2021年2月20日土曜日

科学認識をめぐる論争とその裁定プロセスの問題について

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 専門家と素人のコミュニケーションと言う問題について、かつての議論が再燃していますが、これに関して見直すことは有益だと思いますので、若干コメントさせていただきます。


 まず、政治的な意見の違い、特にリスクに関する見立ての違いが引き起こしがちな問題の枠組みについて見直したいと思います。

 これは、図表のように整理できます。





 議論を成立させるには、二つの「次元」を分けて考えなければいけません。

 一つは、事実に関する「科学的見解」が二極化していると言うことです。これは図では横軸で表されます。

 

 もう一つは、相手との議論 (ないし対話)にどのような表現を使うか、と言うことです。

 図では、上にいくほど暴力的、非合法的、非倫理的なものであり、下に行くほど論理的で科学的な手続きに沿ったものである、という風に表しています。



 この「縦軸:議論の表現」と「横軸:科学的見解」の間に、本来は関係はないわけですが、横軸の原点を「社会の相場感」(これが科学的・政治的な正解とは限らない点に注意)とすると、そこから離れるほど孤立化し、焦り、より過激な手段に出るという関係はあるかもしれません。


 

 このような場合に、政策的な意思決定を行ったり、コミュニティで合意を形成するために重要なことは、横軸に関しては「社会のなるべく多くの人」(例えば8〜9割の人)がのれるような、事実認識についての、幅のある合意をとることではないでしょうか(ワンボイスを作ろうとすれば失敗するでしょう)。

 一方、そのために必要なのは論理的な論証手続きに則っりつつ、相互の人格を尊重しながら、対話を深めると言うことであり、そのためには許容される縦軸の側を下に縮めていくことではないかと考えられます。

 なので、縦軸についての一定合意を作り、その合意のなかで横軸について詰めていく、と言う作業をするのが好ましいと思っています。



 縦軸については、一般合意は容易ではありませんが、現時点であっても、少なくとも法律に反するものはダメという合意はつくれるでしょう。

 たとえば暴力の示唆などによる脅迫、誹謗中傷は刑事・民事で法律問題になりますので、こう言ったものはわかりやすいでしょう。

 御用学者Wikiで言えば、某先生の散歩コースといった書き込みがあったかと思うのですが、これなどは(書き手がどうであるかは問わず)受けてからすればヤクザの「夜道に気をつけろ」とほぼ同意味に聞こえますから、明確にアウトと考えます。

 近年では属性を理由にした、いわゆる「ヘイトスピーチ」も明確にアウトであると言える社会的合意はできてきているでしょう。

 明確な利益相反が存在しないのにも関わらず、「エア御用」という表現を用いることも、司法の判断が必要ですが、場合によっては名誉毀損に該当する可能性があると考えています。


 バカアホマヌケといった罵詈雑言は、好ましいものではありません。これに明確な線が引けるかというのは多少、疑問が残るものの、日本版AAASの理念を考えると、対話相手の人格の尊重という意味で、好ましい表現ではなく、問題があると考えます。

 発話内容と発話主体の評価を切り離すと言う原則から言えば、厳密に言えば「A氏のaと言う主張は馬鹿げている」は全く正当な言論行為であり、一方で「A氏は馬鹿である」は正当な表現とは言えない、と言うことになります。

 もちろん、例え人格批判の文脈でなかったとしても、馬鹿という言葉を使った場合には、人格批判であるという誤解も発生するかもしれませんから、そこは差し控えるべきだという合意は作りうるでしょう。

 ただ、その場合は法律に頼るわけにはいきませんので、例えば議論に参加する当事者同士が「この場所では」あるいは「この期間は」「バカアホの類の罵詈雑言は使わない」という合意を作る、と言った作業が必要になるでしょう。

 その次元の問題として「エア御用」のような表現も併せて使わないことにする、というのは司法の判断よりも現実的な方法であったかもしれません。

 こういった工夫は、対面の、あるいはヴァーチャルな議論の場をつくるために重要な工夫になってくるとは思いますが、こう言った場所が十分提供できていないのはSTSや科学コミュニケーションに関係している「専門家」の努力不足かもしれません。



 「御用」と言う言葉はちょっとややこしい問題です。

 もちろん、これが負のラベリングであるのは間違いありません。

 また、これは利益相反の存在を示唆する言葉ですが、年々研究倫理が厳しくなる中で、規定に定められた利益相反を開示しないことは、「好ましくない研究実践」に分類される以上(それ単体で法律違反ということはないですし、個人的な懲戒に至ることもあまりないとはいえ)金と時間をかけた研究が無効になったり、あるポジションにつけなくなったりといったことがある以上、「御用学者」という表現を行うことについて、軽々しく扱っていい問題ではなくなってきています。

 もちろん、利益相反の疑いが事実無根だったにもかかわらず、告発を受けた側が何らかの不利益を被ったといったことがあれば、裁判などになるケースもありうるわけです。

 「利益相反」がありうるという可能性を摘示することは重要なものですし、確信があれば行ったら良いのですが、それが気軽に行えることが重要だ、とは言い難いわけです("組織的懐疑主義とオープンな議論"という科学の徳は、実は"研究不正がない"状態を前提としているのであって、前者を維持することによって後者を防止する、といった関係が全くないとは言えないにせよ、そこに期待するには議論参加者の負担が大きすぎるように思われます)。

 また特に利益相反については、それ自体というよりもそのマネージメントが問題だという面もあり、もちろん研究者がそれを隠していたら問題ですが、公開されている利益相反については、個人ではなく組織的に管理する必要があるわけです。

 たとえばある技術を進めることで利益を得る立場の研究者がそれに関連する審議会に出てはいけないというわけではなく、政府は審議会に逆の方向性を持つ研究者を入れることで利益相反を相殺することができます。

 現在の日本ではこういった利益相反マネージメントがうまく行われていないのではないかという疑惑を、多くの国民が持っていると思いますが、その責任は基本的に利益相反をマネージする機関(審議会の例では各省庁)にあるのであり、その不満が研究者個人に向けられるのは本来不当なことです(研究費や寄付の存在を隠していたならまた別ですが…)。


 これらのことから、我々の社会にとって、専門家と市民が合意形成をするために、図の下方の円で示したような、「論証手続きに乗っ取ったコミュニケーション」が保証されるような空間を形成することは重要だと思っています。

 これを作る試みは、一種の(例えていうならジュネーヴ条約のような)戦争法規を作るという作業に似ているでしょう。

 この時に、戦争法規について当事者の議論を促進する「中立国」が、片方に肩入れしているように見えることは好ましくないでしょう(「連合国側が正しいわけだから、ABC兵器の利用規制について、枢軸国にちょっと厳しくしようぜ」といい出したら、それは中立国ではなく、連合国がわなわけです)。

 もちろん、ある論点で中立国役を務める専門家が、別の論争では紛争当事者、ということがあってもいいのだと思いますが、個別の局面にあっては役割への誠実性を示す必要があるでしょう。

 ということで、どこまで成功していたかはわかりませんが、御用wiki 問題については最初の関わりで、このスイス役を担う可能性があったために、私としては双方に対して「横軸の価値判断は致しません」と宣言させていただいていたつもりでした。横軸の価値判断をしない、ということの背景には私がこの問題について専門的な知識が十分でない、ということもありました。

 一応、そういう約束だと理解していたのですが、その後の経緯から、必ずしもそこが共通認識になっていなかったのだ、という点については申し訳ありませんでした。。


 こういった観点から得られる教訓として、縦軸を下に圧縮しつつ(違法なものは議論から排除する一方で、グレーゾーンに関してはそういう話法を使わない方が同じ土俵に乗れて得なんだよ、という説得が重要なんじゃないかと思っているわけですが)、グラデーションのある二色のテーブルを作り上げていく、という作業にはコミットしたいと思っています。

 こうした手法がベターだという理解は、1990年代から、科学論や政治思想の中で発達してきたものだと思いますが、もちろんそれが普遍的というわけでも絶対正しいと主張しうるわけでもありません。

 私は、大きな科学者の組織がそういったコミュニケーションを促進する活動にコミットすることは良いことだと思っていますが、今後日本で、あるいは世界的な潮流としてそういう判断は間違いだったということになる可能性を否定するつもりはありません。

 ここで、日本版AAASのような組織が民主的に運営されることの重要性が再確認できるでしょう。

 つまり、誰もが誤りえ、集合知は(相互に同調圧力が強すぎない限りにおいて)その誤りが極端になるのをある程度防いでくれる、というのが民主制の前提であるわけです。

 なので、もし私の意見が誤っていると思う方は(当然いらっしゃると思いますが)ぜひ、アソシエーションに加入して、私の誤りを指摘する方向に会員としての権利を行使していただきたいと思っています。


 「相手方には悪者がいるから、相手方は全部ダメ」ではなくて、「悪者もいるかもしれないけど、相手方で対話可能な人間を探すところからまず初めてみよう」という態度がデモクラシーを支えるのだ、と思っています。