員が次期労働党党首選挙で勝利するかもしれないというので話題になっている。

2015年7月20日月曜日

短期的な軍備増強より、恒久的和のための無数のステップを着実に

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恒久平和ないし永遠平和についての議論で、我々はカントに多くを負っている。
 カントは「恒久平和は、空虚な理念ではなく、漸進的に解決されて目標に絶えず接近していく課題である」と考えていた。
 カントの議論から二百年以上を経て、我々はこの問題に関して、たいした進歩があるように見えないかもしれない。
 しかしながら、議論は着実に重ねられており、それなりの進歩も重ねられている。
 例えば第二次世界大戦の処理はそれまでの帝国主義戦争の処理の「失敗」を反映したものだし、世界人権宣言はそこで求められたものの多くを反映している。
 また、近年では1998年の国際刑事裁判所の設置があげられるであろう。

近隣諸国の脅威に対応した軍拡は、いわば対処療法のようなものである。
 軍拡には、相手も軍拡を持って応じるのであり、両国の軍拡はとどまるところを知らないであろう。
 こういった、ポジティヴ・フィードバックのシステムを、文化人類学者グレゴリー・ベイトソンは「中毒」と呼んだ。
 軍拡は、文明の生む典型的な中毒症状である。

2015年7月5日日曜日

現実の危機としての「徴兵制」

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 徴兵制の現実性が話題になっている。
 自民党が出した「ヒゲの隊長」こと、佐藤正久参議院議員をつかったアニメーションは、「徴兵制は絶対にありえない。だって――」と言いかけたところで会話が終わっていて、理由が示せないのか、かえって不信感を煽る、という意見が出ている。


 一方で、民主党側の「子どもたちのみらいのために」というパンフレットは、解釈改憲によって徴兵制も可能性が出てきた、と主張しているが、これにも合理性などの観点から批判が出ている(たとえば池田信夫氏の「日本も徴兵制になるの?」)。
 実際問題として、「合理性」を理由にして徴兵制の可能性を棄却するののいくつかの意味で無理筋であり、少なくとも現段階では、将来世代において自分の意思に反して兵役につくことになる子どもが出てくるという可能性は、決して荒唐無稽なものではない。

2015年7月4日土曜日

ギリシャ国民投票に注目すべし。これは経済ではなく、政治の問題である。

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 他国の国民投票で、どちらに入れるかを外野からごちゃごちゃいうのはお行儀のいいことではないかもしれないが、日本のマスメディアはあまりに非難一辺倒なので、すこし論じてみたい。
 まず、誤解がある気がするのは、ギリシャはすでに2010年以降、IMFの緊縮プログラムを受け入れてこの状態ということである。
 その間、トロイカ(IMF、欧州委員会と欧州中央銀行)は4.5パーセントの財政黒字(利払い前)を要求し(チプラスの要求によって、これは3.5パーセントまで下がった)、政府支出は30パーセント以上削減され、その結果としてGDPは25パーセント低下した。
 大規模な年金や公務員の削減や、それに伴う失業は、基本的に緊縮策の結果である。
 その間、トロイカからやってくるお金は国内の生活と経済をよくするためにはほとんど使われず、9割がギリシャを素通りして外国の金融機関に支払われた。
 緊縮プログラムを受け入れる(Yesに投票する)というのは、これがさらに数年続くということである。

 おそらく、投票結果が Yes だった場合、チプラス首相は辞任することになる。
 ギリシャ憲法に詳しいわけではないので詳細は分からないが、選挙をしている時間はなさそうだし、おそらく大統領は第二党である新民主主義党(中道右派政党)党首であるサマラス前首相に、組閣を要請することになるだろう。
 Syrizaと連立を組んでいる小規模政党「独立ギリシャ人」がどう決断するかで情勢は若干変わってくるが、新政権が過半数を上回ることはなさそうなので、基本的にはサマラス政権の役割は、緊縮政策の受託表明と、選挙管理にとどまるであろう。
 仮に比較的政権がながく続けられたとしても、せいぜい今年いっぱいである。
 その間、緊縮政策は続けられるわけだから、税収はさらに落ち、不況はさらに深刻になる。
 第一党である Syriza が新政権にどういう態度をとるかは不明だが、国民投票の結果がよほど大差でなければ、新政権に協力的になるのは難しそうである。

 したがって、不況が深刻になる中、ギリシャは再度総選挙に挑むことになる。
 その場合、既存の二大政党にも失望し、また急進左翼連合(Syriza)にも失望した国民の支持の相当数を吸収するのは、極右「黄金の夜明け」である。
 黄金の夜明けの対外的な強行性(トルコやマケドニアに対する)がどの程度真実かは分からないが、少なくとも国内の少数派や移民の置かれる立場は急速に悪化するであろう。
 また、「黄金の夜明け」の手によってギリシャがEU離脱をするというのは、欧州委員会にとってSyriza政権が続くより好ましい状況なのか、というのは深刻に問う必要があある。
 少なくとも我々が、第二次世界大戦がドイツが深刻な不況に置かれ、そこから英雄ヒトラー待望論が生まれたという歴史に学んでいないことになるだろう。
 (ギリシャは小国で、世界のパワーバランスに対する影響は軽微だから問題ない、というのではあまりに無責任というべきではないか)

 では、Noの場合はどうなるだろうか?
 スティグリッツらが述べるように、これは多少マシなシナリオになる可能性を含んでいる。
 ギリシャはデフォルトすし、ユーロ圏から離脱することになるだろうが、デフォルトした国が立ち直ることは十分にある。
 最近ではアルゼンチンがそうである。
 ただ、アルゼンチンに対してはブラジルら周辺諸国の配慮が相当あったが、こういった配慮をするのがEUか、あるいは「新しい友だち」としてロシアや中国が立ち現れるのか、というのは定かではない(結局のところ、EUにとっての選択肢は「デフォルトし、ユーロ離脱を決める前に支援するか、そうなったあとに支援するか」ということでしかないのではないか?)。

 これまで、ギリシャの国家運営は極めて野放図であったという指摘もある。
 しかし、これは、ギリシャの寡頭政治のせいであったということを忘れてはならない。
 ギリシャの政治は典型的な二大政党制だが、それは理念による対立というよりは、左派の大物(パパンドレウ家を中心とした)と右派の大物(カラマンリス家を中心とした)のどちらがより子分を多く集めるか、という政局を軸に行われてきた。
 そのさいに(第三世界によくあるように…ただ、もちろん我が国の政治もにたようなものであるが…)有権者に関する利益分配を競うということが行われた。
 有権者と候補者が、利益分配によって結ばれる「クライエンタリズム」と呼ばれる政治形態である。
 それに対して、Syriza は市民社会によって担われた政党であり、Syriza 政権が確立したこと自体が、ギリシャがクライエンタリズムとそれに伴う野放図な財政から脱却できる可能性を示唆している。

 つまり、これは経済ではなく政治の問題である。
 国際社会は、ギリシャが、クライエンタリズムに戻るのでもなく、またファシズムに落ち込むのでもなく、市民の手で方向を決めていくことのできる政治体制を選ぶことで未来が開けるような形で支援するべきだ、ということである。
 しかし、現実的には、特に欧州の首脳たちは、「話せる」かつての仲間、あるいはコントロールしやすい指導者(全ギリシャ社会主義運動と新民主主義党という二大政党の指導者たち)がギリシャの支配圏を取り戻し、欧州委員会によって都合のいい小国でありつづけることが、ギリシャの市民生活やデモクラシーよりも重要であると考えているようにしかみえないのである。
 「ギリシャ問題の解決」とは、大国の首脳たちの、こういった態度を変更させ、ギリシャのデモクラシーを尊重することであり、そういった目的にそう形で「支援」が行われるべきだろう。

link:
ギリシャ債務に関するEU市民の嘆願書とQ&A [原文] [日本語訳]

2015年7月2日木曜日

将来、自衛隊が捕虜になると…

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 この辻元議員の質問は大変的確な問題を指摘しているように思う。

時事ドットコム:後方支援時の拘束「捕虜に当たらず」=岸田外相

 岸田文雄外相は1日の衆院平和安全法制特別委員会で、海外で外国軍を後方支援する自衛隊員が拘束されたケースについて、「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」と述べ、抑留国に対し捕虜の人道的待遇を義務付けた同条約は適用されないとの見解を示した。
 拘束された隊員の身柄に関しては「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と語った。辻元清美氏(民主)への答弁。 (2015/07/01-18:27)


 要するに「国際法」とは基本的に(憲法に相当する成文法はないわけで)慣習法の集大成なわけで、過去のいろんな事例から一般法則が積み上がっているわけである。
 そういった中で、一国だけ「自国の法律的な特殊事情」を理由に、違った動きをされても、国際法が想定する状況との齟齬が生じるわけで、他の当事者は(仮に誠実になろうとしても)困惑するしかないわけである。
 例えば、(中東あたりに派兵したみたいな状況を考えると)次のような状況が想定しうる。
 
某国「我が国の国境内で”イッタイカ"した"コーホーシエン"なる活動に従事していると主張している、日本所属の"ジエータイ"と名乗る、正規軍の武装をした一団を捕獲したが、貴国所属の軍隊に間違いはないか?」

日本「それは我が国の自衛隊で後方支援に従事していて、正規軍の武装をしているが、正規軍でもないし、軍事活動にも従事していない」

某「? 正規軍による軍事活動ではないということは、我が国に敵対する諜報活動に従事していたということか?」

日「諜報活動でもないし、貴国に敵対するものでもなく、あくまでアメリカを中心とした多国籍軍への後方支援である」

某「?? コーホーシエンというのは、兵站活動のことか? イッタイカという用語の国際法上の意味はなにか?」

日「兵站活動は軍事行動であるが、我が国の自衛隊が担っているのは、あくまで武力行使と一体化した一体化した後方支援であり、軍事活動ではない」

某「??? 軍事活動ではないなら、我が国に対する多国籍軍の指揮下にはなく、貴国が独立して行動しているということか?」

日「後方支援であるから、あくまで多国籍軍に協力した活動である。彼らは日本の法律に基づいて活動している。」

某「???? 指揮権、つまり彼らを我が国の支配領域に進行させた責任はだれにあるのか? 我が国はこれらの捕虜の処遇等について、どの国と交渉すべきであるか?」

日「我が国は自衛隊が軍事活動に従事していたのではないと考えているため、彼らはジュネーヴ条約における戦時捕虜ではないと考えている。ただし、我が国としては彼らが"国際人道法の原則と精神に従って取り扱われる"ことを期待する」

某「????? 重ねて聞くが、捕虜交換等の交渉は貴国と行うべきか?」

日「彼らは捕虜ではなく、また我が国は貴国と戦闘状態にある紛争当事国ではなく、貴国の兵士を捕虜に取ることもあり得ない」

某「?????? では、我が国は彼らをスパイとして我が国の国内法で裁判にかけ、場合によっては死刑に処することもありうるが、それでよいか?」

日「我が国は我が国の自衛隊が、"国際人道法の原則と精神に従って取り扱われる"ことを希望する」

某「???????????????????????」


 …アッラーもお困りだわ。

 …もちろん、これはシロウトの妄想なので、どうやったらこの状況で敵国に捕虜じゃない捕虜が"国際人道法の原則と精神に従って取り扱われる"ようにできるか、防衛省にきっちりシミュレーションしていただだきたいものである。
 いずれにしても、今、国会で行われているようなコンニャク問答が、紛争状況で敵国とも可能だとおもう発想こそが「平和ボケ」と言われてしかるべきなのではないか、と思わざるをえない。

2015年6月24日水曜日

バーニー・サンダース上院議員、2016年大統領選、民主党候補者予備選のダーク ホースか?

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 4月に2016年の大統領選の民主党候補者指名を獲得するための予備選に出馬すると表明したサンダース上院議員の支持率がバイデン副大統領をわずかに抜いて11.7パーセントの二位に上昇している。
 この結果に俄然注目も集まっており、絶版になっている回顧録がアマゾンで高値で取引されたり、関連書籍が相次いで出版されたり、ちょっとしたブームの兆しを見せはじめている。
 トップを独走するヒラリー・クリントン元国務長官との差は大きいが、仮に二位に終わっても、サンダース上院議員の健闘はアメリカ政界に極めて大きなインパクトをもたらし得る。




 バーニー・サンダース上院議員は、ヴァーモント州選出の、アメリカでは珍しい無所属の上院議員である。

 現在73歳。ポーランド系ユダヤ人移民の子どもとして、ニューヨークに生まれ、左派的な実験コミュニティとしての色彩が強かったイスラエルのキブツで過ごしたこともある。
 そして、もっとも重要なことは、彼が「アメリカ憲政史上初の、社会主義者上院議員」を名乗っていることである(下院は過去何人か例がある)。
 したがって、盛り上がるオキュパイ運動などからは、彼がもっともそうした若者たちに近い政治的立場を保っている現職上院議員であるとみなされることもある。
 ヴァーモント州は伝統的には共和党が強い州だが、比較的中道寄りの色彩が強く、ブッシュ(Jr.)政権以降の右傾化した共和党には批判的な有権者が多い。
 また、比較的裕福な地域で、利権団体も強くないため、ブッシュ政権批判の波に乗って無所属の「サンダース上院議員」を誕生させた。
Bernie Sanders 113th Congress.jpg

 所得の再分配や環境保護などで左派色の強い政策を主張してきたサンダース議員が健闘すれば、アメリカの主流政治家も、そういった政策に目を向けざるを得なくなるかもしれない。
 少なくとも、二位につけているサンダース議員を、討論会から外すということは不可能である以上、一般のアメリカ市民がそういった主張の存在に触れ、審判を下す機会が得られるというだけで、極めて大きな変化と言えるだろう。

 前回、緑の党から出馬したジル・ステイン医師も、今回も緑の党を代表して大統領選に出馬することを表明している。
 Exclusive: Green Party’s Jill Stein Announces She Is Running for President on Democracy Now!

ブタ生肉食は「考えるに良い」か?

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 最近のブタ生肉食禁止に関する議論を見ていると、生肉食を食べたいという人を馬鹿だと罵る傾向があるのが気になっている。
 今のところ、禁止の妥当性については異論も不満もないが、その決定が適切な調査と議論に基づいて行われたか、という点には疑問なしとしない。

2015年6月22日月曜日

安部内閣による安保法案の強行採決もあるかというタイミングなので、岸内閣の日米安保強行採決を振り返ろう

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  "『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』 の「反ナショナリズム」批判について"という記事にも書いたが、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉: 戦後日本のナショナリズムと公共性』は戦後日本のナショナリズムをめぐる定番とも言える書籍であり、大著であるが是非多くの人に読んでもらいたい本である。

 で、その中に日米安全保障条約の岸信介内閣による強行採決の様子が描かれており、なかなか(学術書とは思われない)臨場感のある記述になっている。
 現在、岸の孫である安倍晋三内閣も、安全保障関連法案で野党と対立しており、強行採決が予想されるところであり、かつての歴史から学ぶものもあるのではないかと思って、すこし長いが以下に引用する。


 しかし結局、社会党議員団は排除された。自民党議員たちは「ざまあみやがれ」「お前なんか代議士やめちまえ」といった罵声を浴びせながら、議場の入り口を破壊して入場した。清瀬一郎議長がマイクを握り、会期延長と新安保承認の採決を行うまで、わずか十五分ほどのできごとだった。
 この強引な採決法は、じつは自民党内でも十分に知らされていなかった。清瀬議長も多くの議員も、会期延長だけの議決だと思っていたところ、岸の側近に促された議長が新安保採決を宣言し、一気に議決してしまったというのが実情だった。自民党副総裁の大野伴睦は、安保議決を議場ではじめて知らされ、岸の弟である佐藤栄作蔵相に抗議したところ「はじめから知らせたら、みんなバレちまうから」と返答されたという。
 こうした岸の手法は、自民党内でも反発をよんだ。岸にすれば、安保承認には、自分の面子と政権延命がかかっていた。しかし、新安保が今後10年以上にわたって日本の命運を決定することは、賛否を問わず皆が承知していた。その重要条約が、このような方法で議決されることに抗議し、自民党議員二七名が欠席した。
 その一人であった平野三郎は、こうした方法で「安保強行を決意するような人に、どうして民族の安全を託し得ようか」と岸を批判した。三木武夫や河野一郎も退席し、病気療養中だった石橋湛山は「自宅でラジオを聞いて、おこって寝てしまった」。議場突破の状況に反発して帰宅した松村謙三は、車中のラジオで安保可決のニュースを聞き、「『ああ、日本はどうなるのだろう』と暗然とした」という。

 その前段の、社会党の対応なども含めて、可能であれば是非一読していただきたいが、この記述からも岸内閣時代に比べて、自民党の中の多様性が失われているという(よく指摘されることだが)危険性が感じとれるのではないか、と思う。

2015年6月18日木曜日

Google Photos はそんなに凄い? 実は Flickr も実質無料で無制限、しかも劣化なし

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写真サービス「Google Photos」レビュー(前編)--「無料」に関する制限やアプリの操作感という記事の、
 「Flickrなら1テラバイトを無料で使えるし」
 という記述を見て思い至りましたが、みなさん、Flickr (米Yahoo)の方針転換に気づいてない?

Konpuku-ji Temple, Kyoto

実は、Flickr も現在、実質的に容量無制限なのです。
 しかも、Flickr なら一眼カメラで撮ったような写真もほぼフルサイズで保存できる。
 日本からの利用で弱点はあるものの、今の所 Flickr の優位は揺らがない気がします。
 以下、そのあたりの経緯説明。


 Flickr は2013年のリニューアルで、年間25ドルはらうと無制限に写真がアップできたプロ・アカウントは廃止された(払い続けると継続できるとアナウンスされたが、継続しなかったので今でも使えるかどうかはわからない)。
 その時まで、無料アカウントだと月辺りのアップロード制限はともかく、フォトストリームが200枚でしか見られないということで、限りなくお試しアカウントに過ぎなかったのが、無料で1TBぶん、フルに使えるというかたちになった。
 あと、旧プロは写真のアクセス・データを見ることができるが、これも新コースでは廃止されている。
 私のようなアマチュアは必要ないが、もしかして本職の写真家で Flickr を使っている人は、これを目当てに旧プロを維持している人もいるかもしれない。

新コースは無料が原則だが、有料オプションとしては広告を消せる ad free (年50ドル)と、さらに1TB保存領域を拡張できる doublr (年500ドル)が提供されるとされた。
 ただ、当時から ad free はともかく、もう一個アカウントを使えばどうにでもなる容量拡張に 500 ドルはらうユーザーはいないのではないか、と指摘されていた。

ちなみに、私は2004年から Flickrを使い始めて、今現在44171枚アップロードされていることになっている。
 携帯の写真から、RAWで撮影したものを比較的高品質でJPEGにしたものやパノラマなど、容量は様々だが、今の所1TBの19パーセントほどを利用しているだけである。
 今後の利用方法次第ではあるが、あと10年は1TBで困らなそうである(RAWの写真をそのままアップできるようにしてくれると嬉しいし、そうなると状況は一変するが…)。

で、"No more Doublr for Flickr" という記事によれば、実はこの Doublr はリニューアルから半年もしないうちに密かに消されていた(「密かに」であって、例えばヘルプには記述が残っていたりする)。
 記事は、Yahoo のスポークスパーソンのエレン・コーンは「なぜプランを取り消したのか、何人のユーザーが同プランに申し込み、その人たちが返金を受けたか、についてはコメントを拒否した」と述べている。
 しかし、同時に、エレン・コーン氏が、(Doublr が取り消されても)1TBの制限を超えてしまったユーザーに関しても、そのアカウントにより多くのスペースを付与する形で利用できるようにする」と述べたことも伝えている。

ただ、コーン氏の言葉として次のようにも伝えている。
 「会社は容量を超過したユーザーに課金する予定はない。しかし、より多くのスペースを利用するためには、ユーザーは “in good standing" でなければならない」
 記事は、「コーンは、ユーザーが"good standing" であるとは正確にはどういう意味か、また彼ら自身がどうすると自分たちが "good standing" でない、と知ることができるのか、についての説明は拒んだ」と締めている。

“in good standing"であるとは、通常は人ないし組織が明示的な義務に適合するように自らをきちんと律している状態をしめし、サービス提供会社と消費者の関係性では「会費をきちんと払っている」というような意味合いが普通であると思われるが、ここではおそらく、倫理的でない、あるいは想定されていない使い方をしている、というような意味であるように思われる(ネットで拾ったアダルト写真を大量に確保したり、写真にみせかけた他のデータを保存したり、といった…)。
 なので、あまり気にやむ必要はなさそうだが、一応1TBを越えた時点で運営側のチェックが入る、ということは理解しておいたほうがいいのかもしれない。
 しかし、いずれにしても、Flickr も現在、無料で、実質的には容量無制限に使える。

また、話題になっていた写真の自動整理機能的なものも、実は実装されている(Google のそれと比べてみたわけではないが )。
 (※もちろん、データ化しているということは、Google と一緒で保存した写真をシステムのほうでデータ処理しているということだよね、というツッコミもあるかもしれない)
 他にも Camera Roll などがだいぶモダンなインターフェイスになって、機能も充実してきている。

最大の弱点は、Yahoo は日本だけ独立の会社として提供されており、Yahoo Japan は Flikcrを提供していないため、インターフェイスに日本語を選べないということであろう。
 より致命的なのは、iPhone 用の Flickr アプリもリニューアルして大変使いやすいものになっているが、日本語の iTunes Store からはダウンロードできず、アメリカ版(や他の国)のアカウントが必要になる、ということだろうか。

ただ、それらを勘案しても、ほぼフルサイズの写真が残せるというメリットは大きく、Google よりもアドバンテージがあるのは明らかだと思う。
 (Google photos は依然として Google の他のサービス、例えば Blogger と連動しているので、いずれにしても使うことになるという人は多いと思うし、私もそうなのであるが…)

2015年6月17日水曜日

iPhone の Safari から Evernote に PDF を保存する方法

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実は、最近気がついたので、メモ。

 iPhone の Safari でPDFを開いていて、これを Evernote に保存しておきたいな、と思ったとします。


 下の上むき矢印マークから Evernote を呼び出すと、基本的にはリンクしか保存されず、本体のPDFは Evernote に送られていません。
 しかし、 画面の真ん中あたりを一回タップすると、 PDFを iBook などに送れる状態になりますので、その画面の左上に出ている「次の方向で開く」をタップします。

すると、見かけは画面下部の矢印ボタンからいったのと同じような画面がでてきますが、ここで Evernote のボタンをタップすれば、PDFがEvernote に送られます。

2015年6月16日火曜日

TPP、日本のプレゼンスは高くなさそうな

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 Wikileaks 、TPP交渉資料をリーク: ニュージーランドの保険制度を標的かという記事を公開しました。
 Wikileaks によればこの透明性に関する付属書がターゲットにしているのは、国際的に評判のよいニュージーランドの制度で、現在多くの第三世界で、ニュージーランドをモデルに制度に関する整備、議論が進んでいる、ということのようです。
 これは日本にとっていいことか悪いことかわかりませんが、これも含めた一連のTPPに関するリークを見る限り、アメリカの政財界は日本で言われるほど「日本の(経済的)開国」には関心がなさそうな気がします。
 所詮、縮小する一億人市場ですから、長期的にはインドネシアやマレーシアの市場をどうするか、ということのほうが重要性は高いわけです。
 日本に関しては「船に乗せてやるから、できれば黙っとけ」ぐらいの認識なのかもしれません。
 だからといって、余波は来るでしょうし、一国だけの反対ではなく、福祉国家としてのニュージーランドや潜在的ターゲットとしての東南アジア諸国と情報交換をしつつ、監視と議論を進めていくべき、ということでしょう。

2015年6月15日月曜日

"THE WANTED 18" 危険なウシたちの物語

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2015年6月13日土曜日

人文学/人間性の危機とイノベーションの神学

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国立大学法人評価委員会の答申として、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院について」「組織の廃止や社会的要請の高い分野 への転換」が求められたということと、その際に人文学とはどうあるべきかという議論が抜けているということを、過去二回にわたって書いた。

国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話
人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?
ここでは、もう少し詳細に、(主にデリダの『条件なき大学』といった議論を参照しながら)人文学およびそれをになう大学のあるべき形(とそれが形成されてきた歴史的経緯)と今置かれている危機について議論してみたい。

2015年6月11日木曜日

AIIBで中国に拒否権付与か?:  …本日の産経新聞ブーメラン案件

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産経新聞が"AIIB、中国に「拒否権」"という記事を伝えている。

 【上海=河崎真澄】中国主導で設立準備が進む国際機関アジアインフラ投資銀行(AIIB)の運営をめぐり、発足当初から中国が単独で最大30%の議決権を握って「拒否権」を発動できる態勢となる見通しになった。米紙ウォールストリート・ジャーナル(中国語版)が10日までに伝えた。

2015年6月9日火曜日

救急車有料化の是非: 「財政健全化計画等に関する建議」とその報動から見る

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 先に毎日新聞の"救急車:「有料化」提案 財務省、軽症者対象に"という記事が話題になっていたが、その報道の元資料である「財政健全化計画等に関する建議」が6月1日付で発表になっていたので、それについて考えて見る(本当は大学のところを確認しようと思ったのだが、気になったので先にこちら)。

2015年6月8日月曜日

ギリシャ、スコットランド、スペイン、次に続くのはどこか?: トルコ総選挙でのHDP躍進について

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 トルコで総選挙が実施され、今や王であるかのように振舞っていた レジェプ・タイップ・エルドアン大統領のの与党、AKP(公正発展党)が議席を大幅に減らし、過半数割れの258議席にとどまった。憲法改正発議が可能になる330議席を目標としていた与党にとっては敗北と言っていい。エルドアン大統領が計画していた、大統領権限を強化する憲法改正に、国民がノーを突きつけた、と報じられている。

2015年6月5日金曜日

人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?

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 "国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話"の続き

 人文学が社会の役にたつ、というのはどういうことだろうか?
 教育という議論はひとまず置くとして、ここではあくまで「研究活動」に絞って、その機能につうて(相互にオーバーラップする)三つの側面に整理したい。すなわち、(1)経済的価値、(2)人権や正義、真善美に関わる価値、(3)カウンターサイエンス、である。


2015年6月1日月曜日

国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話

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 産経新聞の「国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換 文科省が素案提示」という記事が話題になっている。
 その中でも特に、
 通知素案では、少子化による18歳人口の減少などを背景として、教員養成や人文社会科学などの学部・大学院について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努めることとする」と明記された。

 の「社会的要請の高い分野への転換」が議論の焦点である。学問を評価するのに、「社会的要請が高い」ということはどういうことか、ここでは定かではないからである。
Europe 2003
 どんな場合でも社会的要請とは一枚岩ではなく、ある時代の社会的要請が結果的には極めて有害だった、ということもありうる。そういったとき、いち早くその可能性に気づき、警鐘を鳴らし続けることは、価値を扱う学問である人文学にとって極めて重要な仕事である。しかし、多くの場合それらの作業は簡単に評価しうるものではなく、特に政策がますます経済指標に従属するようになっている昨今、これらの評価は危険な作業である。
 かつて文化使節として来日したフーコーは記者に記者に「激しい自国批判を続けるあなたをフランス政府が文化使節に任命する理由はなんでしょうか?」と問われて「ご存知のようにフランスにとってプワゾン(毒)は重要な輸出商品なのです」というようなことを答えていたと記憶する。このことは、デリダのファルマコン(毒にも薬にもなる存在)としての哲学、という議論も想起させるだろう。日本の人文社会科学は、ファルマコンであるべきという「社会的要請」に十分に答えることができているだろうか?
 こういった問題について、十分に議論が尽くされた結果として「社会的要請」という言葉が使われるのであればそれは需要せざるを得ないが、大学法人評価委員会の議論を見ていくと、どうもそうとは言い難い状態にあるように思われる。
 以下、具体的に見ていこう。

2015年5月31日日曜日

Kindle本、最大50%ポイント還元セールで学術書が…

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 Kindle本、最大50%ポイント還元セールらしいのであるが、今回のセールには、ふだんあまり割引にならない学術系の書籍が多く含まれているのが特徴。
 …しかし、そういうのを抽出してくれるツールはないもんかね。Kindleの検索は、なにをどうやっても玉石混交になるので、読み応えのある本だけ探したいというときは、図書館や本屋の偉大さを逆に痛感する次第である。

2015年5月21日木曜日

ドイツ戦後補償問題 ギリシャ SYRIZA 政権の主張について

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 たぶん、安倍晋三首相の「ポツダム宣言しらんがな」答弁が話題になっている日本にとっても重要な話なので、あらためて議論しておきたい。

 ギリシャの SYRIZA 政権がドイツに対して、第二次世界大戦の賠償を求める、というニュースが報じられている(例えば「ギリシャ、駅で第2次大戦のビデオ上映 独に賠償求め圧力」)。
 こういった記事への反応を見ると、先にドイツのアンゲラ・メルケル首相が日本を訪れた際、安部政権の戦後責任への態度について苦言を呈したと報じられたことから、「ドイツも戦後責任の取り方を近隣国から認められていないではないか」「一度謝ればいつまでも賠償を払わなければいけないのでは」といった意見が見られるが、これは誤解である。
 もともと、SYRIZA 政権は、人道的観点から、戦後ドイツに認められたような主権者債務(Sovereign Debt )の見直しのための国際会議開催を求めている。そして、これが認められないのであれば、同様に「人道的見地から」ドイツに対してギリシャが認めた戦時賠償権の放棄も見直されなければいけない、ということを述べているのである。

太地町のイルカ追い込み漁を水族館が利用することの是非について

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某所にコメントをつけたので、備忘録的に…


 この問題を、追い込み漁の倫理性全体の話として捉えると、話が複雑になるのではないでしょうか。
 まず、最初のステップとして、「食べる」という目的を外して「水族館展示で追い込み漁で捕獲したイルカを利用することが妥当か」ということに絞って議論するのがいいように思います。

 で、「世界動物園水族館戦略」(日本語版、PDF)というのがあります。
 このキャッチフレーズとして「メナジェリーから保全センターへ」とありまして、メナジェリーというのは、「見世物用の動物園」ぐらいの意味です。
 つまり、野生動物の入手が制限されていき、また野生動物そのものが種類も絶対数も減らしている中で、動物園・水族館の役割として「交配による種の保存」という意味が非常に大きくなっている、ということです。
 このなかで、コンスタントに野生の個体を捕獲し、補充しているイルカというのは、ちょっと特殊な状態に置かれている、ということです。

 また、「『耐久消費財』のイルカを見に行く?」という記事があります(ちょっと古いですが、今読んでも非常に有用な記事です)が、このなかでも書かれているのが、日本の水族館におけるイルカの飼育状況は、必ずしも良好なものではない、ということです。
 これは2010年の記事なので、状況が変わっている可能性もあるのですが、そもそもJAZAはこの記事のデータの元になっている「種保存委員会報告書」を(ちょっと見た感じ)ネットで公開しておらず、確認できないわけです。
 JAZAのサイトは、今回の件についても説明らしきものを掲載しておらず、組織的体力の問題もあるので一概には非難できないにしても、情報公開が非常に不十分であると言えます。

 つまるところ、朝日新聞にJAZA前会長の山本茂行氏の談話として「日本の水族館や動物園は、太地町から安くイルカが手に入れられるので、保全への取り組みを棚上げしてきた」というコメントが紹介されていますが、そこが最も大事な点であると思います。

 おそらく、日本の水族館は数がやや多すぎ(内陸の京都にまである、という …)、また商業ベースという側面が強いため、客が呼べるイルカショーをどこもがやりたがる、という過当競争の状態にあるということが問題なのです。
 なので、イルカを持つ水族館は絞り込むべきですし、そういった館には十分な育成・繁殖環境を与えられるように、公費支援も含めたなんらかの措置が行われるべきでしょう。

 今回の国際的プレッシャーというのは、そういうものとして読み込むべきなのだと思います。

2015年5月18日月曜日

ふたつの貧困: 大阪市廃止(大阪都構想)住民投票結果について

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 大阪市廃止(大阪都構想)住民投票は、賛成694,844票、705,585票、その差0.8%程度という実に僅差で否決された(大阪市の結果発表)。
 

2015年5月7日木曜日

サルのシャーロット、大江健三郎、"Change" の三題噺

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 …の件、たくさんRetweet されています。

 で、ひとつ思っているのは「過剰反応」という評価はちょっと違うと思っていて(ある意味より深刻なんですが)、たぶん、高崎山動物園に抗議した人のうち、ある程度の割合の人の頭の中には Emobile の宣伝で、オバマ大統領(当時上院議員)の選挙キャンペーンのキャッチフレーズだった "Change" をつかって、アメリカの人々からの抗議で放送中止、という件が念頭にあったんじゃないだろうか、という気がします。
 (で、やはり「サル」が西欧社会で嫌われがちな動物であって、たとえばイヌの名前だったら許容されてもサルだとダメなのではないか、という推論が働くことは、さほど不合理とは言えないのではないか、と思います)

2015年5月5日火曜日

こいのぼりフェスタ1000(芥川桜堤公園)

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 こどもの日ということで、こいのぼりフェスタ1000(高槻市 芥川桜堤公園)に行ってきました。


2015年5月3日日曜日

「環境権」は必要かもしれないが、自民党憲法案の「環境権」は意味がない

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 自民党の改憲マンガ「ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?」(PDF)すでに、随所で批判が出ていますし、それぞれもっともだと思います。
Peace Boat 2004
楚辺通信所、通称像の檻。2006年に住民に返還されたが、
米軍による土壌汚染が明らかになった。
なので、いまさらではありますが、憲法記念日ということで「わたしも一言」みたいな感じで、ここは環境権の問題についてちょっと考えてみたいと思います。

 まず、「自民党の改憲漫画から「押しつけ憲法論」を考える」は大変賛同できる内容なのですが、環境権については以下のように書かれていて、これだけでいいのかというのはちょっと議論のあるところかと思います。

また、日本国憲法に環境権について直接定めた条文がないのは確かですが、幸福追求権(憲法13条)をはじめとする人権のなかにそのような権利が含まれることも争いがないところです。実際、最近でも、干拓のための「ギロチン」とも言われた潮受け堤防で台無しになった諫早湾について、裁判所が堤防排水門の開門を命じる判決を出したりしています。
もちろん、自民党の改憲案では現状の前進にならないというのも確かなところですので、結論は変わらないのですが…。

 まず、くだんの漫画ですが、環境権について「エコとロハスは女の必須事項です」と登場人物に述べさせていて、まず第一に何がいいたいんだかわからない。
 ごまかしたいところは女性キャラに情緒的な発言をさせておいてごまかそう、という態度がミエミエで、フェミニズム的にも問題があるところですが、そもそも環境権の問題とのなかで、ロハス的なものが占めるのは極めて小さな部分であるということをミスリードせようということでもあるでしょう。

2015年4月30日木曜日

今後、日本に双方向の科学技術コミュニケーションは定着するであろうか?

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WWViews Bolivia
生物多様性についての熟議に参加する人々
(2012 ボリビア)
2010年に、そういう問題についての考えをまとめていたのであるが、第5期科学技術基本計画の時期ということで読み直してみた。今でもいうべきことはほとんど変わらないように思われるので、ここに公開する(もともと、公開を前提に書いたものではないので、若干個人や組織に依存する情報が入っていたので、そこだけ修正してある)。

『世界の手触り: フィールド哲学入門』

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  一章、担当させていただいた『世界の手触り―フィールド哲学入門 』が出ました。京都大学時代の指導教員である菅原和孝さんの退職記念論文集です。弟子の論文だけではなく、菅原さんと鷲田清一さん、池澤夏樹さんとの対談など、なかなか豪華なつくりになっておりますので、機会がありましたらお手にとっていただければ幸甚です。
 (※写真は退職記念パーティの日ですが、ご本人のいい写真が iPhone の中になかったので、とりあえず総長のご挨拶シーンを…)




2015年4月27日月曜日

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』 の「反ナショナリズム」批判について

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 公開設定を忘れていてちょっと間が抜けてしまったが、公開↓

「すごい日本」ブーム…底流には何が? (web魚拓) という記事がある。
 ここに萱野稔人津田塾大教授ら2名の識者がコメントを寄せているが、実質的に「すごい日本ブーム」批判を批判する内容になっている。通常、こういったメディアが二人の識者からコメントを取る場合、立場のことなる人を掲載するものであるが、今回は読売新聞の意図は明白であろう。
 また先崎彰容東日本国際大教授は、「すごい日本ブーム」批判に対して、
ともすれば、他国への批判や罵詈ばり雑言も目立つのは、そのためだ。一方で日本肯定と同じぐらい、日本や権力を否定する言説も目につく。一見、対立するようだが、同じく精神の不安を表している。不安だからこそ、過激な主張を声高に叫ぶのだ。

 と述べ、「すごい日本」ブーム批判も自国批判もどちらも「同じく精神の不安を表している」のだという見解を述べているが、萱野氏は「自己を肯定したい気持ちは根本的なもので、個人にも国にも、普遍的に存在する」と「すごい日本」ブームを肯定する一方で、批判する側には、「「自分は、日本を自画自賛するような価値観を超越している人間だ」という、ゆがんだ自己肯定があるように感じる。このように自己肯定の気持ちは知識人も乗り越えられない。批判する欺瞞に気づいた方がいい。」と、「すごい日本」ブーム批判は「ゆがんだ自己肯定」であるという。
 日本を肯定することは「すなおな自己肯定」で、それに反省的になると「ゆがんだ自己肯定」とは、反省(Reflexivity)を基盤とする近代哲学の総否定であるように思われるが、萱野氏にとってはこれは健全な批判ということになるのだろうか。
 もちろん、これは新聞記事のコメントなので、編集などが入り、本人の意思を十分に反映していない文章になっている可能性も否定できない。
 しかしながら、萱野氏は同じような議論を著書 でも展開しており、これが単なる編集の結果でないことは明らかであるように思われる。 ここで、氏の著書について検討をするなかで、そのことについて考えてみたい。

2015年4月25日土曜日

選挙カーと、議員報酬と、政策提言のコスト、という話。

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 以下のような Tweet をしたところ、500回ほど大変反響があった。

  ただ、実のことを言うと、こればっかり Retweet されるのは非常に違和感があって、本当に注目してほしい Tweet はこちら

 特に、そのあとの会話にもある通り、高額な供託金の改定がキモであろう。
 また加藤良太氏の


 は我が意を得たりのコメントで、政治に関して政治家が発信する情報を受け取るだけではなく、自分たちで発信していく、という文化をつくれなければ、単純に選挙カーを廃止してどうこうなるというものでもなかろう、と思う。

 もちろん、異質なものは「煩い」 のである。
 逆に、自分の生活に関係があると思っているものに対しては「煩い」判定の閾値は上がる。
 選挙に行くような高齢者が選挙カーをあまり問題にせず(昨日握手した相手の名前が聞こえるのは、あまり気にならないものである)、政治に距離を感じている(従って投票率が低い)層が選挙カーを煩いと思うのはいわば当然である。
 選挙カーに対して消極的なサボタージュ(五月蝿い候補にはいれない) ではおそらく十分ではなくて、自分にとって支持できる候補者を作っていかないと、なかなか古い政治、古い選挙活動からは脱却できないだろうな、ということ。

2015年4月19日日曜日

「被災者(被害者)」の多様性に配慮を払うこと、あるいは二重三重の被害者、ということについて

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【連載・第1回】震災報道で気づいた「放置される性虐待」~若年女性の“見えない傷”と「レジリエンス」

 についたコメントがなんとも辛い。

 一応、連載の三回目まで読んだところで、コメント。

 その地域の多数派(/マジョリティ)が深刻な被害を大規模災害時には、結束が強調され、復興のために大規模な(社会的、経済的、あるいは公的、私的な)支援が展開されるというのは当然のことである。
 その一方で、同じ幸福追求権を持っているはずなのに、ある種の「被害」は社会的に十分な支援が与えられないばかりか、場合によっては(スティグマ化が恐れられる場合)被害者がそれを口にすることすらはばかられる、というケースはある。
 その二種類の落差に気がついたときに、後者の「被害者」(マイナーな被害者)が二つの「被害」の扱いの差に愕然とするということは大いにあり得る。

 また、災害からの復興が結束を強調すること、また政府や地域マジョリティが想定する「一般的、標準的な被災者像」を想定すること、また被災者自身が想定されたやりかたで被害を訴えること(ポスコロ流に言うと「被害者の語りが定型化していくこと」)のなかで、マイナーな被害者(この時点で、しばしばメジャーな災害とマイナーな事件の二つの事象から二重に被害を受けている「被害者」であるかもしれない)に適切な支援は後回しにされたり、被害を訴えても聞き届けられることがない、ということは生じうる。
 あるいは、場合によってはマイナーな被害者の「被害者の語り」は定型化された被害者の語りから外れるため、メディアなどに載りにくいだけならまだしも、それを表明すること自体がマジョリティへの裏切りや攻撃とみなされる、という事象すら生じうる(ここで、「第三の被害」が発生するわけである)。

 特に、セクシャリティに関する事象は、こういった問題を生じがちである。
 こうしたことは、別に日本に限った話ではなく、全世界の災害や紛争などにさいして発生しており、そういった問題に対する研究もそれなりに蓄積されている。

 しかし、残念ながらそういった問題について、日本の行政の反応は全体に鈍いし、社会的にも「多様で異質な語り」に対する抑圧は、そもそも平素から日本社会の大きな問題であるし、対策が十分とは言いがたいように思われる。

 …ということで、当該記事のコメント欄も、そういった問題を立証してしまっているように感じられる。
 もちろん、「著者がそのあたりを十分に説明していない」という批判はあり得るとは思うが、おそらく殆ど全ての人にとって、人生のある局面でこういった問題に直面する機会があったとして、それはもっと(この記事に書かれる以上に)僅かな兆しとしてしか与えられないであろう、ということは考えておきたい。
 つまり、ある、とても遠慮がちな「マイナーな被害者の語り」に直面したときに、我々は「今はもっと大事な問題があるし、みんな頑張ってるんだから、君ももう少しがんばりなよ」みたいなことを言ってはいないか、という反省が必要だ、ということである(もちろん、私自身も現実の問題に直面したときに、あまり繊細には振舞えていないだろうな、という自己反省を込めての提言である)。

 その上で、確かに著者の前振り「地方を、そして日本を本当の意味で活性化させるために必要なものは、何でしょうか。それは、実はとてもシンプルで、若い女性たちのもつ力を最大限活かすこと。(中略)自ずと人口は増え、地方自治体は消滅から再生へと向かうはずです」にこの議論が続くことには若干の違和感を感じざるを得ない。
 こういった問題というのは、定型的に提供される(しばしば家父長的な社会を想定した)福祉国家型の支援と、"若い女性たちのもつ力を最大限活かす"といったネオリベラルな根性論の間に落ち込んでしまった、個々の主体が抱える困難、ということであるように思う。
 その場合、困難を抱えた女性たちがある種の解決策を見つけることと、地方自治体にとって好ましいことが起こることと、もちろん重なる部分は多いであろうが、重なることを前提としたり重なることを求めたりしてはいかんのではないか、という危惧を感じるというのが正直なところである。

2015年4月17日金曜日

「人間(労働力)の原価」ということについて

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参加した牛丼チェーンのパート、神奈川県の30代男性は時給約1千円。シフトの多い月でも収入は15万円ほどで貯金はゼロという。「まともな生活を送るには時給1500円が必要だ」と話した。

2015年4月16日木曜日

「科学と差別」(2)についてのフォローアップ

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 先のブログ「『科学と差別』(2)あるいは低線量被ばくの問題について」にいくつかコメントをいただいたので、簡単にお返事しておきたい。

2015年4月11日土曜日

科学と差別について(2) あるいは「低線量被ばく」の問題について

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 (「科学と差別」に関する議論の続きとして…)


 「差別」やヘイトスピーチは、近代的な民主国家において事実上、言論の自由に制限を加えることができる、数少ない根拠のひとつになる。
 そのため、何が差別にあたるのかは極めて慎重に見極める必要がある。


1)
IMG_1444  「言論の自由」、つまり自由に自分の思想を表現すること、また他者の思想を批判すること、は民主制度の根幹であり、人権のなかでも極めて重要なものである。
 その一方で、たとえばプライバシーの侵害をしないように、という規制も受ける。
 ある言説が差別である、また差別的言説の強力な形態としての(ヘイトクライムを誘発する、という意味での)ヘイトスピーチであるというような場合は、たとえばメディアが自主的に規制を行ったり、場合によっては法的な規制を行う、ということが考えられる。
 人権を制限するのは他者の人権のみ、という近代民主国家の理念に忠実であれば、プライバシーや誹謗中傷、という問題で(最終的には裁判所の判断に委ねることになるだろうが)言論が制限されるのはわかりやすい。
 しかし、「差別」というのは、個々人の権利とのコンフリクトというよりは、個人の言論が、より集合的なグループ(一般的には社会的に「マイノリティ」のグループ)の成員に対する集合的な権利侵害になる、というケースを名指すことになる。
 したがって、プライバシーの侵害といった問題よりも問題は複雑であり、慎重に考える必要がある。

2015年4月6日月曜日

お知らせ グローバリゼーションを考える:99パーセントの声 With 投票割!

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以下のようなイベントを企画しました。
 ATTACは各町にこまごまとあるのが理想なので、できれば ATTACたかつき的なものを立ち上げたいと思ったりしておりますので、ご関心のある方はご参加下さい(もちろん、たんなる冷やかし歓迎です)。
 会場の都合もありますので、メール(takastuki [at] attac.jp)か Facebook Page のほうからお申込みいただけると幸いです。


グローバリゼーションを考える:
     99パーセントの声 With 投票割!

(選挙に行って、地元で美味しいものを食べて、社会について考えよう)

主催: ATTACたかつき(仮称) 連絡先:春日
共催: ATTAC関西(予定) 
場所:カフェコモンズ http://cafe-commons.com/
日程: 2015年04月12日 17:00〜 (16:30 開場)
申し込み: takastuki [at] attac.jp 
 Facebook page からも申し込み可能です。
※お席に余裕があれば当日でもご入場いただけますが、お席に限りがある(25人程度)のため、できればメールでお申し込みください


第一部: 世界社会フォーラム 2015 チュニスから
 17:00〜
 3月24日から28日の会期でチュニジアで開かれる世界社会フォーラムをうけて、現地からの報告を聞き、今後日本でグローバル化の問題について、どのような議論をしていけるか考えます(参加した方の報告を予定)。
 どなたでもお気軽にご参加いただけます。世界社会フォーラムについては、
http://blog.socialforum.jp/ で現地からのレポートが読めますので、併せてご覧ください。
 参加費: 無料(ワンドリンクご注文ください)


第二部: 社会運動にとってのピケティ
 18:00〜20:00
 ベストセラーになったピケティの『21世紀の資本』で示されているような議論について、専門家を招くなどして継続的に議論していきたいと思いますが、そのさいにどのような論点があり得るか、まずフラットに考えてみたいと思います。講演者を呼ぶための準備会合でもありますが、基本的な資料は準備しますので、どなたでもお気軽にご参加下さい。
 参加費:食事付き(飲み物別) 2000円
   選挙割として、当日行われる自治体議会選挙の投票証明をお持ちの方は500円割引いたします。またお食事がいらない方なども、お気軽にご相談ください。



参加費について
 選挙割として、当日行われる地方議会選挙の投票証明をお持ちの方は300円割引いたします。
 また、お食事がいらない場合などは割引いたしますので、事前にご相談ください。




PDFちらし

科学と差別について

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 科学と差別の関係は複雑である。
 差別の定義も多様であるが、ここでは「本人の行為ではなく属性によって取り扱いに差をつける」ということにしておく。
 また「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」という言い方をすることがあるが、これはたぶん「属性」だと意味がよくわからないことを配慮して言い換えたものではないか、と推量される。ここでいう「属性」とは、たとえば国籍や民族、宗教、人種、家柄、肌の色、心身の障がい、性的指向、といったことである。
 単に「差をつける」のか「不利益な扱い」に限定するのかは論点の一つである。
 一般には、たとえば「黒人/アフリカ系であればトラック競技が得意であろう」といった前提で物事を決めるのも、表面的には「不利益」ではなく優遇措置に見えるが、それによってトラック競技をしたい「黒人ではない」人々に不利だということだけではなく、トラック競技が得意であろうと決めつけられる当人にとっても圧力になり、また他の社会的選択の幅を狭めるといった問題から、差別に該当するのではないか、という見解が主流であろう。
 これは、一見「不利益ではない差別」であるが、「広い目で見れば当事者に不利益」という言い方もあるため、先の定義に「不利益な扱い」を入れることが間違っているのかどうかというのは単純ではない。
 基本的には、利益があれば誰かに不利益であることや、自己決定権の侵害そのものが不利益であるという点を配慮すれば、「不利益な」が定義に含まれていても間違いではないと思う一方、「不利益」という文言を入れることによる誤解が生じる可能性を考えれば、定義にそれは含まれないほうがいいように思われる。
 (これは、カントの「黄金律批判」とも通底する問題でもあるだろう)。
 また、「属性」を「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄」に書き下すことも、理解を容易にするメリットは否定できないが、「努力」の解釈次第で、差別性を否定するへ理屈を可能にするため、注意が必要である。
 こういった問題は、特に比較的軽微な精神障害などによって発生しうるであろう。また、たとえば国籍や宗教は変更が不可能な事項ではない。しかし、通常の社会ではこれらをあえて変更することは稀であり、また変更によって生じる社会的・心理的負荷を考えればそれを容易に求めるべきではないことも明白であるため、通常はこれらは「属性」の問題に帰することにされている。
  さて、いずれにしても「取り扱いに差をつける」というのは社会的事象であるため、「差別」は本質的には社会的な問題ということになる。
 「科学知識」が差別にどう関わるか、という点は複雑な問題である(本来ならば「知の権力性」というよく知られた問題にかかわらざるを得ないところであるが、ここではあえてその説明の仕方を採用せずに議論を進めてみたい)。
 第一に、「属性」というのは、あるいはなにを(先に述べたような誤解を招くことは承知で、あえて簡便のために言うと)「努力では変えられないもの」とするか、という点については、科学知識の発展によって変化することはあり得るだろう。一方で、その「発展」によって得られた知見が、それ以前のものよりマシである、ということには必ずしもならない。
 こういった問題を考える際によくあげられる事例が、米国マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニャード島の手話文化である。
 同島に植民した欧州系の人々の子孫は(小さい島で、比較的近親同士での結婚が続いたこともあり)遺伝的にろうあの比率が高かった。そのピークを迎えた19世紀中頃では、人口の4パーセント程度がろうあであったと記録されている。
 そのため、この島では手話が極めて高度に発達し、ほとんどの島民が、ろうあかそうでないかにかかわらず手話を使うことができ、非ろうあ者どうしでの会話でも通常の話し言葉と手話が混交して使われていた、という。
 こうしたケースでは、医学的には「ろうあ」であっても、社会的な属性として「ろうあ」が障がいとして認知されることはほぼなかったであろう。
 「属性」といっても、本質的には社会的な問題であることが理解できる。
 では、科学が関わるケースとはどのようなものであろうか?
 現代社会において最もよく議論される事例は、性的指向(つまり異性愛/同性愛)を巡る問題である。
 長らく、キリスト教社会では同性愛は当人のモラル(悪徳とか不良行為といった)に還元される問題であった。
 これが、科学の発達により病理や形質に関係する問題であると考えられるようになる。
 たとえば、『クィア・サイエンス―同性愛をめぐる科学言説の変遷』といった著作もある神経学者のサイモン・ ルヴェイは自分自身もゲイであることを公表しているが、その同性愛の原因を脳視床下部の構造の違いに求めている。
 ゲイになるかどうかということと、身体構造や遺伝的な条件がどう関係しているかという問題については、他にも様々な仮説が提唱されており、今の所科学的に確かなことはいえない。
 しかし、もし身体的な「属性」の問題だとすれば、それは差別の問題だ、ということになる。
 また、アメリカのキリスト教保守派にとっても、神に与えられた身体の属性としてゲイであることが定められているのであれば、ゲイであることは自然であり、神の意志であり、したがってゲイとして生きることは権利である、ということになろう。
 そのため、たとえばダン・クェールのようなアメリカの保守派の政治家はしばしば「ホモセクシュアルであることは生物学の問題ではなく、選択の問題である」と主張するのである。
 しかし、ゲイであることが選択の問題ではなく、「属性」の問題だというのは、クェールのような人々にとって常によくないニュースで、ルヴェイのような人々にとってはいいニュースかというと、必ずしもそうとは言えない。
 つまり、「属性」が病理学的な問題である時、その「属性」は治療の対象になるべきか、という次の問題が発生する。
 また、場合によっては、遺伝的にそれが同定可能である場合、 事前に両親がそれを診断し、場合によっては中絶などの手段を選択するか、という問題にもなる。
 現代日本において子どもが同性愛者の可能性があるからといって中絶を選択する両親はあまり多くはない気はするが、仮にそういうことがあるとして許されるだろうか?
 あるいは、先にあげたろうあや他の「障がい」(すでに述べた通りなにが障がいかは概ね社会的に決定されるものである)だとどうだろうか?
 もし、それらが許されないとすれば、社会的に許されてしまっている事例との差はなんだろうか?

 また、仮にそれらの特性が治療できるようになるとして、治療すべき病気や障がいと、単なる個性の間はどんなものであろうか?
 つまり、遺伝子治療などの倫理としては、病気や障がいをなおすことは許されるが、デザイナーズ・ベイビー(親の都合で好みの「能力」を「伸ばす」ような治療)はゆるされない、とされている。
 しかし、なにが障がいでなにが特徴なのかは明示的に定義できるものではない。
 たとえば、身長が1メーターを切る可能性が高い場合、胎児に遺伝子治療が(もちろん、可能になったと仮定して)施されることは「治療」と表現されるであろう。
 一方、150センチの身長を180センチにする操作は明らかにデザイナーズ・ベイビーであろう。
 では、この100センチから150センチのあいだの、どこに我々は線を引くべきであろうか?
 たとえば、一つ合理的な答えは、その国ないし地域の平均身長からXセンチ以上さがあれば治療の対象になる、というものであるが、この場合、たとえば両親が日本から(平均身長の高い)オランダに移民したら、子どもに対する操作が「デザイン」から「治療」に変わるのだろうか?
 また、おそらくろうあ者ののように、その特性によって「手話」という文化圏を形成している人びとにとってしてみれば、新たに生まれてくる、ろうあ者コミュニティを構成するであろう人々を、事前に選別し治療によって消滅させることは、文化の存続にとって大きな脅威である、と考えらえても当然であろう。
 では、ろうあ者は独自の言語(手話)をもっているため独自の文化の担い手であるが、そうでない障がいや病気の人々はそうでない、という見解は妥当なものであろうか?
 こういった問題を考えるために、アメリカにすむ聾唖のレズビアン・カップルが、遺伝的にろうあの家系の友人から精子提供を受けて、ろうあの子どもを作った、というケースを考えてみよう。
 このカップルからすれば、ろうあという自分たちの文化を受け継ぐ子どもをつくるということは自然だ、ということになるだろうし、遺伝的原因によるろうあという属性を共有するヘテロのカップルが、その遺伝子を受け継ぐ子どもをつくることが権利として保証されるのであれば、当然自分たちに対しても同じ権利は保証されるべきだ、ということになる。
 一方、ある種の人々からはこれは「わざと障がいのある子どもを生んでいる」ということになるし、また(逆に?)これは親が遺伝的に好ましいと思われる特性を選択している、デザイナーズ・ベイビーである、という批判もある。
 こうした問題を見てみれば、科学が差別を生むというわけではないにせよ、科学の進歩に従って人間社会の関係性のあり方も大きく変容し、その結果差別問題にも大きな影響を及ぼしていることがわかる。
 そして、「現段階での科学」がもたらす(ように見える)回答が、長期的に見てベストな回答であるかどうかはわからない。
 にもかかわらず、我々が発展してしまった科学を使わないで済ませる、という選択をすることは、通常極めて困難である。
  暫定的にせよ、唯一言えること、あるいは強調しなければいけないことは、差別の問題は常に人権(あるいは「自由・平等・連帯」という現代の人類社会の原則)に立ち返っって判断しなければならないということである。
 たとえば、出世前診断によって産む産まないの判別が可能になった時、産む者がどちらの選択をしても批判にさらされるであろうことは容易に想像がつく。
 「障がいのある子が生まれることはわかっていたのだから、その子を育てる追加のコストは社会に転嫁すべきでなく、その選択をした個人が負うべきだ」という非難などは、特に日本社会で強く現れるであろうことが憂慮されるであろう。
 この時大事なのは、連帯の原則、あるいは福祉国家の原則として、当事者に瑕疵が有る無しにかかわらず、追加のコストは社会で広く浅く負担する、という原則であり、先に例にあげた「ろうあのレズビアン・カップルの子ども」という事例も、本質的にはこの応用問題として捉えられるべきだろう。


※続き、的なもの
 →科学と差別について(2) あるいは「低線量被ばく」の問題について

2015年3月19日木曜日

チュニスの博物館襲撃事件。世界社会フォーラムは開催。

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 チュニジアの博物館襲撃事件を受けて、来週から行われる世界社会フォーラム2015(チュニス)の組織委員会が声明を発表しています。社会フォーラムは予定どおり開催される模様。以下に日本語訳を掲載しました。

 チュニスでの博物館襲撃事件を受けて、2015チュニスWSF組織委員会が声明を発表

 チュニジア政府は今回の犯行がアルカイダ系の「チュニジアのアンサール・シャリーア」による犯行だと断定している模様。アンサル・シャリーアは2013年の、ショクリ・ベライド氏ら二人の野党指導者暗殺にも関わっていると言われているが、実態は今ひとつ分からない。

 写真は、ベライド氏暗殺のすぐあとに行われた2013年の世界社会フォーラムのオープニング・マーチ。ベライド氏の写真を掲げる左派の学生達。

 

DSC00016
DSC00015

 

 チュニジアはアラブ世界の一員であると同時に「ヨーロッパと同じ地中海世界」という意識も強く、労働運動を中心に左派運動も強い。

 こういった、世俗主義的な運動に関わる人々との協力、連帯関係をきちんと築いていくことが、イスラム主義の過激化に対抗するのに大事であろう。

 そういう意味では、今回はチュニジアにいけないのが残念である。

2015年3月8日日曜日

マラジョアラ馬

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 Marajoara Horse
ドイツの研究者(学生?)から「お前が Flickr に上げている写真(↑これ)は、マラジョアラ馬 (Marajoara Horse) という珍しい品種だから本に使わせて欲しい」という連絡を受けた。
  2009年にブラジルのベレンで行われた世界社会フォーラムに出かけた。ベレンはアマゾン川の河口にある町である。会期後、二泊ほどマラジョ島 (Ilha de Marajó) に観光に出かけたのだが、写真はその時のものである。マラジョ島は、アマゾン川の河口にある、「四方を淡水に囲まれた島としては世界最大である」。
 確かに、Google で調べると、すでに馬の品種の解説サイトに私の写真が使われていたりする。同サイトによれば、マラジョアラ馬は、1702年にポルトガルからの植民者がこの地で育て始めたのがルーツであるという。従って、アラブや Alter Real といったポルトガルの品種がルーツになっている。マラジョ島が隔絶された地であるため、昔の姿を比較的保っているが、この地でも最近は様々な品種の育成が始まっている(ので、消滅の危機にある、ということであろうと思われる)。
 写真は共有しておくものだ、というお話。

2015年3月4日水曜日

オックスフォード英英辞書久々のアップデート

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Europe 2003

 Enfor という会社の出していたオックスフォード英英・類語大辞典 (ODE + OTE)がアップデートされているのでびっくりした。

2015年2月13日金曜日

多元的なデモクラシーのための「敵」としてのイスラム国(2) シャルリーはスパルタカスなのか、ローマ市民なのか?

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 【「(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…」からの続き】

 シャルリー・エブド誌に関して、世俗主義という観点から擁護する声と、やりすぎだと批判する声が錯綜している。
 私は先の文でも触れたとおり、基本的には「世俗主義」が全てではないと思っており、言論の自由にもなんらかの制限は必要である、という立場である。
 しかし、「節度」とは何を持ってであろうか?
 「人を傷つけない」というような抽象的な定義ではおそらく不十分だし、そういった抽象的な定義は通常マジョリティ、また
マジョリティの持つバイアスを利用した権力者に都合のいいジャッヂになりがちだ、ということは歴史が教えてくれるであろう。


2015年2月12日木曜日

多元的なデモクラシーのための「敵」としてのイスラム国(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…

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 シャルリー・エブド誌の襲撃事件とISIL/イスラム国による日本人人質殺害事件と、イスラム教原理主義が絡んだ二つの事件が立て続けに起こったことで様々な議論が起きている。
 これまでのところ、いくつか、十分に指摘されていないことがあるように思うので、まとめておく。


1)
 シャルリー・エブド誌の事件で気になったことは、タラル・アサドの紹介が、日本国内はもちろんとして、海外のメディアでもあまりなかったように思うことである。
 (ムスリム系の名前のジャーナリストや若手研究者のものと思われるブログなどで若干紹介されていたのは見かけた)

 サイードの名はかなり専門外の人々にも知られているが、アサドはおそらくさほどではないと思う一方で、どのメディアもコメントを取りに行かないということも考えずらく、ご本人による意図的な沈黙なのかとも思うが、よくわからない。
 ともあれ、ここでアサドの議論を振り返ることは有益であろう。