2015年12月8日火曜日

軍事研究を大学が受けることの問題について

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第二次世界大戦後、長く日本の大学は軍事研究に参加しないという方針を共有して来た。近年、政府の方針転換や大学の予算不足と言った様々な方針により、徐々に解禁の方向に動いている。これには当然ながら反対運動もあり(私はこの反対という立場に賛同するものである)、様々な議論が行われている。また、議論が行われている中でも、実際に軍事研究費の受け入れは行われており、12月7日付けでも東京新聞が「日本の研究者に米軍資金 12大学・機関に2億円超」と報じているが、この記事の中に多少気になる表現が見られる。

DARPA(アメリカ国防高等研究計画局 / Defense Advanced Research Projects Agency)から研究費を受けることの是非には、いろいろな考え方があろうかと思うので、多いに議論したらいいと思う。DARPAは「インターネットの原型」ともいわれるARPANETや、GPSなどの開発に深く係った機関である。最近では、お掃除ロボット「ルンバ」のアイロボット社がDARPAから研究資金を得るなど、ロボット研究に注力している。ルンバはこのロボット研究を民生用にうまく転用した事例である。こうした、軍事研究に予算をさき、これを民生用に転用するモデルを「スピン・アウト」モデルという。ただし、スピンアウトが常にうまく行くかという点については常に議論があり、実際国防費が無尽蔵に使えた80年代初頭までのアメリカが、製品開発に置いて常に軍事部門の小さな日本に勝てなかったという自体が、この効果が(ゼロではないにせよ)少なくとも絶対的なものとは言いがたいことを示している。

また、DARPAから研究費を得ている企業や大学の研究者が、常に戦争のことを考えている「非倫理的なマッドサイエンティスト」であるというイメージも、(そういう人も一定いるとしても)必ずしも正しくはないだろう。以前、「博士はなぜ余るか? 日本の科学技術政策の10年に関する覚え書き」で(戯画的に)次のように書いたことがある。

「赤の脅威」を背景にした軍事支出というのは、あくまで議会向けのトリックであり、実際は科学技術の発展そのものを目的にした基礎研究に焦点が合っていたのだ、というものである。つまり、たぶんこのころのNASAでは「宇宙望遠鏡の予算が否決されそうだって? ブレジネフの頭を打ち抜くための照準機だとでも言っておけ」というような会話が交わされていたに違いないのである。この状況は実は人文・社会系でも例外ではない。当時500人の常勤研究員を抱える巨大シンクタンク、ランド研究所は左右を問わず良識的な人々からは道徳観念の欠如した天才たちが空想上の殺人ゲームにふける場所としてうさん臭がられていた。もちろんこれは8割方事実なのだが、一方でランド研究所は他の場所では潤沢に研究費を得られるとは言い難い研究を行うものにとっての天国でもあった(ランドが扱ったテーマとして、「ソ連のレンガの値段、サーフィン、意味論、フィンランド音韻論、猿の社会集団、玩具店で売られている有名なパズル「インスタント・インサニティ」の分析など」があった)。結局のところ当時、アメリカの大学に所属する研究者のかなりの比率がペンタゴンの出資する「国防関係の研究」という名目でかなり好き勝手やっていたと言える(それらの研究の殆どが現実的にはソヴィエト連邦にとってなんら脅威ではなかったであろう)。

そこで今回の記事で気になる点である。記事は

複数の大学や研究者は「研究費の不足を補うためだった」と説明。資金は研究に使う薬品の購入などに充て、米軍には「簡単な報告書を書いて送っただけ」としている。

と述べている。実際そんな感じであったろうことを、あまり疑う理由はない。しかし、20世紀半ばの研究環境と現在では事情は大きく異なっている。つまり「研究倫理」という問題である。研究者は、税金をつかって(あるいは企業などの研究費を受け入れて)研究することの意味を社会に説明することを求められるようになっている。もちろん、税金を支出する側の意図(それが、純粋に科学を人類共有の文化として振興しようと言う意図であることもあるだろうし、新薬の開発などによって人々の健康を増進し、また経済を活性化しようという場合もあるだろう)と、個々の研究の目標はすり合わされていることが前提になるだろうし、その「ミッション」を逸脱することは、通常は好ましいことではない、と判断されるはずである。
 ところが、軍事研究の場合は、元々の研究費に内在する意図を無視してよい、あるいは「無視することが奨励される」というのは妥当であろうか? その場合、研究者としては、例えば厚労省や環境省からお金を受け取る場合に比べて、軍事費からの研究は「より自由な」お金だと考えることは妥当だろうか? だとすれば、政府が研究者により自由裁量を与える場合、それら省庁を経由するより、自衛隊を経由した方が、タックスペイヤーによる監視から自由な研究費を研究者に渡すことができる、と考えるかも知れないが、これは妥当だろうか?
 あるいは、他の研究費についても「基礎研究に、これは産業振興、これは人類の共有知の育成、これは何何、と目的を課することがそもそも不可能なのだ」というべきであろうか?(これは、90年代以降の日本政府の科学技術政策の基本方針の敗北を意味するだろう) 何れにしても、軍事研究の是非については、応用研究と基礎研究のあり方、また政府や資金提供者と研究者の関係性のあり方をどのように定義するか、という問題を含んでいる。つまり、軍事費にもアカウンタビリティ(説明責任)を含む研究倫理一般を高いレベルで求めていくのか、「軍事費に依存する研究は、むしろ倫理的ではない方が倫理的」というパラドクスを積極的に引き受けるべきかのか、考えなければならないのである。