2015年5月7日木曜日

サルのシャーロット、大江健三郎、"Change" の三題噺

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 で、ひとつ思っているのは「過剰反応」という評価はちょっと違うと思っていて(ある意味より深刻なんですが)、たぶん、高崎山動物園に抗議した人のうち、ある程度の割合の人の頭の中には Emobile の宣伝で、オバマ大統領(当時上院議員)の選挙キャンペーンのキャッチフレーズだった "Change" をつかって、アメリカの人々からの抗議で放送中止、という件が念頭にあったんじゃないだろうか、という気がします。
 (で、やはり「サル」が西欧社会で嫌われがちな動物であって、たとえばイヌの名前だったら許容されてもサルだとダメなのではないか、という推論が働くことは、さほど不合理とは言えないのではないか、と思います)



 で、これが重要なことなんですが、もしこういう推論での抗議が多いのだとしたら、国際社会において配慮すべきことが決定的に間違っている、ということです。
Europe 2003  シャーロット妃をネタにすることは単に「不敬」の問題で、オバマ氏がアフリカ系アメリカ人であることをネタにすることは「差別」で、世俗化された社会において問題とされるのはあくまで後者である、ということが、きちんと理解されているかどうか、という不安を掻き立てられるわけです。

 差別やヘイトスピーチというのは、特定の言葉の意味の問題ではなくて、それがどのように使われるか、つまり社会排除的な意味を持つ形で使われているかどうか、ということなわけですね。
 で、実際はオバマ大統領はアフリカ系アメリカ人と呼ばれる人々に属しているのであり、アフリカ系に対して、「サル」という言葉を使うことは、実際に社会排除的な場面で使われてきたし、今後もそういう意味を持つであろう、ということです。
 これは、もうバラック・オバマ氏個人の問題ではなく、特定の属性を持つ人々全体(その中には社会的に弱い立場の人たちを多数含んでいる)に対する攻撃的な言説でもあるわけです。

 一方で、プリンセス・シャーロットは衰えたとはいえ日の沈まぬ帝国の支配者の一族に生まれ、長じてはイギリスのみならず世界の政治に一定の影響力を行使するであろう人物であるわけです。
 こうした人に対しては、失礼とか不敬ということはあっても、差別、ということにはなかなかならないわけです。
 そして「不敬」というのは(シャルリー・エブド誌の問題で議論されたように)デモクラシーにとっては必須の要素でもあるわけです。

 これは、おそらく大江健三郎氏が憲法記念集会で安倍晋三首相をよびすてにしたことに対して、「安倍首相呼び捨て批判」が起こったことと関係しているでしょう。
 私たちは、民主国家を作っていくために、失礼や不敬、涜神と「差別」を明確に切り分けていく必要があるでしょう。


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