民主党の玉木雄一郎氏(香川2区)が次のような発言をしていました。
大切なのは「がんばる人が安心できる」社会だと思う。右派の「がんばっても安心できない」社会や、左派の「がんばらなくても安心できる」社会はいずれも社会の活力を奪う。当たり前のように聞こえるかもしれないが、この「がんばる人が安心できる」仕組みこそ、今の日本に必要な政策だと考える。
— 玉木雄一郎 (@tamakiyuichiro) 2015, 12月 16
それに対して、批判が殺到すると、
「がんばる」って言葉、私が考えているより狭く考えておられる方が多いなと思いました。病気で闘病されている方、少ない年金の中で一所懸命生計を立てておられる高齢者は、「がんばっている」人には入らないと考えてる人が多いのかなぁと。私は、がんばる人が安心できる社会を目指したいと思います。
— 玉木雄一郎 (@tamakiyuichiro) 2015, 12月 16
さて、この議論は大きな問題を孕んでいると考えますが、それについて説明します。
1)リベラルとはなにか?
まず、我々の社会で政治は「リベラル」(欧州で使う意味で。米語の「リベラル」は意味が違う)と「ソーシャル」に大きく二分されます。
リベラルというのは、人々の(主に所有権やその他経済活動上の)「自由」(自由権)を重んじる立場で、歴史的にはまずこの人たちが民主制の担い手として登場し、現在では中道右派と呼ばれるグループが主張しています。
例えばイギリスのキャメロン首相が率いる保守党や、フランスのサルコジ前大統領の共和党がこの典型例であり、主に経済的自由から利益を享受する経営者や投資家から支持される政党によって主張される、と考えられています。
この立場では、経済の自由が社会全体としての福利を最大化させる効果を持つ(所謂「神の手」という考え方)のであり、国家の市場介入は最低限にとどめるべき、と考えます。
なので、ヨーロッパの文脈では「政府による福祉を全て撤廃しろ」という過激な(アメリカでは普通に見られるリバータリアン的な)考え方はあまり見られませんが、政府の市場への介入は最低限のほうがいいわけです。
そうはいっても、それぞれの出自による、市場競争での有利不利はあるので、「出発点での平等」を保証することは政府の重要な役割だと考える「リベラル」も少なくありません。
この場合は、普通は教育の機会平等(特に、教育の無償化や奨学金の充実)が政府の政策として最も好ましい、ということになります。
リベラルが優勢な状態でも、欧州各国で大学の授業料などが無償か、極めて低い額にとどめ置かれているのは、こういった考え方がベースにあります。
つまり、リベラルが求めるのは「機会の平等と公正な競争」であり、「がんばったかどうか」というのは、市場がそれに応じてくれたかでのみ判断できる、と考える人々です。
2)ソーシャルとは何か?
ところが、これでは不十分だと考える人が出てきます。
この人たちは、「機会の平等だけでは十分ではなく、全ての人々が健康で文化的な生活を送れるという結果の平等が必要だ」と主張し、これを「自由権」に対して「社会権」と呼びました。
これが左派、あるいは(広義の)社会主義という立場であり、現在では英国労働党やフランスの社会党などが代表的な政党であり、主に「労働者の権利」といったところに依拠して闘う賃金労働者によって支持される政党によって主張されます。
ただし、この発達段階はやや複雑で、英国労働党などはトニー・ブレア元首相によって、経済発展と労働者の権利をバランスさせて、企業にも支持される「現実的な政策」をとる中道化を計りました。
これらの「中道化した社会主義政党」は、政権を獲得することには成功しましたが、一方で労働者の権利は切り下げられたと考える向きもあり、今年の選挙では労働党内で長くブレア路線に反対し続けて来た古参の左派、ジェレミー・コービンが党首選を制し、社会主義色を強める路線変更が行われました。
これが、イギリスの有権者にどう評価されるかは注目されるところです。
また、これらの「中道左派」勢力は、社会権は保証されるべきだとしても、それは資本主義の枠組みの中で行われるべきであると考えており、「国家は財政出動や企業活動の規制、増税などといった手段を用いることで『結果の平等』を強化すべき」と考えます(こういった立場を、英国の経済学者ケインズに習って「ケインズ主義」と呼びます)。
これに対して、かつてのソヴィエト連邦がとったように、全ての生産資源を国有化する考え方を計画経済とか、経済学者マルクスの名を取って「マルクス主義」と呼んだりします。
(ケインズ主義で主張されることがすべてケインズの主張で、マルクス主義者のいうことがすべてマルクスの主張したことか、というと、それはちょっと難しい問題です)
現在ではより左派的な政党も、「すべての生産資源を国有化せよ」という言い方をすることはほとんどありません。
ただし、一般的には左派の方が国有化を支持し、右派は国有化を嫌うという傾向はあります(ジェレミー・コービン労働党党首は旧国鉄の再国有化を主張しています)。
いずれにしても、左派が主張するのは「全ての人間が、無条件に持っている人権としての社会権を満たされる社会」であり、「結果の平等」です(ただし、「社会権として認められる最低限のライン」が認められた上で、各人が「がんばる」ことによって贅沢ができるという社会を否定する左派は、いるにしても多くはありません)。
3.「右でも左でもなく、前へ」
この項は余談ですので、めんどうな人は4へ進んで下さい。
1970年ごろから、この左右、ないし「リベラル/ソーシャル」の対立軸に吸収されない政治勢力が現れ始めました。
代表的なのがドイツやスウェーデン、オセアニアなどで急速に支持を確立した環境政党(緑の党)で、彼らは「右でも左でもなく、前へ」というキャッチフレーズを好みました。
このグループは、左右の政治がそれぞれの階級的利益を代表しているのに対して、自分たちは地球全体の利益を代表するのだ、と主張します。
これは、ひとつには70年代前後から、環境破壊や資源の浪費といった、人類の経済活動による地球全体への被害が深刻なものであると見なされるようになって来たからです。
環境保護は左派的な活動と見なされがちですが、将来世代の経済活動の自由も奪いますから、緑の党の主張としては、その活動はリベラルな立場の擁護でもあり、労働者と資本家のどちらかを代表しているというわけでもない、ということになります。
強いて言えば、通常の政治の場には登場しない「未来世代」を代表しているともいえ、これが「右でも左でもなく、前へ」というキャッチフレーズに対応しています。
とは言っても(結局人間は経済だ、という部分もあり)このグループの支持層は現在でも、フリーランス的に働いているが経済的な動向の直撃を受けない弁護士や医師といった「士業」の人々や、高学歴の技術者など、労働者ではあるが給料の増減がさほど生活を直撃しない経済階層の人々であると考えられています。
4.では、「がんばる人が安心できる」社会を主張するのは誰か?
ここでは、「がんばる人が経済的に成功して贅沢な暮らしができる」は、現代では右派左派ともに異論はないと述べました(贅沢のレベルによっては環境派は文句を言うかも知れない)。
さて、問題は「がんばろうががんばるまいが安心できる」が争点である,ということです。
「安心」は通常、「健康で文化的な最低限の生活」の保障の意味で使われます(例えば、年に一回、ヨーロッパ旅行ができないことをもって「安心」の課題とはしない、ということです)。
つまり、安心は通常、社会権の問題であり、福祉の問題であると考えられています。
左派は、玉木代議士も述べる通り、「がんばらなくても安心できる」社会を求めます。
それに対して、右派の主張は「安心は政府のマターではない。機会の平等は提供するが、それによって『がんばったかどうか』は市場原理によって判断されるのであり、政府は関知すべきではない」ということになります。
いずれにしても「がんばった」かどうかは政府にとって関係ない訳です。
玉木議員の立場に対して、当初の批判は発言をこの「リベラル」なもの(なるべく市場にまかせろ)だと捉えて批判したコメントが多く、それに対して議員が「がんばったかどうかは多角的に判断する」という趣旨の返答をしていることが、本件の問題の本質です。
市場原理に基づくべきだと考える議員がいることは問題だとは思いませんが、「安心が『がんばったかどうか』に基づくべきで、かつその『がんばったかどうか』が市場以外の原理に基づきうる」と考える議員がいることは、極めて大きな問題なのです。
「がんばったかどうか」を政府が判断することを求める政治的立場をなんと呼ぶか、といえば、これは「全体主義」とか「極右」ということになり、これは現代の世俗政治の文脈ではまったく受け入れることができません。
近代の世俗主義的な前提では、個々の価値観に政府がなるべく介入することは避けるべきだ、ということになりますが、「がんばったかどうか」はまさに価値観の問題であり、これを政府が判断できるということは、いわば近代の世俗主義を否定し、全体主義という領域に踏み込むということに他なりません。
このことは「自由権」と「社会権」という人権の考え方の基本からは演繹できないのです。
現在でも、欧州の極右がなぜ極右と呼ばれ、例えば先のフランス地方選のように勢力が伸びそうになった場合、既存の中道政党がそれぞれの候補者を調整し(フランスでは「共和国戦線」方式と呼ばれます。対立の「フロントライン」を右派左派から、極右対共和主義に引き直す訳ですね)てまでこれを阻止しようとするのかと言えば、この前提があります。
つまり、極右とは人権(自由権と社会権)を尊重しないということであり、「政府ががんばった人を評価できる」という考え方はそういった前提な訳です。
例えばジェレミー・コービン労働党党首との論戦で守勢にたたされがちなキャメロン英首相ですが、「低所得者用の公営住宅は2014年に何戸提供しました」といった具体策は提示しつつ「だからといって国がすべてを提供するわけではなく、市場効率をあげることが重要」と主張し、一貫して「がんばっている人は救済します」みたいな(情緒的なこと)ことは言わない訳です(そもそも数値目標で提示できる具体策でない、ということもあるとは思いますが…)。
それに対して例えば「同化をがんばっている移民は福祉の対象にしていいが、イスラム主義をいつまでも堅持する移民にフランスの福祉を提供する必要はない」みたいな評価軸を持ち込むのは極右だ、ということです。
「情緒的に納得できる」というのは大概の場合危険な訳で、政府の活動を評価する場合は、それがどのような前提から演繹されているのか、ということが重要です。
そして、一般的に支持される政治的前提というのは自由権か社会権に基づくものであり,ただしこれらは時々矛盾するので、そのバランスをどうとるか、というのが政治であり「右派と左派のどちらを支持するか」ということです。
自由権と社会権を停止する例外的な事情と言うのがないわけではありませんが、一般的に認められる原理は「戦争」と「環境(未来世代)」の二通りだけで、「がんばるかどうか」の価値判断は自由権と社会権に基づかない判断を正当化する原理にはなりえないわけです。