大学入試センター試験に代わって記述式の問題などを取り入れた「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)が検討されているが、その試験問題などが朝日新聞(記事「考えるプロセス問う 大学入試新テスト問題例」)などで報道されていた。問題の全文は、文科省高大接続システム改革会議(第九回)の配布資料で示されたもののようである。記述式試験というと、フランスのバカロレアなどが有名である。グローバル化が主張されている中、そういう方向性化と思っていたが、問題文を見るとPISA試験との類似性が見て取れる。参考資料などとあわせてみると、PISAをモデルのひとつにしていることは明らかなように思われる。
「OECD生徒の学習到達度調査」(通称PISA)は、OECD(経済協力機構)によって実施されている。OECD加盟国を中心に、各国で15歳の生徒を対象に、読解力、数学、科学についての学習達成度を測定するものである。参加国は年々増えている。原則として三年に一度実施されているが、これの日本の順位は常に議論になる(2015年にも実施されているはずだが、この分析結果はまだ公表されていない)。
問題文を読めば、PISAテストの前提は明白である。要求される知識そのものは、あまり高度なものではなく、標準的な先進国のカリキュラムであれば15歳になる以前に獲得されているはずのものだが、問題は、日常的、社会的、政治的な文脈でそれを活用できるか、ということを問うようになっている。日本の生徒の成績は毎回話題になるが、紛糾するほど成績が悪い訳ではない。一方で、PISAの特徴である、応用的な問題では基礎的な知識で答えられる問題より成績が下がる傾向は見て取れ、このことは記述式の試験の導入の理由のひとつにはなっているだろう。
ただし、PISAの前提は、現代社会に生きる市民的な能力を測定するということにある。この面で、主導的な欧州諸国の立場は明白である。イギリスやデンマークなどが先進的な試みを続けているが、欧州では政治的意思決定における専門家(科学者を含む)と市民/有権者の関係性はかなり固まって来ている。科学者や政府、企業、メディア、NGO(例えば環境保護の問題に取り組んでいる団体)は専門知識を市民(有権者/消費者)に提供するが、それは「ある理想的な回答があって、それをなるべくわかりやすく伝える」という啓蒙主義的なモデルではもう十分ではなく、様々な意見の「幅」を多角的に紹介することが好ましいと考えられるようになってきている。ということは、市民側にはそれを、持っている知識を活用して多角的に検討し、自分なりの結論を導きだして活動に生かす「リテラシー」が求められる、ということでもある。
この観点から見ると、PISAの試験が求めるものは一貫していることがわかる。例えば、ある問題では「電磁波の人体への危険性」という論点について、危険性があるという立場とないという立場の両方の立論が併記され(そういった活動をしているNGOのウェブサイトを生徒が読む、という状況が想定されている)、それを読解することが求められる(以下は「PISA調査問題例」より)。
重要なのは、「どちらが正しいことを言っているか」あるいは「あなたはどちらが正しいと思うか」という、情報の正誤に係る判断を求められるだけではなく、「ある情報の含意するところは何か? それはどういった意見を支持する情報か?」という(メタレベルの)判断を求められるという点である。また、先にPISAが要求される知識は、基本的なものだと述べたが、ある意見を主張するに際して、どのように統計データが取られているか(サンプルがどの程度集められ、対照実験は適切か)といったところには意識的であるように設定されており、ここは日本の15歳までの履修範囲を逸脱しているといっていいかもしれない。
何れにしても、PISAの問題のサンプルを一目見れば、両論併記、情報提供の含意(あるいは提供者がその情報を提供することの意図)、統計データの読解、というのが、これまでの日本の試験とは異質なタイプの問題であることが見て取れるであろう。それは、「市民教育」という前提ゆえのものである。
では、こういったPISA的な前提を考えてみると、文科省の資料にある例題は、やや不十分であることがわかるだろう。PISAがあげているのは、携帯電波の電磁波の危険性であると述べた。これは、欧州でも日本でも、通常は政府やメインストリームの研究者はさほど危険視していないが、一方で市民や一部の専門家からたびたび議論が提起されている問題である。こうした問題が議論される理由は、携帯電話に対する政策的措置(例えば子どもへの利用を禁止する、といった)の妥当性が、政策的決定の焦点になりうるからである。したがって、市民は、単に「科学的事実に関する判断」を求められるだけではなく、背後にある文脈を読解し、提供される情報の方向性ないし情報提供者の意図を推量し、妥当性を吟味することも求められる課題である。例えば、もし予防原則的な措置として、子どもへの携帯電話の使用を禁じる法律をつくったとすれば、携帯電話会社にとっては経済的な打撃であるに違いないし、市民の「利便性」の制限にもなるという利害対立が存在する課題でもある。
ところが、文科省例題の「交通事故死が事故件数に先んじて減少しているのは医療の発達のせいか、車の安全装置の発達のせいか」という議論は、こういった対立を含まない。もちろん、予算の制約はあるにしても、その両方を同時に進めることに反対する意見はありえないであろうし、どちらにどの程度注力するかについては、市民的判断が求められるというよりは、専門家が予算的、技術的制約の中で進めていく、ということで大きな異論はないであろう。もちろん、「車の利用を制限する法律の施行」が背景として問題にあるとしたら、これは大きな社会問題だし、市民的結論が求められるが、文科省が示した例題の設定から、そういった主張を読み解くとすれば、それこそ「PISA が求めるような読解力に問題がある」ということになる。
ここで提起したいのは、これまでセンター試験的な問題が求めて来たのは、この「社会的、政治的文脈の読解」と獲得した知識を用いた「現代社会への積極的な参加」を、「あえてしない」で、提示された問題の枠内で答えるに留める「知性」(「空気を読む」知性)だったのではないか、ということである。そして、今回の出題者が、PISAを念頭に置いた上で、交通事故統計の問題を出して来たのだとすれば、そこでもやはり「電磁波問題」と「交通事故問題」の統計的データの扱いが含む、社会的、政治的文脈の違いを「認識しない」能力が求められている、ということなのではないか、ということである。
これまでの文科省の方針は「国際社会で活躍できる」ことを求めると声高に主張しながら、実際行って来たことは「国内では空気を呼んだ従順な労働者/消費者」であることを求める教育である。記述式試験の導入も、ここが問題にされないのであれば、まったく意味はないと思われるが、実際はやはり同じ構造が繰り返されているように思われる。もし、PISA的な能力の審査を念頭に置くのであれば、遺伝子組み換えやワクチンの安全性と言った「社会に埋め込まれ,論争的な」テーマを(啓蒙的、欠如モデル的でないやり方で)扱うことが重要であろう。
もうひとつ、PISAは市民としての知的能力を求める問題であり、専門家予備軍としての試験ではない、ということである。そして、PISAのような試験の存在が示しているのは、専門家としての判断をすることと、市民としての判断をすることは、本質的に異なる、ということが重要だ、ということでもある。一方、大学入試で問われるのは、もちろん市民的判断力の部分もあるだろうが、実際は専門家予備軍としての部分もある。文科省は、大学入試資格テストと同時に、高校卒業資格テストも考えているようだが、PISAを念頭に置くのにふさわしいのは、後者ではあるまいかと思われる。