厚労省の「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」で、進展するゲノム関連の医療技術に関する「規制」が議論されているが、ここではゲノム情報を「個人情報」として、個人情報保護法の範疇で議論することを求めるとされたようである。これに冠しては例えば「難病治療研究の妨げにも」という報道もあるが、逆に「個人情報として扱うだけでは、規制として不十分なのではないか」という議論もしておく必要がある。何方かと言えば、個人情報保護法とは別の枠組みで、ゲノム情報の取得と管理に関するルールが定められるべきであろう。というのも、ゲノム情報は、個人の情報というだけではなく、その親族の情報を部分的にせよ含んでいる。たとえばAさんがポリシーとしてゲノム情報を秘匿しておきたいと考えたとしても、家族数人のゲノム情報がとれれば、Aさんのゲノム情報はかなりの程度推察できる、という問題がある。もちろん、ゲノム情報が医療などでの有用性を持つことを考えれば、「Aさんの親族全員の同意をとるまでAさんの遺伝子検査をしてはならない」などということは非現実的である。一方で、なんらかの落としどころとして、Aさんの親族関係情報と、ゲノム情報が結合して処理されないようなストッパーは必要であろう。この点は、現在の個人情報保護法で十分とは言いがたいであろう。
また、「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」が、差別、排除の問題しか検討していないように見えることも懸念される。これは、例えば「遺伝子解析を「差別」につなげない仕組みづくりとは」という、遺伝子診断を実際におこなっているジーンクエスト社の高橋祥子社長へのインタビュー記事でも同様である。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーによる権力論は、少なくとも社会学者や哲学者の「権力」概念を一変させた。「権力」の問題は、ある特権的な強者がふるうもの(絶対王政時代の王権)といった枠組みでは捉えられない。権力を定義すれば、「ある主体に、それがなかった場合とは別の行動をするようにしむけるもの」である。そして、現代社会では、神や絶対王権のような、超越的な権力は存在せず、よりミクロな、無数の権力が社会のあちこちに配置され、人々の心身に働きかける。これは、イメージとしては、パチンコの釘のようなものである。パチンコの玉としての主体は、あちこちの釘/権力にぶつかって、方向を変え、全体としてはある方向に流れていく。現代社会ではすべての釘を俯瞰的に見る「デザイナー」は存在しないが、それぞれの釘を、玉の流れが自分に有利になるように微妙に調整することができるアクターは存在する。そして、アクター同士の手の読み合いによって、世界は、玉の多くがある方向にながれるように調整されていく、というようなことが、フーコーの権力観であり、フーコー以後の人文学者の多くがそれにならう。
こういった状況を分析するための概念として、生権力(Biopouvoir)、生政治(Biopolitique)も、フーコーによって導入された。フーコーは、古典的な、主に絶対王政の時代まで行使された「権力」は、断罪の権力であり、王の権能というのは命に服さなかったものに死を与えることであった、と論じる。それに対して、近代型の権力というのは、むしろ「生かす」ことにある、と論じる。
その主要な力というのは、規律である。屢々、これを図式的に説明するものとしてパノプティコンの例が挙げられる。パノプティコンは18世紀の哲学者で、功利主義や自由主義の概念を確立したことで有名なジェレミー・ベンサムの発案による牢獄である。個々の独房は円形に配置され、中央には看守が見守る塔がたてられる。看守の塔からは明るい光で独房を照らしているため、独房から看守の姿を確認することは困難だが、看守からは囚人の姿がよく見える。そのため、看守は自分がいつ監視されているかわからず「監視されていることを前提にした」行動をしなければいけない。この「看守の視線」の内面化こそが近代の「規律」であり、生権力の正体である。
こうした生権力の媒介をするのが、科学技術である。例えば、性的逸脱は「悪徳」や不良行為という枠組みで把握され、処罰の対象であった。これが、近代に入ると心身の異常という枠組みで考えられるようになる。そのため、性的逸脱は治療の対象となる。この「治療の対象としての異常」か「処罰の対象としての不良行為」かという区別は、事実命題(客観的、科学的な命題)と規範的命題の境界線の揺らぎの上にある。
価値判断と事実判断の戦いは、現代でも続いている。例えば、同性愛者であることは、個人の選択か生物学的な特性か、という議論はアメリカの政治では未だ討論になる。保守派の支持を得るということは「同性愛は個人の選択であり、またそれは『悪い選択』であって、したがって禁止されるべきだ」という見解を受け入れることである。最近では、共和党の大統領候補の一人であるベン・カーソン(神経外科医でもあり、またアフリカ系アメリカ人でもある)が「多くの人がストレートとして牢獄に入り、ゲイとして出てくる」ことから同性愛が個人的な選択であることは明白であると述べて非難を浴びた。
それに対して、多くの人々が「同性愛の生物学的決定論」を支持し、立証しようとして来た(以下は「科学と差別について」で述べたことでもある)。例えば神経生理学者のサイモン・ルヴェイは自分自身もゲイであることを公開している科学者だが、脳の視床下部の形質的な差を、同性愛になるか異性愛になるかの決定要因であると主張した。キリスト教文化圏での文脈では、同性愛が先天的な形質だとすれば、それは神が決めたことであり、受け入れられるべきである、という議論が可能になるから、という面もあるのである。
もちろん、先天的であることが明らかになることが必ずしもマイノリティの権利にとって有利という訳ではない。マイノリティ・グループにとって最も直接的な脅威は、「治療技術の発達によって、コミュニティが消滅する」ということである。病気や「障がい」であれば、治療の発達によって、それに苦しむ人が減ることは、一意によいことである。しかし、マイノリティであれば、コミュニティの消滅の危機は深刻な問題である。マジョリティ・グループはマイノリティのコミュニティを消滅させることを目指して来た。ソフトなものとしては「方言札」のようなものであり、より暴力的なものとしては、例えば先住民の子どもたちを強制的に両親から引きはがし、マジョリティの家庭で育てる、といったことが行われた国もある。ここまでくると虐殺を伴わないエスニック・クレンジングと言えるであろうし、当事者の人権を侵害していることは明らかであろう。では、将来「同性愛が治療可能」になった場合は、セクシャル・マイノリティであることはどう扱われるべきであろうか? ここで、近代に現れた「異常か、不良行為か」、「倫理問題か、医療問題か」という二項対立が、さらに先鋭な問題となってあらわれるのである。
これは、セクシャル・マイノリティの問題では今のところ、未来の話であるが、そうでない分野もある。ろうあの人々は、手話を言語の一形態と見なし、自分たちのグループを「手話を共通言語とするマイノリティ・グループ」とみなす。しかし、「病気や障がい」と「文化」の差は我々が普段感じているよりも遥かに曖昧である。そして、それは「聾唖のレズビアン・カップルが、遺伝的にろうあの家系の友人から精子提供を受けて、ろうあの子どもを作った」というような事例で顕在化する。ある人(聾唖であることを障がいと見なす人々)にとっては、これは医療技術の逸脱した利用であり、文化であるとみなす人々にとっては、正統な利用法である。
「科学と差別について」では、デザイナーズ・ベイビーの問題についても触れたが、技術が発展していくということは、こうした決断を人々に強いることでもある。これらの決断は、いずれの方向で解決されても、誰かにとって良いことが別の誰かにとっては悪いことである、ということになりがちである。したがって、「科学を、どの方向で、どの程度」進歩させるかは、誰にとって有利で、誰にとってはそうではないか、かということは慎重に見極められる必要がある。しかし、実際は、科学の進歩の速度を決めるのは、ほとんどの場合、経済力である。人数も少なく経済力もない少数民族の遺伝病よりも富裕層も多い先進国で見られる遺伝病に資金が多く投入されるということは当然のことながらあり得る。例えばよく話題になる嚢胞性線維症はアシュケナジ系のユダヤ人に多く見られるが、これは医療サービスにとって優良な顧客集団の存在を示唆する。一方、実は同種の病気はある北米インディアンの人口群にも見られるが、平均的に見て、これらの人々はアシュケナジ・ユダヤの人々と比較すれば、高額の医療費に耐えうる人口集団を形成しているとは言いがたい。最悪の場合は、これらの人々は、研究の対照群として遺伝子データを提供するも、製薬の優先順位としては別の遺伝集団が標準的な患者と想定されることによって有効な薬剤の開発は遅れ、科学技術の恩恵に預かれない、ということが生じるであろうと危惧される。これは、極めて深刻な形でのバイオパイラシー(遺伝資源の収奪)であり、R&Dレイシズムとでもいうべきものになる。
しかし、ここにおいてすらも、問題の核は排除や差別ではない。誠実な研究者が、人類の生活向上のために誠実に研究を履行しようとした場合ですら、このバイオパイラシーやレイシズムが構造として発生することは避けがたい(制度設計にこれらの問題を組み込むことで、程度の差はあれ影響を緩和することは可能であろう)。かつて、鳥インフルエンザの発生に際して、インドネシアが自国で採取されたウィルス標本の提供を拒否したことがある。インドネシアのいい分は、仮に標本を提供し、先進国の企業によって薬が開発されたとしても、それは高額になり、インドネシアは買うことができない。買うことができない製品の開発のために自国の遺伝子資源が利用されるぐらいなら、利用を拒否した方がいい。これは勿論、極めて非合理な議論である。当面のところ、インドネシアが自国で新しいインフルエンザに対するワクチンを開発できる可能性はないに等しい。ウィルスを提供すれば、少なくとも地球上にワクチンが存在するようになる可能性はあり、場合によっては多少のワクチンは援助としてインドネシアに提供されるかも知れないが、提供しなければ、その可能性さえなくなるわけである。しかし、それはインドネシアにとっては(資源を先進国に持っていかれて、その企業に利益を提供することも、またそれによって知的財産の所有と言う「南北格差」が拡大することも、また「チャリティ」の対象になることも)屈辱的であると考えたとしても、まったく不合理とは言えないだろう。おそらく理不尽なのは、そういった選択をインドネシア政府に強いる社会構造のほうである。しかし勿論、薬の開発には莫大な予算が必要であり、誰がそれを負担するか、ということは考えなければ行けない。第三世界と先進国で負担を傾斜配分する、といったデザインは不可能であろうか?
なんども強調するが、これらの問題は、科学者が研究を誠実に履行したとしても、その外部で(グローバル化した資本主義をベースにして)発生してくる問題である。遺伝情報の問題というのは、こうした、グローバルあるいはローカルな権力関係の網の目に、深刻な変容をもたらす。それがいいことである場合も多々あるだろうが、すべてがいいことばかりであると期待するのは不可能である。我々はこれらのことを念頭において、制度設計を行う必要があるが、そのことに対する政府や企業、研究者の配慮は、今のところ十分とは言いがたいように思われる。