2015年6月5日金曜日

人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?

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 "国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話"の続き

 人文学が社会の役にたつ、というのはどういうことだろうか?
 教育という議論はひとまず置くとして、ここではあくまで「研究活動」に絞って、その機能につうて(相互にオーバーラップする)三つの側面に整理したい。すなわち、(1)経済的価値、(2)人権や正義、真善美に関わる価値、(3)カウンターサイエンス、である。




 まず、学問には様々な分類法があるが、ここでは3種類に分類する方法を採用して、ここで議論される「人文学」とはどんなものについてであるか、明らかにしておこう。
 三分類とはつまり、自然科学(Natural Science)、社会科学(Social Science)、そして人文学(Humanities)である。最後の「人文学」は他の二つに合わせて「人文科学」と訳されることもあるが、本来は「科学」(Science)の語は含まれない。
 これには様々な歴史的経緯が関わっているが、基本的にはそれらが "Science" という言葉の成立以前から存在している、という側面が大きい。
 一方、現在のような意味で、つまり「自然科学」というのに近い意味で"Science"という言葉が使われるようになったのは、用語法は徐々に移り変わるので厳密には言えないが、(OED/オックスフォード英語辞典によれば)17世紀初頭からである、という。
また、社会科学を、数学などを駆使して、より実証性を重んじる(比較的「自然科学」に近い手法を重視する)分野と、比較研究や文献研究を重んじる、より人文学に近い研究を行う分野が存在するため、前者を「ハード社会科学」、後者を「ソフト社会科学」という呼び方をして区別することもある。ただし、当然のことながら、この両者の差は、どこかに境界線を弾けるようなものではなく、相対的なものである。
 全体的に言えば、自然科学やハード社会科学は論文一報あたりが短く、よく定義された共通語彙や数学的手法を用い、同分野の研究者からなる共同体を重視し、そのため査読付きの論文を成果として考えることが多い。このことは、この分野では、ふつうは英語で書かれる権威ある投稿論文誌があり、そこに掲載されること、またそういった論文誌に掲載された論文からよく参照されることが「よい研究をしている」証拠であると考えられる。
 逆に、ソフト社会科学や人文学においては、語の定義は曖昧にならざるを得ず、まずそこから長々とした議論が始まることが多い(「ここでいう「正義」とは次のような意味である。すなわち…」)。したがって、共通語彙はあまり発達しておらず、「論文」は長く冗長な代わりに、その長さを我慢しさえすれば、特に専門的な訓練を受けていない非専門家でもある程度は理解出来ることを念頭において書かれていることが多い。これは、論文は査読付きの専門ジャーナルに掲載されるより、書籍として出版され、各地の図書館に置かれることが重要である、と考えがちな文化にもつながっている。したがって、グローバルな言語(すなわち英語)で書くことよりも、各国の一般公衆に語りかけることが重視されている。したがって、引用関係をデータベースにすることは(言語の壁、書籍ごとのウェートの問題など)自然科学系のコミュニティよりも容易ではない。
一応、ここまでの区別を念頭に置いた上で、この人文学や「ソフト社会科学」にとって「社会の要請に答える」、あるいは率直に言って「役にたつ」というのはどういうことか考えたい。
冒頭にあげた三つを、順に議論していく。
(1)経済的価値
第一に、自然科学の多くがそう評価しているように、経済的に役にたつ、あるいはもう少し広めに「社会にイノベーションをもたらす」といったときに、人々が想像するような意味で役にたつということである。
 これは、つまるところ、エンド・コンシューマーに商品ないしサービスとして形が見える、ということでもある。
 例えば、半導体の研究は、我々にコンピューターやスマートフォンをもたらし、我々の生活を劇的に変えた。それは研究者や研究者を金銭的、制度的に支えた企業や投資家、そしてもちろんそういった研究を支援した国や社会に大きな恩恵をもたらす、ということである(恩恵だけではない、という議論はここでは置いておく)。
 それに比べて、しち面倒臭い分厚い人文書は、我々に直接的な恩恵はもたらさないではないか、という議論がある。
 それに対する反論は(確か科学哲学者のスティーヴ・フラーが上げていたのだが)「映像技術だけで映画『タイタニック』が出来るわけではない」というものである。
 つまり、もし『タイタニック』(1912年の出来事を映画にしている)の主人公が、映画の中でコーヒーを電子レンジであっためていたり、ギャップの服を着て現れたりしては、観客は大きく興ざめするであろう。
 つまり、『タイタニック』を作るためには20世紀初頭の技術や服飾、あるいは時代情勢(主人公たちは異なる階級に属しているものとして描かれ、それがよりロマンチックなドラマを作り出しているわけだが、その階級とはどんなものであったか、といった)に関する知識が必須である。
 ただ、こういった問題はパテント化しにくい、という点はもちろん指摘できる。
 『タイタニック』のスタッフが高価な歴史書をたくさん買い込んだと思われるが、そこに出てくる情報や写真を参考に映画を作ったとしても、それにさらなる課金をするシステムは難しいであろう。
 ただ、この「商品ないしサービスとして提供されるもの」と、研究の部分への課金が関連付けにくい研究というのは、当然のことながら自然科学にも存在する。
 例えば、恐竜や宇宙の図鑑は、世界中で子ども達を引きつける人気コンテンツだが、化石発掘の費用や、宇宙望遠鏡の費用をこれらの図鑑の購入者から聴衆するのは難しいであろう。
 ナショナル・ジオグラフィック協会の発行する『ナショナル ジオグラフィック』誌は全世界で800万人を超える購読者がいるとされているが、この購読料は同協会が行う様々な調査プロジェクトの原資になっている。
 これは、「商品やサービスとして提供されるもの」で課金し難いものに課金することに成功している、数少ない事例である。

(2)「真善美」、そして人間性
それもイノベーションだが、経済的指標では評価しずらい、という事例について、我々はどう考えるべきであろうか。
 一つには、「経済指標以外の評価基準がある」と考えることである。
 経済指標に乗り難いが、人類にとって普遍的な評価基準として、例えば(カントにならって)真善美のような価値を上げることができる。
 また、人権や民主制に資する、というのは一つの価値である。
 実際は、先に挙げた「経済的な価値」があっても課金できないもの(現在、概ね公共的な資金で行われている研究)も実際はこちらに含めるのが合理的かもしれない。
 これらを総称すれば「社会的な価値」とか「公共的な価値」ということになる。
 つまり、図書館や美術館といった施設は、商業サービスとは違って、通常は独立採算では維持できないが、民主制や人々の権利を守るために維持される必要が有る。
 もちろん、そういった支出は「文化的に充実した国」という評判を呼ぶという意味では、多少ソフトパワーに寄与する部分はあろうが、それが資金的に見合うものかというのは疑問である。
 こうしたものへの支出は、一種のやせ我慢のようなところがある。
 自分自身にとって、直接利益にはならないにしても、次世代や他の国への矜持といったもので維持されるということである。
 言い換えれば、最も重要なのは「畏れ」なのではないか、と思う。
 つまり、この「真善美」を維持したいという態度は、本質的には保守的なものである。
 保守思想というのは「昔から続いているものは、たとえ自分では理解できないにせよ一定の意義があるのだから、自分たちの世代で潰えさせてはいけない」という思想である。
 (逆に、左派/革新というのは基本的に「自分たちは先の世代より利口にやれる」という思想に基づいている)
 そのため、むしろ橋下徹大阪市長のような、基本的には保守に属する政治家から、「文楽のような伝統芸のは理解できない。市場に淘汰されるならそれでもいい」といった発言を聞かされると、我々は困惑せざるを得ないのである。
 逆に言えば、かつての「保守」はここまで破壊しようとは思っていなかったし、むしろここを救済するために人文主義に付随する諸々の左派的なものを飲んだのである(例えば中曽根元首相と国際日本文化研究センターとの関係は有名である)。
 ここまで破壊する、という欲望はもはや保守とも言えないものであろう。
一方で、「真善美」は(アメリカ的な意味での)リベラルな人権主義にとっても鍵である。
 つまり、我々は人間を、人権を尊重しなければいけない、というときに、人間とはなんだろうか、ということである。
 我々は、人権を守る対象に含める範囲を操作している。
 これは、恣意的に決めていいものではない一方で、どこかで線引きをしないといけない、という問題でもある。
 例えば、なぜ胎児は中絶していいのだろうか?
 エスニック・マイノリティの権利が認められるようになったのは、実はそう昔のことではないが、我々はなぜその自然権に気がつけたのだろうか?
 我々は、しばしば「クジラ・イルカの高い知能」を理由にした欧米人の捕鯨反対論に反発する。
 しかし、その一方で、「殺してはいけないこと」(人権、あるいはその前提条件を見出す第一歩である)を定めるのに、苦痛や愛情を感じるといった、ある種の知的操作の能力を前提にしないことが可能かと問われれば、不可能ではないにせよ極めて困難である、といわざるを得ないのではないか。
 もちろん、ヨーロッパ社会はかつてほど「真善美」に対して規格化されたものを求めているわけではない。
 つまり、バッハとマイルス・デイヴィスの音楽のどちらを「美しい」と思うかに「正解」は必要ない、という理解は現代社会では標準的なものである(例えば、19世紀にはそうではなかった)。
 しかし、このことは「真善美」がまったく無軌道なものになったとか、それについての研究が必要なくなった、ということではない。
 我々は、多文化社会において、人間性を規格化して捉えられなくなったからこそ、あらためてそういったものを客体化して議論し、異なる文化に属する人々相互の理解を促す必要があるだろう。
(3)カウンター・サイエンス、再帰性
 さて、こうした人間性の多様性に対する認識、は、実際はスムーズに生み出されたものではなく、人間性や「真善美」への不断の批判のなかで派生してきたものである。
 こうした批判は第二次世界大戦後、文化人類学者レヴィ=ストロースの議論を出発点として、フーコーやドゥルーズ、デリダといったフランス哲学者によって担われた。
 いわゆる、ポストモダン思想、である。
 ポストモダンの思想家たちはしばしば人間性、歴史、大きな物語の失効を宣言し、しかしながらそういった人文学的なものは今なお生き残っている。
 しかし、これは矛盾でもポストモダン思想家の失敗でもなく、近代とはこういった再帰性(反省)に立脚するものだからである。
 そのなかで、人権と正義の超越性も、論理の真実性も、バッハやモナリザの美しさも挑戦を受け、その結果としてそれらが包括する範囲は拡大し、意味は多様化してきたわけである。
 こういった「見直し」の作業を、それを担った中心人物であるフーコーの言葉を借りれば「カウンター・サイエンス」ということになる。
 これを担うのも人文・社会科学である。
 しかし、当然のことながら、この見直しの範疇は、例えば国民国家やその法、保守派が好むような道徳、その基盤としての伝統の真正性、といったことにも及ぶ。
 この部分が、為政者の利害と衝突するというのは、避けがたい面がある。
 しかし、逆に言えば近代国家において、大学が国家権力からの独立を求められるのも、まさにこの機能ゆえでもある。
 つまり、大学は基本的には公的資金に依拠し、国家が用意するものであったとしても、その統制に服さないことが、国家自身が近代的な機関としての再帰性を維持するためにも必要なのである。
 この再帰性は、当然政治や経済が司る「役に立つ」という価値に対しても対立的である。
 「人文学は役に立つのか」という疑問が、しばしば人文学者の反発を受けるのは、この側面が重視されているからでもある。
 つまり、人文学は「役に立つ」という概念を相対化し、破壊し、社会のマジョリティが自明としている前提を組み替えるという点において「役に立つ」(メタ「役に立つ」)のである。