2015年2月13日金曜日

多元的なデモクラシーのための「敵」としてのイスラム国(2) シャルリーはスパルタカスなのか、ローマ市民なのか?

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 【「(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…」からの続き】

 シャルリー・エブド誌に関して、世俗主義という観点から擁護する声と、やりすぎだと批判する声が錯綜している。
 私は先の文でも触れたとおり、基本的には「世俗主義」が全てではないと思っており、言論の自由にもなんらかの制限は必要である、という立場である。
 しかし、「節度」とは何を持ってであろうか?
 「人を傷つけない」というような抽象的な定義ではおそらく不十分だし、そういった抽象的な定義は通常マジョリティ、また
マジョリティの持つバイアスを利用した権力者に都合のいいジャッヂになりがちだ、ということは歴史が教えてくれるであろう。


2015年2月12日木曜日

多元的なデモクラシーのための「敵」としてのイスラム国(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…

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 シャルリー・エブド誌の襲撃事件とISIL/イスラム国による日本人人質殺害事件と、イスラム教原理主義が絡んだ二つの事件が立て続けに起こったことで様々な議論が起きている。
 これまでのところ、いくつか、十分に指摘されていないことがあるように思うので、まとめておく。


1)
 シャルリー・エブド誌の事件で気になったことは、タラル・アサドの紹介が、日本国内はもちろんとして、海外のメディアでもあまりなかったように思うことである。
 (ムスリム系の名前のジャーナリストや若手研究者のものと思われるブログなどで若干紹介されていたのは見かけた)

 サイードの名はかなり専門外の人々にも知られているが、アサドはおそらくさほどではないと思う一方で、どのメディアもコメントを取りに行かないということも考えずらく、ご本人による意図的な沈黙なのかとも思うが、よくわからない。
 ともあれ、ここでアサドの議論を振り返ることは有益であろう。