2015年4月17日金曜日

「人間(労働力)の原価」ということについて

このエントリーをはてなブックマークに追加
 
参加した牛丼チェーンのパート、神奈川県の30代男性は時給約1千円。シフトの多い月でも収入は15万円ほどで貯金はゼロという。「まともな生活を送るには時給1500円が必要だ」と話した。




マクドナルドの「時給1500円」で日本は滅ぶ。 (中嶋よしふみ SCOL編集長)

 …滅ぶかいな、っていうか、滅んでしまえ。
 民主党が最低賃金千円という政策を打ち出したときに、以下のように Tweet しているけど…


 結局のところ、もし憲法、つまりこの場合、すべての人間が健康的で文化的な最低限の生活を送る権利を持っているということを保障するとすると、そこから労働力の原価というのは規定される。
 実際は人間は一生働けるわけではなく、最近はちょっと長くなっているとはいえ、働く期間は人生の半分程度である。
 ということは、人間の給与としては、実際は二人分が「健康的で文化的な最低限の生活」を送れる程度なければならないということである。
 学齢期を抜けるまで、および引退してからの生活を誰が見るか、ということについては基本モデルをどうつくるか検討の余地がある。
 前者は親が、 後者については年金が、というのが一般的なモデルであるが、例えば学齢期のコストは貸与型の奨学金で賄い、引退後は公的年金ではなくて個々人の貯蓄で賄うという「ネオリベモデル」を採用することもできるだろう。
 積立方式の公的年金は、個々の労働者が長期的な財政リスクをコントロールするのは困難であるという見立てから、いったん給料から強制的に資金をプールし、引退後にそれを割り戻すシステムである。
 逆に言えば、個々の労働者の経済アクターとしての能力に信頼を置くならば、先にあげたネオリベモデルを採用するのがよいだろう。
 また、賦課方式の公的年金モデルは、物価変動リスクを国がヘッヂするという保障の代わりに、直接的には個々の労働者が同世代の高齢者を(親族的紐帯に依拠せずに)養うというモデルである。
 いずれにしても、これらのモデルが取りこぼす分は生活保護という形で救済しなければいけない。
 そう考えれば、労働力の最低価格というのは、生活保護費用の2倍である、ということになるだろう。
 そして、その価格を払っていないということは、なんらかの形で外部経済が発生しているのである。
 この外部経済は、かつてはアルバイトが主婦および学生によって担われており、家族の「主な稼ぎ手」(通常、男性であると規定されていた)は正規雇用であった場合は、学生は将来正規雇用されることによって、また主婦パートは夫の稼ぎによって差額が保障される、みたいな構造で動いていて、それはもちろんフェミニズム的にとか様々な問題をはらんでいたわけであるが、少なくとも経済システムとしてはなんとなく機能していた。
 ところが、現在のように「一生アルバイト」みたいな状態が発生すると、これはどこでも補填されず、最終的には国家のセイフティーネットが発動することになる。
 もちろん、個々の利用者としては福祉国家の市民権を持つものの権利としてそれを行使すればいいわけである。
 むしろここでは、個人が社会福祉に依存することは批判される一方、労働力だけは「原価割れでも、税金をつかってでも安く調達できるようにするべきだ」という議論が平気で行われるという不均衡をどう考えるべきか、という問題を提起したい。
 あるいは「フライドチキンを売りたいけど、鶏肉が高すぎるから国費で補填して安く仕入れさせろ」という主張は、たぶん受け入れられないのに、企業が極めて安く労働力を調達して、その人件費(仕入れ価格)その労働力を提供した人の「健康で文化的な生活」のためのコスト(労働力の原価)との差額に税金の補填が入ることに、企業が責任を負う必要はない、と考えられているのはなぜか、ということである。


0 件のコメント:

コメントを投稿