2015年4月27日月曜日

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』 の「反ナショナリズム」批判について

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「すごい日本」ブーム…底流には何が? (web魚拓) という記事がある。
 ここに萱野稔人津田塾大教授ら2名の識者がコメントを寄せているが、実質的に「すごい日本ブーム」批判を批判する内容になっている。通常、こういったメディアが二人の識者からコメントを取る場合、立場のことなる人を掲載するものであるが、今回は読売新聞の意図は明白であろう。
 また先崎彰容東日本国際大教授は、「すごい日本ブーム」批判に対して、
ともすれば、他国への批判や罵詈ばり雑言も目立つのは、そのためだ。一方で日本肯定と同じぐらい、日本や権力を否定する言説も目につく。一見、対立するようだが、同じく精神の不安を表している。不安だからこそ、過激な主張を声高に叫ぶのだ。

 と述べ、「すごい日本」ブーム批判も自国批判もどちらも「同じく精神の不安を表している」のだという見解を述べているが、萱野氏は「自己を肯定したい気持ちは根本的なもので、個人にも国にも、普遍的に存在する」と「すごい日本」ブームを肯定する一方で、批判する側には、「「自分は、日本を自画自賛するような価値観を超越している人間だ」という、ゆがんだ自己肯定があるように感じる。このように自己肯定の気持ちは知識人も乗り越えられない。批判する欺瞞に気づいた方がいい。」と、「すごい日本」ブーム批判は「ゆがんだ自己肯定」であるという。
 日本を肯定することは「すなおな自己肯定」で、それに反省的になると「ゆがんだ自己肯定」とは、反省(Reflexivity)を基盤とする近代哲学の総否定であるように思われるが、萱野氏にとってはこれは健全な批判ということになるのだろうか。
 もちろん、これは新聞記事のコメントなので、編集などが入り、本人の意思を十分に反映していない文章になっている可能性も否定できない。
 しかしながら、萱野氏は同じような議論を著書 でも展開しており、これが単なる編集の結果でないことは明らかであるように思われる。 ここで、氏の著書について検討をするなかで、そのことについて考えてみたい。





 萱野 稔人氏の本は『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』 一冊しか読んだことがないが、これがまた特に前半部分、二度と他の本は読む必要があるまいと思わせるような本であった。
 追って議論するが、前半で論じられる「ナショナリズムを批判する戦後の左派」像は具体性を欠き、実質的に「藁人形論法」であるという意味で、『正論』のような右派論壇誌に掲載されていてもおかしくないレベルのものであった。
 後半、ネグリやフーコーの議論の検証になると(その部分の専門家なのだから当たり前であるが)議論は読ませるものになるが、最後の結論部は、なにしろ最初の論的設定をしくじっているものだから、極めて曖昧なものにしかなっていない。このことについて吟味してみよう。

1)「戦後左派のナショナリズム批判」とはなんなのか?

 まず、問題の根幹となる部分であるが、基本的には「日本の人文思想界では、 ナショナリズムとは何かがよくわかっていないのにナショナリズム批判だけが先行」(萱野 kindle location 194)しており、「反ナショナリズムという立場そのものが、肥大化した自意識による付和雷同の結果である」(萱野 kindle location 161)と批判している。議論の内実はなく、また動機も正当なものではない、と述べているのである。
 「肥大化した自意識」という表現は、読売のコメントにある「ゆがんだ自己肯定」と、ほぼ同義であろう。
 しかし、少なくとも三章まで、この「日本の人文思想界」の具体的な反ナショナリズム論が提示されるわけではない。また、三章で提示されるそれも、基本的には沖縄に関わる問題である。
 これについてはあとで述べるが、世俗国家における地域的/民族的マイノリティ問題というのはナショナリズム批判と直結しているが、決してその全てではなく、沖縄に関する議論だけが具体的な検討に付されるというのはバランスを欠くであろう。

1-1  日本の「反ナショナリズム」思想潮流
 では、日本の「反ナショナリズム」思想潮流とはどんなものであったろうか。これに関しては、我々は定番になっている先行研究を持っている。すなわち、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉: 戦後日本のナショナリズムと公共性』である。
 大著ではあるが決して読みにくい本ではなく、また戦後の議論の経緯を極めて体系的に説明している名著である。
 体系的であり、またその軸は基本的に世代論で説明されているため、それだけで十分に個々の著者の思想に肉薄しているか、という点で問題はあるかもしれない。
 例えば、小熊は次のように世代を分析している。
 戦前派は世代的にどの程度それに染まっていたかは兎も角としてマルクス主義の洗礼をうけており、そのため戦中の国粋主義を相対化することができたし、戦後の自由の中でマルクス主義に回帰することも比較的簡単であった。
 一方で長い大戦期に十代を過ごした「戦中派」は唯一の思想として与えられていた国粋主義が終戦で崩壊し、容易に他の思想に飛び移ることもできなかったために、より虚無主義的な相対主義を支持する傾向があった。
 前者の代表が丸山真男であり、後者の代表が吉本隆明である。
 もちろん、世代の中での差異は重要であり、特に「戦前派」の中での特に左右の対立の中で極めて鵺的な動きをする竹内好を、他の(それに比べると思想にあまり裏表がない、実直な)丸山や石母田正らと同じ枠組みで論じるのはどうか、といった問題は指摘できるだろう。[※ 竹内好の系列に連なる「何故か朝日岩波知識人の枠内として取り扱われる一方で、自民党政権中枢にもコネクションを維持してきた知識人」(朝日岩波系右翼、逆から見れば中曽根系左翼)の問題を縦の流れで捉え損ねる、という問題があるように思う。が、それはとりあえず別の話である]
 さて、萱野はポストモダンの反ナショナリズムがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』論によるものだという前提で話を進めており、吉本隆明にはまったく言及していない。
 小熊の分析(これは今の所、通説というべきであろう)では、共産党は「真の愛国政党」と名乗っていたし、60年安保世代も基本的には「愛国」という枠組みに異論はなかった(これは、この世代が「大衆はファシズム政権に操られただけであり、どちらかといえば戦争の被害者である」という意識を共有していたことと関連している)。
 それに対して、70年安保で学生運動にかかわった世代は「戦後派」以降の世代であり、その上の世代の国民としての戦争責任を追及し、その結果として戦争に加担するような国家との一体感を批判した。
 また、ちょうどヴェトナム戦争があり、アメリカの同盟国として日本が基地を提供するなど、ある種の共犯的立場に立たされたことへの批判も、こうした批判が共有される素地であった。
 こうした世代に熱烈に読まれたのが吉本隆明の『共同幻想論』である。
 アンダーソンがアカデミシャンであり(そして、きちんと読めばアンダーソンはさほどナショナリズムに否定的ではない)、そのナショナリズム批判は読者を近代の主体たるべき世俗主義的な市民に読まれることを前提したものであるのに対して、吉本は詩人・文芸評論家というアイディンティティの強い論者であり、その議論は必ずしも筋道だったものではない。
 『共同幻想論』は学生たちの間でベストセラーになり、多くの学生がそれを小脇に抱えて歩いていたと言われるが、彼らがそれを「十分に理解できる」と思って読んでいたのかは極めて怪しい。
 従って、吉本自身の反ナショナリズムと、それに追随した学生たちの反ナショナリズム的な雰囲気というのは、もしかしたら別物であるかもしれないし、後者はより「感情的」な、一過性のものであったかもしれない(ここでの「感情的」についてはあとでまた論じる)。
 いずれにしても
 (1)共産党および60年安保世代までの左派の論調は、ナショナリズムに肯定的であった。
 (2)70年安保世代に左派の反ナショナリズムは急速に強化され、その議論のベースは吉本隆明であった。
 (3)そして、ポスト吉本世代の左派、特にニューアカデミズムと呼ばれた一群の議論が、ポストモダニズム、ポストコロニアリズム的なナショナリズム批判を先鋭化させてきた。
 以上のような経緯が、日本のナショナリズムに関する戦後思想史ということになる。
 この(3)の部分の理論に、アンダーソンやホブズボウムの存在が重要でないということはないが、基本的には(2)の展開を無視して日本のナショナリズム論はあり得ないように思われるが、萱野の議論はそこを完全に欠落させている。

1-2 「格差」とナショナリズム
 代わりに、まず萱野は左派の格差批判と反ナショナリズムが不整合を起こす、と述べる。
 つまり、
「格差問題はその本性上、必然的にナショナルな問題でしかありえないからだ」(kindle location 267)、なぜなら「日本の労働者が低賃金化しているぶん、中国の労働者にとっては賃労働の機会が増え、また、もらえる賃金もかつてに比べれば上昇しているのだ。  にもかかわらずそれが格差の問題だとみなされるのは、国内的な視点からのみそれがとらえられているからにほかならない」(kindle location 275)

 しかし、「格差問題がナショナルな問題である」というのは必ずしも一般的な見解ではない。
 もちろん、多くの場合経済は国家単位で運営されており、また社会保障給付なども国民国家が担うことが多い以上、国家の枠組みや市民権(/国民)の境界線と格差の問題は密接に絡みついている。
 しかし、多くの論者(たとえばデヴィッド・ハーヴェイのネオリベラリズム論や、穏健左派としてはスティグリッツなどの名が挙げられるであろう)は「国内的な格差、国家ごとの(南北問題として認知される)格差、およびグローバルな格差」の三種類を、一体の、相互に深い関連を持ったものとして論じている。
 ネオリベラリズム批判は日本の人文思想でも盛んであり、研究の深みが足らないとしても、別に方向性として世界と大きく異なっているという根拠は見当たらない。
 萱野は単純労働が海外移転することによって国内の労働者の職が失われたり賃金が低下したりといった要因が格差を拡大させる一方で、国外においてはそういった先進国の職が流入することによって労働者一般の賃金は向上するため、グローバルな格差は解消の方向に向かうのであり、先進国左派が国内格差を問題にすることは第三世界労働者の利益にはならない、と考えているようである。
 しかし、こうした先進国と第三世界の労働者の間にゼロサムゲームが成り立っていると考える根拠は乏しい。
 むしろ、現実に起こっていることは、知財や開発力を持つ企業に利益が集約される一方で、全世界で単純労働が非正規化、不安定化されるという構図である。
 グローバル化は一種の玉突きであり、たとえばインドの商都ムンバイはかつては労働組合に支持された左派が強い都市であったが、近年は工場労働が非正規化され、またネパールやバングラデシュなどの周辺のより賃金の低いエリアからの労働者の流入によって賃金が低下している。
 非正規化によって労組が崩壊したあとに、これら労働者層の不満を集約して支持を伸ばしているのは過激な排外主義をかかげるヒンドゥ右派政党である。
 決して、グローバル化による労働市場の解放が、第三世界の労働者に益をもたらすというわけではないのである。
 もちろん、一方でソフトウェア産業で大成功を収めているインドには、これらIT企業で成功した新興富裕層も誕生しており、グローバル化の恩恵をうける層も増えている。
 ここでも「格差は拡大している」。従って、通常、左派は経済のグローバル化に対して租税協調などの対抗策を練ることが「わが国でも、かの国でも」一般の人々の利益になると論じるのであり、「わが国の労働者がよければよい」というのは少なくとも思想潮流としては一般的ではない(たとえばTPPのような経済交渉における労組や農民組織の主張として「まずわが国」という主張が出てくるのは、それらの組織の性質を考えれば自然であるし、そういうことは多々あろうが、だとしてもそれが左派の意見を代表するわけではないし、思想潮流とは一線を画する話である)。

1-3 「想像の共同体」と「真正な共同体」
 また、萱野は左派のインターナショナリズムについて、 
「インターナショナリズムを志向する人間がネーションを「想像された度合いがまだまだ低い」と批判するなら、まだ話はわかる。しかし、ネーションを「想像の共同体」だと批判しておいてインターナショナリズムを志向することは、論理的矛盾なしにはできないのである」(kindle location 778) 
と主張する。
 しかし、この議論は哲学史的に見て奇妙である。
 ナショナリズムが「想像の共同体」であるというとき、我々は想像ではない共同体があることについて一応の前提を置いている、という点は萱野が述べるとおりである(ただし、この「真正の共同体」概念の批判も、近年の文化人類学などでは活発に行われていることも忘れないでおきたい)。
 そして、ネーションはその成立に対して、自分がこの「真正の共同体」の延長であるかのように振る舞う。
 たとえば、日本人の共通性に神道があるとしても、実際の信仰の形態は日本各地で多様であったし、それは外来の宗教(仏教や道教)と渾然一体となったものであった。
 しかし、明治政府は万世一系の天皇に統治される単一民族国家としての日本、という正当性を強調するために神道を再編し、無矛盾な国家神道としての純化を図る。
 南方熊楠のような在野の研究者はこれに異を唱えたが、多様な「真正の共同体」は、「想像の共同体」にと吸収されていく。
 そして、我々がたとえば「故郷の村」という言葉から感じる情景は、実際は多様であるにもかかわらず、あたかも「我々」がそれを共有しており、他国の人間はそれを共有していない、という幻想が強化されていく。
 靖国神社という存在は、その「想像の共同体」としての国家神道の強化のために導入され、戦争遂行を支えた創作物であるし、その残滓は今でも我々を縛っている。
 たぶん、「日本には四季がある」話を日本人が好み、ともすると「外国人はみな四季を知らない」みたいな話をしたがるのもそうした「共同幻想」ゆえであろう(たとえば http://www.all-nationz.com/archives/1002182171.html を参照)。
 特にこの国家神道および靖国神社の記憶は、想像の共同体を日本の左派が(「真正な共同体」の実在を認めるか否かにかかわらず)批判し続けなければいけない、最も強力な理由であろう。
1-4 インターナショナリズムと人権
 そして、「ネーションを「想像の共同体」だと批判しておいてインターナショナリズムを志向することは、論理的矛盾なしにはできないのである」に関しては、そもそもナショナリズムからインターナショナリズムに移行する際にあるべき、人類が練り上げてきた「理念」についての顧慮がまったくない、と言わざるを得ない。
 つまり、ナショナリズムというのは共同体的紐帯に基づいて秩序を維持する、ということである。
 共同体的紐帯は、隣人愛と呼び変えても良い。
 聖書(マタイ 7:12)は「凡て人に爲せられんと思ふことは、人にも亦その如くせよ」と述べ、また論語は「己の欲せざる所人に施すことなかれ」と説く。
 近代以前の秩序はこの原理に基づいて成り立っているし、現代でも例えば子どもに道徳を教える場合は我々はそのような比喩を使う。
 「人にしてほしいことを、人になせ」という格律は「黄金律」とよばれている。
 しかし、インターナショナリズム、あるいはコスモポリタニズムという場合は、少なくとも我々はこれでは不十分であることを前提としている。
 人類の選好は多様であり、私が欲することを彼も欲するとは限らないからである。
 この議論を定式化したのはカントであり、彼の「黄金律批判」以後、人類の道徳や秩序(法)は、黄金律に寄らずに定式化されるべきであると考えられている。
 従って、現代社会におけるインターナショナリズムは、人倫を、より定式化された命題(カントの用語に従えば、「善意志から導き出せるアプリオリで総合的な提言命法」)として提示されなければいけない。
 この議論からカントが導き出したのは、よく知られるように「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに、同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないようにせよ」である。
 カントについて詳細に立ち入ることはしない。重要なのは、この最後の命題を前提とした道徳や秩序が、共同体的紐帯に基盤を置いた道徳や秩序と大きく違うということである。
 もちろん、この原理は人権概念の基盤であり、国内的な法律もこうした基盤に基づくことが好ましい。
 国民的紐帯に基づく国民国家と、こうしたカント的人倫に基づく国家を区別して、後者をあえて「共和国」と呼ぶ用法もある(ただし、残念ながら「科学的社会主義」がこうした共和国をもたらすという理想が潰えて、「共和国」という名詞にいささかガタがきているように見える現在では、この用法はあまり訴求的ではないだろう)。
 何れにしても、本来のインターナショナリズムは、こうした土着的な「共同体的紐帯」から離脱した市民によって担われるべきだ、という思想に基づいているのであり、ネーションを「想像の共同体」と批判することと、インターナショナリズムの間には論理的齟齬は全くない。
 もちろん、ナショナリズムは「真正な共同体」を支持するコミュニタリアンからは「まがい物の共同体意識」と批判され、一方で世俗主義的なインターナショナリストからは「旧時代の遺物としての共同体主義を捨てられない」と批判される、という二面性を持っている。
 しかし、コミュニタリアニズムとインターナショナリズムは別の思想なのであり、その双方の批判があることは矛盾ではないし、もちろんナショナリズムを支持する論者が「矛盾である」と主張すれば答えなくていいという類のものでもない。

2.)マイノリティとナショナリズム
 第3章で、やっと具体的な反ナショナリズム言説のテキスト批判がなされるが、ここで挙げられているのは主に沖縄独立論についての議論である。
 第一に、マイノリティにとっての国家/民族(Nation という語の両義生に注目する必要が有る)というのは、マジョリティのそれとは少し違う意味をもっているが、ここではそれが無視されている。
 タラル・アサドが述べるように、「マイノリティ」というのは世俗主義的で個人化された近代国家の中で、集合的にしか表象できないような問題を抱える人々である。つまるところ、世俗主義社会とはいっても、実際はその地域のマジョリティの生活習慣や信念を前提として法体系はできている。
 従って、自分たちのバイアスや迷信に、それと自覚せずに依拠しながら暮らすことができる人々はマジョリティである。
 一方、自分たちにとって自然な振る舞いが社会通念とのズレを生じさせ、社会的排除を受ける可能性が生じるのがマイノリティである。
 その場合、自分たちの立場や正統性を訴えるためには、ある程度集合的に対応せざるを得ない(単に自分たちがそうしたいのではなく、「文化」として髪の毛を隠す必要が有るのだ、といった…)。
 この時、本来はマジョリティとマイノリティの双方の「隠れた民族性」が顕在化しているのだが、実際はマイノリティ側の民族性のみが言説の対象になる、というのは本来、フーコーが論じたような「知の権力性」の問題であるが、著者はその点を完全に無視している。

2-2. 多重的な権力構造からの自由のために
 また、この「国民国家内のマイナー・ネイシャン」の問題は、さらにそのナショナリティの内部での権力構造を生む。
 マジョリティであれば、女性に風習を守らせるか否かは単純に権威主義対自由主義の問題である。
 しかし、これがマイノリティの問題になると、「マジョリティに埋没することからの防衛」対「欧米化としての自由主義」という複雑な問題になる。このことを執拗に分析したのがスピヴァクである、という話は以前に書いた
 さて、こういった構造がある時、「国民国家内のマイナー・ネイシャン」には、より強度を上げて「強い民族(ネイシャン)」、場合によっては独立もあり得るような民族グループに変貌させていくか、あるいは想像の共同体性を(理想的にはメジャー・ネイシャンと対消滅させる形で)消滅させていくか、という問題意識が可能になった。
 後者の方向性は、クレオールやマルチチュード運動(セクシャリティの領域においてはクィア運動)として顕在化したわけだが、沖縄独立運動も、実はそうした取り組みの先駆けという面がある。先駆けであるので、他のすべての運動同様、概念を作り出すこと自体に苦心しているという側面があり、今振り返ればその民族主義とアナーキズムの混交体的な思想は、かならずしも人々の理解を得やすいものでない面があるのは事実である。
 しかし、それを単なる夢想として切って捨てられるということ自体が、タラル・アサドが告発するように、我々がマジョリティだ、ということの査証に他ならない。

 3)ネグリの「マルチチュード」論批判
 第3章の後半から第4章にかけてはネグリとハートのマルチチュード論批判を中心として議論が進むが、ここで導入されるネグリやフーコーの論考に関しては、きちんとテキストに沿った分析がされていて、読む価値のあるものである。
 特に、結局ネグリが求めているのは「暴力装置の管理機関としての国民国家」を「暴力装置の管理機関としての(マルチチュードが主権を持つ)帝国」に置き換えようとしているだけであり、かつそれは具体的な方策や制度を欠くため、ネグリが承認できる「暴力」はデモなどの、一般的な政治学では「暴力」とも呼べないものに限られてしまっている、という指摘は、これまで行われたネグリ批判のなかでも最もクリティカルなものの一つであろう。
 この問題は確かに熟考に足るように思われるが、ここで問題なのは、「ゆえに、国民国家からマルチチュードへの置き換えの試みは、議論する意味がない」と論じてしまっているところである。
 著者の主張としては、想像の共同体がファシズムに至るのは、その特殊な事例だけであるというドゥルーズとガタリの議論を引いて、その特殊自体を引き起こさないことが大事だ、と述べる。
 そして、その方策とは、「ナショナルな経済政策や社会政策によって国内経済の崩壊を食い止める」(kindle location 2536)ことだと述べる。
 ここで、本書は序論の議論の根拠の議論に戻ったわけである。
 しかし、すでに述べた通り、ナショナリズムの問題はドゥルーズがおそらく想定しているようなナチズム、大きなファシズムの問題だけではない。すでに述べたように、国内格差とグローバル格差(不平等)、戦争責任、真正性、マイノリティ、法や秩序の根拠(としてのナショナルな紐帯と普遍的な人権の対立)、といった問題が絡んでいるものであり、それらはもちろん「ナショナルな経済政策や社会政策」だけで解決できるものではない。
 そもそも、戦中の日本が、ヨーロッパ人の哲学者が想定するようなファシスト国家であったかは極めて怪しい。東條英機がヒトラーと同質のカリスマ性をもったリーダーだと考えるのは無理があるであろう。
 おそらく、東條も含めたすべてのプレーヤーが保身と空気の読み合いのすえに、無謀な戦争に突入していったというのが実際のところであり、束桿(ファスケス)を持ったリーダーがいたわけではないのである。
 そして、そういった保身と空気の読み合いは、戦後も基本的には続いているように思われる。
 萱野は、人文思想の専門家内部での「空気の読み合い」には批判的だが、日本社会の空気には批判的ではないように思われる。
 確かに、ナショナリズム批判をしておけば論文ができあがる、といった空気が我が国の専門家の間にないといえば嘘になるかもしれず、それは十分に批判されるべきだ。
 その一方で、そのなかで産出された言説は、先に述べたグローバルな格差問題、戦争責任、マイノリティといった問題を反映した結果でもあり、空気を批判するあまり、そこまでなかったことにしてしまうのは不当である。
 しかし、仮に、冒頭に論じた新聞記事を見る限り、それらの問題についての観点からナショナリズムを批判した場合でも、「ゆがんだ自己肯定/肥大化した自意識」という批判で封じられてしまうのではないか、という懸念を多くの人(そのなかにはある種の問題をかかえ、それを社会に訴えようとしているー顕在的であれ潜在的であれーマイノリティが含まれる)に抱かせるに足るものなのではないか、ということである。

4.  日本の人文社会科学一般の問題として
 さて、詳細に萱野のテキストを見てきたのは、もうひとつの懸念があるためであるが、それについて述べたい。
 『ナショナリズムは悪なのか』 を一読して得られる奇妙な感覚は、ネグリやフーコーに関する(つまり著者の専門領域に関する部分の)議論がきちんとテキスト批判に基づいて行われているのに対して、その他の部分が
 1)まったく無視されている(吉本隆明ら)か、
 2)文脈を無視して短く引用されている(沖縄独立論)か、
 最悪の場合は 3)そもそも批判すべきテキストに当たった形跡がない(格差論、インターナショナリズム)ということである。
 これは、要するに、自分の専門であるフランス思想から言えそうなことをいうために、論的についてはかなりいいかげんにでっち上げた、ということである。
 このことは、哲学的議論としてはかなり不誠実なのではないかと思われる。
 プラトンが描き出すソクラテスの論的としてのソフィストたちが、いかに立派に、生き生きと持論を語るかを思い出すと良いが、哲学とは、登場する論敵が強力なほど、立論も強力になるのである。
 しかし、これはこの本だけの問題ではないのではないか、という疑念を持っており、そうだとするとこれは著者の責任ばかりにはできないのではないか、ということである。
 つまり、近年、論文というのは「ちょっと人目を引きそうなことを、自分のもっている知識を活かして」量産するものになっているのではないか、ということである。
 そしてこれは「論文の生産性」ということを考えれば拒否できない面もある。
 しかし、本来の哲学というのは、自分の言いたいことではないことについていかに深く熟考するかにかかっている。職人芸と生産性が対立するという話はよくあるが、人文科学においてはここにそういった問題が現れるのである。
 つまり、格差問題、ナショナリズム、マイノリティといった問題を論じるのであれば、それらに関してすでに述べられた本を詳細に検討する必要がある。
 この文章で挙げた範囲でいけば、カント、南方熊楠、丸山真男、吉本隆明、竹内好、小熊英二、スピヴァク、タラル・アサド、といった具合であろうか…。
 こういった吟味はしなくてもそれなりの文章は書けてしまう(本書に関して言えば、ネグリ批判は大変興味深いと認めた通りである)が、総合的な問題提起としては大きな問題を抱えている、ということになる。
 そのための時間が、人文科学の研究者に十分与えられていない、という問題を顕在化させている、という面もあるのではないか、ということも考えておきたい。
 (その意味で、先に学術会議から出た、人文科学も科学技術基本計画の範疇に含まれるべきだという提言があったが、これは状況を悪化させるものとして反対したい。これについては可能であれば稿を改める)。 

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