徴兵制の現実性が話題になっている。
自民党が出した「ヒゲの隊長」こと、佐藤正久参議院議員をつかったアニメーションは、「徴兵制は絶対にありえない。だって――」と言いかけたところで会話が終わっていて、理由が示せないのか、かえって不信感を煽る、という意見が出ている。
一方で、民主党側の「子どもたちのみらいのために」というパンフレットは、解釈改憲によって徴兵制も可能性が出てきた、と主張しているが、これにも合理性などの観点から批判が出ている(たとえば池田信夫氏の「日本も徴兵制になるの?」)。
実際問題として、「合理性」を理由にして徴兵制の可能性を棄却するののいくつかの意味で無理筋であり、少なくとも現段階では、将来世代において自分の意思に反して兵役につくことになる子どもが出てくるという可能性は、決して荒唐無稽なものではない。
パンフレットで民主党が主張している「いつかは徴兵制」という不安は、今回の自民党が試みている「解釈改憲」に対するものとして十分に合理的である。
もともと、自民党が「徴兵制がない」としている根拠は、憲法上「苦役」が禁じられており、徴兵は「苦役」に該当する、という部分である。
1)しかし、この苦役(GHQの原案では"involuntary servitude"、つまり「非自発的な苦役あるいは強制労働」)ということで、奴隷制や強制徴用の禁止条項であるが、これに徴兵制が含まれるという議論は必ずしも自然なものではない。現代社会において(どこまで守られているかは別として)各国はなんらかのかたちで奴隷制の禁止規定をもっているが、通常は軍務は別扱いになっているからであり、これまで徴兵制を廃止した国も、別にそれが「苦役、奴隷制」だから廃止したわけではない。「集団的自衛権を明示的に禁止した条文が憲法にあるわけではない」と自民党が主張するのであれば、徴兵についてもまったく同じことがいえるのである。
したがって、民主党はこの脅威を「解釈改憲」(憲法上の正規のプロセスを経ないで、憲法の運用を変えること)に求めているが、これはまったく正当である。
付言するなら、たとえば戦中の「強制徴用」や従軍慰安婦は国際的には十分に”enslavement” であり"involuntary servitude" であるが、日本政府は様々に言を左右させてその批判を無効化しようと躍起である。
たとえば「当時の法令に従って動員」されたら「強制労働ではない」と主張するなら、大概の奴隷制は強制労働でも苦役でもないわけである。
これが徴兵制についてはおこならないと、なぜいえるのだろうか?
結局のところ、自衛権のあり方が時代によって変わるなら、「苦役」のあり方も時代によって変えられてしまう可能性は十分にあるのである。
2)実際問題として、現代の「徴兵制」はそんなに分かりやすい、合理的な形でやってこないだろう。
「兵役義務や強制労働を匂わせる政治家&言論人」 によくまとまっているように、これまで政治家や政治的影響力を持つ人たちが、審議会のような公的な場所ですら、若者が一定期間ヴォラウンティア活動や福祉、農業の現場(一貫性がないが、おそらく、「肉体的に厳しい作業を必要とし、社会的意義が大きい割には経済的見返りが乏しい」というイメージのある職場が選択されている)での作業に従事することを提言している。
立法意図を組むなら、これらが強制されるのも徴兵と同様に "苦役/involuntary servitude" なはずで、その憲法解釈が正しいなら、この人たちは公的な場で憲法に違反する制度を作ろうと、大真面目に議論していることになる。
逆に、たとえば教育目的であれば自発的なものではない( involuntary )役務であっても憲法に禁ずる「苦役」ではないという解釈は可能であろう(たぶん、審議会での議論はそういう前提に立っているように思われる)。
後者の仮説を採用すれば、involuntary な福祉労働は憲法違反ではないのと同様に、involuntary な兵役も憲法違反ではないということになる。
で、現実問題としては経済的・軍事的合理性に関わりなく、徴兵制は若者の「教育」目的でやってくる可能性が高いであろう。
現実的には、まず一定期間の"National Service" が大学入試の条件、のような形になり(9月入試に関しての議論や、高校現場での職業教育など、すでにその兆候はある)、そこには医療、福祉、公的サービス(消防など)、農作業などが対象であって、それがいずれの機会にか自衛隊も対象になる、という形で法改正はやってくるであろう。
しかし、もちろん敵勢力からすれば正規軍の服装をした人物が軍務につく意図が involuntary か否かなど忖度する理由はないわけだから、その人物が国外に出れば(教育が目的かどうかに関わらず)命の危険が伴う軍務だし、長期的には国内にいても(すでにヨーロッパがそうであるように)準軍事的な作業に従事させられる日も遠くないであろう。
これは実質的な「徴兵」である。
もちろん、必須ではなくても、たとえば奨学金を得るためには役務が、というパターンも考えられる。
その場合は involuntary である度合いが低下する(少なくとも「親に売られた少女がセックスワークに従事させられる、よりも involuntary 度が低いことは誰でも合意するであろうし)わけで、憲法が禁止していないと政府が主張できる度合いはさらに高くなる。
(貧困層には軍務を経て大学奨学金を得る可能性にかけるか、ドラッグを売るかしか選択肢がないとしても、「中東で死ぬのも売人同士の抗争で死ぬのも自己責任、ということになるだろう)
3)
近代戦はプロ化するので、アマチュアである徴兵は必要がない、という議論に関しては、現実にアメリカを見れば軍があの手この手で新兵のリクルートに躍起になっていることを考えれば、説得力がないのは明らかである。
そもそも、技術が多少高度化したところで、様々な地形に応じて塹壕を掘り、物資をかつげるロボットがあるわけではない(ないわけではないが、非常に高価である)。
いつの時代の戦争でも、雑役は必要なのである。
また、高度化することによって、兵士と一般人の境界は曖昧になり、このことも「期せずして軍務に従事させられ、期せずして国際法廷に引きずり出される」リスクは上昇することもある。
たとえば、米軍が「テロ対策」と称して中東やパキスタン・アフガニスタン国境に展開し、子どもを含む一般市民に対して展開しているドローンによる攻撃がある(ドローンの脅威と生きる市民の本音)。
ドローンのオペレーター自体はアメリカ国内におり、衛星回線を通じて送られてくる(あまり鮮明とは言えない)画像を通じて現地に対する攻撃を行っている。
こういった場面において、軍人と民間人の差はかつてなく曖昧である。
たとえば、自分は普通のIT企業の補助事務的作業に従事していると思っていたら、事後的に中東地域における虐殺の共謀容疑をかけられ、国際法廷に引き出されるかもしれない、ということである。
また、今の所最終的な攻撃を判断するのは人間のオペレータであるが、この役割の意義は極限まで切り下げられるかもしれない。
たとえば、対象がテロリストであるか一般人であるか、コンピューターが膨大なリストと複雑なプログラムで自動認定する時代が来るかもしれない。
その場合は、人間の役割はたとえば「画面が赤く光ったら何も考えずミサイル・ボタンを押す」というものになるかもしれない。
その場合は、人間は優秀である必要はない、というかむしろ優秀であるほうが邪魔、であるにもかかわらず最終的な「責任を取る」回路として「ボタンを押す」自由意志を持った人間が必要、ということはありうるわけである(この自由意志とは、それこそ法廷でだけ問題になりえ、また問題にするためだけの自由意志かもしれない)。
これはいささか誇張された、寓意的な状況だが、基本的には Google 化された世界とは、ごく一部の優秀な人のしかけと、その枠内で動く「普通の人」の統計的に想定され尽くした「自由意志」という構造になりがちであり、軍事技術も同様の面がある。
この時、はたして「軍事行動に必要なのは優秀な人材だから、我々は関係ない」という議論はリアルだろうか?
(そもそも、この「軍事行動に必要なのは優秀な人材だから、我々は関係ない」というのは、今目の前に起こっている現実を見ようとしない、平常性バイアスの一つなのではないか?)
4)
そもそも、憲法というのは、合理的な予見可能性でつくられるものではない。
憲法が必要なのは、仮に邪悪で狡猾な、民衆を煽り、騙すことに長けた指導者が政権を握った場合にも、その指導者がそれだけはしないように、というストッパーとして作られるものである。
どうも、安倍政権やその支持者たちを見ていると(不合理なので)「政府がそんなことをするわけがない」というロジックを好むが、それは憲法について考える時に正しい態度ではない。
将来的に、自分が好ましくないと思うような政治主張をもった人々が政権についてしまったとして、それでもなおその人たちが政策論争をきちんとやり、人権侵害や独裁をしないためにはどういう文案が必要か、ということである。
どうも安倍政権は未来永劫そういった(たとえば彼らが嫌いな共産党が)政権を取ることはあり得ない、という前提で解釈改憲を進めているように思われるが、そういう「先例」をつくれば、自分たちの嫌いな政党の政権になった時も同じことができるのだ、という想像力を働かせるべきだし、知識人というのはそういうことに注意を喚起すべきである。
5)
ただ、一点だけ池田信夫氏に強く同意したいところがある。
なぜ、子どもを守るという話になると、つねに女性、特に母親なのだろうか?
そして、欠如モデル的説得の対象は、常に女性、特に母親なのだろうか?
実際問題として自民党も同じことをやっているわけだが…。(先に紹介したヒゲの隊長ムービーも、マンガ「ほのぼの一家の憲法改正ってなぁに?」もまさしく同じことをやっているわけである)
結局のところ、「伝統的」(想像の共同体の、想像の"伝統"的)な性差による社会的役割の分業、を守って男性の優位を保ちたい、という劣情がそこには透けて見えるとしか言いようがない。
そして、劣情に訴えるゲッベルス的(あるいはシュミット的)情報戦を挑むのであれば、より下劣になった方が勝つに決まっているので、そういうことはしない方が良い。
余談…かな)
ところで、民主党サイトのPDF版と、ネットに出回っている(池田信夫氏も使っている)画像の「出征する兵士を送るお母さん」(たぶん)が持っている旗の字が微妙に異なっている。
民主党がふたパターン作って、それが流出したというのでなければ、画像の方は誰かが加工したものであろう。
おそらく、ハングルっぽく加工したということなのだと思うが、どういう意図なのだろうか?