2015年5月3日日曜日

「環境権」は必要かもしれないが、自民党憲法案の「環境権」は意味がない

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 自民党の改憲マンガ「ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?」(PDF)すでに、随所で批判が出ていますし、それぞれもっともだと思います。
Peace Boat 2004
楚辺通信所、通称像の檻。2006年に住民に返還されたが、
米軍による土壌汚染が明らかになった。
なので、いまさらではありますが、憲法記念日ということで「わたしも一言」みたいな感じで、ここは環境権の問題についてちょっと考えてみたいと思います。

 まず、「自民党の改憲漫画から「押しつけ憲法論」を考える」は大変賛同できる内容なのですが、環境権については以下のように書かれていて、これだけでいいのかというのはちょっと議論のあるところかと思います。

また、日本国憲法に環境権について直接定めた条文がないのは確かですが、幸福追求権(憲法13条)をはじめとする人権のなかにそのような権利が含まれることも争いがないところです。実際、最近でも、干拓のための「ギロチン」とも言われた潮受け堤防で台無しになった諫早湾について、裁判所が堤防排水門の開門を命じる判決を出したりしています。
もちろん、自民党の改憲案では現状の前進にならないというのも確かなところですので、結論は変わらないのですが…。

 まず、くだんの漫画ですが、環境権について「エコとロハスは女の必須事項です」と登場人物に述べさせていて、まず第一に何がいいたいんだかわからない。
 ごまかしたいところは女性キャラに情緒的な発言をさせておいてごまかそう、という態度がミエミエで、フェミニズム的にも問題があるところですが、そもそも環境権の問題とのなかで、ロハス的なものが占めるのは極めて小さな部分であるということをミスリードせようということでもあるでしょう。



 で、自民党の改憲案(PDF)の環境権相当ところを見てみます。
(環境保全の責務)
第二十五上の二
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全につとめなければならない。
まず、「国民が良好な環境を享受」と述べているところで、通常は幸福追求権(憲法13条)の延長で保護される内容が念頭にあることは明らかです。この点で渡辺輝人弁護士の論説はまったく正当でしょう。
 あと、「国民と協力して」とあります。
 わりとソフトな言い方ですが、環境保護に関する義務を国民にも負担させようという条文になっています。

 さて、一般に立憲主義の原則というのは「国家権力を縛る」ためのものだという言い方がされますが、環境権に関しては若干例外的で、いくつかの国では、個々の国民に対して(集合的な表現ではあっても)義務的なものを貸しているように読める表現になっています。(以下はすべて国会図書館の「シリーズ憲法の論点 環境権の論点」(PDF)から引用する)

諸外国の憲法で環境権を規定した例は、いく つかある。まず、大韓民国憲法21が第35条第1 項で、「すべて国民は、健康かつ快適な環境の 下で生活する権利を有し、国家および国民は、 環境保全に努めなければならない」と規定する。 これを受けて、同条第2項は、「環境権の内容 および行使に関しては、法律で定める」として いる。また、スペイン憲法22は、第45条第1項 に環境権に関する規定を設け、「何人も、人格 の発展にふさわしい環境を享受する権利を有 し、およびこれを保護する義務を負う」と定める。これらの規定では、環境権を規定すると同 時に、環境保護の義務の側面にも言及している。


 しかし、これは根底に「人間は、自然に対して破壊的な影響力を及ぼせる優越的な立場にある代わりに、これを保全する義務を負う」という、一種の公共信託の概念が前提にあるからです。
 この点を明確にしているのは、例えばドイツ基本法(憲法に相当する)であり

ドイツ連邦共和国基本法38の第20a 条は、「国は、将来の世 代に対する責任からも憲法的秩序の枠内で、立 法により、ならびに法律および法に基づく執行 権および司法により、自然的な生活基盤および 動物を保護する」と規定している。

 と、動物を保護の対象にすることを明示しています。動物と並置されている「自然的な生活基盤」もちょっと意味が取りにくいですが、環境権の主体を個々の人間ではなく、生態系全体の保護を目的とできるようにするための表現でしょう。

 これをさらに明確にしているのはフランスで、以下のようなことになっています。

フランス共和国憲法は、前文で2004年の環境 憲章に言及しており23、この環境憲章24の第1 条が、「各人は、均衡がとれ、かつ健康が大切 にされる環境の中で生きる権利を有する」と規 定し、第7条が、「何人も、法律の定める要件 および限度内において、公の機関の保有する環 境に関する情報を入手する権利、ならびに環境 に影響を与える公的決定の策定に参加する権利 を有する」と定めている。

 ここにある<何人も(中略)環境 に影響を与える公的決定の策定に参加する権利 を有する>が、最も肝心なところ。つまり、これは、例えばアマミノクロウサギ裁判を可能にする、ということです。
 たとえば、人間の居住地から遠い原生林に対する環境破壊について、環境保護団体が行政や企業を訴えたとします。ところが、現状ではこれら環境保護団体のメンバーが原生林の破壊から直接的に脅威を受けている(幸福追求権を侵害されている)とは認められないため、裁判に訴える適性がない(原告適格がない)と判断されてしまうのです。
 そこで、たとえば環境破壊によって被害を受けているアマミノクロウサギが原告である、というロジックで裁判に挑戦したわけだが、これも人間ではないので原告適格がない、ということになってしまう。

 もし憲法で環境権が新設された結果として、こうした「地球環境の問題は普遍的であるので、すべての人間が環境の問題に対して介入できる権利を認められる」というロジックを認められるものであるならば、それは意味があるといえるでしょう。
 しかし、もちろん自民党の改憲案はそういうことになっていないわけです。
 なぜなら、もしそうなれば、我々は例えば、ありとあらゆる「環境に悪影響をもたらすかもしれない」活動、例えば様々な開発(リニアモーターカーでもメタンハイドレートでも)、南氷洋捕鯨、原発再稼働、あるいは辺野古の米軍基地新設といった問題について、日本各地から一般の人々が差し止め訴訟を起こせるようになる、ということだからです。
 自由民主党が政権党である限り、そういうことを可能にする改憲を容認するとはとても思われないわけです(逆に言えば、そういうことを追求する政党であれば、辺野古のような事態は起こっていないわけです)。

 ということは、自由民主党のいう環境権が「幸福追求権」の延長上で扱える範囲のものであり、かつそれを憲法に書き込むことによってある種の「国民の義務」的なものを拡大させる、という、自民党に有利な取引にしかならないであろうことも、自明でしょう。

 なので、「環境権」ということを考えても、我々は自由民主党の改憲提案を思い切り拒否して問題はないわけです。

 幸福追求権から演繹できない範囲の「環境権」を導入するかどうかについては、それが私権の制限になる面もある(あるいは人権を制限するような「人権同士のコンフリクト」が「人間以外」の主体とのあいだにも発生するようになる)ので、慎重な討議が必要であり、それを憲法で規定するのか、あるいはなんらかの基本法などで十分なのかということも含めて、討議が必要な問題です。
 個人的には、いずれは日本社会も、そういった権利を認めるべきだというコンセンサスが形成されるであろうと予想しますが、たった今そうするのは、極めて困難でしょう。



 ところで、
 も重要な指摘なんですが、そのリンク先の

英語の原文には明記されていませんが、この場合「格上の者」とは明らかに「神」です。もともと欧米の人権概念は「神の下の平等」という観念から発達してきました。そういうキリスト教的文化を共有している社会であれば、「現在及び将来の国民に与へられる」・・・つまり、神の下に我らは平等である、と自然に受け入れられますが、日本はキリスト教圏ではありません。

 も、文章を書いている(自民党の中の)人の説明がもっと聞きたい感じですが、どっかにないんですかね? このあたりが「八紘一宇」と言いたがる心性に繋がるんでしょうけど…。
 少なくとも、入門レベルの西洋哲学史の本を読めば、確かに普遍性というのはキリスト教も含んだ一神論の影響を否定できないけど、同時にこれは多神論であったギリシャ社会に生まれたプラトン・アリストテレス的伝統も引き継ぐものであり、西洋思想史というのはその両者の関係性(相剋と捉えるか融合と捉えるか)のなかで、「超越性」概念から人格神的要素を抜いていく作業であった、というのは理解できると思うのですよね。
 もちろん、世界人権宣言だって文化依存性がゼロではないわけですが、その一方でその文化依存性の弱点を克服しようと練り上げられてきた歴史が、他の原理より圧倒的に長いわけで、その歴史性というのをどう評価するのか(しないのか)というところを、ぜひうかがいたいところです。

 (※後半、書き終わった後に、引用したTweet の北守さんがすでに同じようなことを書いているのに気付きましたが、まぁ、残しておきます)

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