2015年6月13日土曜日

人文学/人間性の危機とイノベーションの神学

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国立大学法人評価委員会の答申として、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院について」「組織の廃止や社会的要請の高い分野 への転換」が求められたということと、その際に人文学とはどうあるべきかという議論が抜けているということを、過去二回にわたって書いた。

国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話
人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?
ここでは、もう少し詳細に、(主にデリダの『条件なき大学』といった議論を参照しながら)人文学およびそれをになう大学のあるべき形(とそれが形成されてきた歴史的経緯)と今置かれている危機について議論してみたい。



・人道、人権と人文学


今回、憲法学者たちの「違憲」判定を軽視する、あるいは揶揄するような発言が政府与党の要人から連発されていることと、文学部に対する政府の否定的態度の間には、共通の根っこがある。
文学部というのは、別にいわゆる(教義の)文学だけを研究するところではなく(つまり、シェークスピアや森鴎外を研究するだけではなく)、本来の英語が Humanities であるとおり、人間性全般について扱うことが求められている。
 そして、Humanity (人文学/人間性) とは、我々が我々であることの存立基盤に関わる問題に他ならない。
 具体的に言えば、我々は人権(Human Rights )を持っているから自由や社会福祉において平等の権利を有するものとして扱われる。
 逆に、誰に人権があるか、なにが人権に含まれるか、というのは人文学的な課題の中心である。
 例えば日本では、クジラ・イルカ類や霊長類は「知性が高いから保護すべきだ」という議論に対してはヨーロッパ中心主義的だという避難が強いが、しかし、なんらかの権利を認めることと、その対象がなんらかの共感能力や真善美についての判断能力など、一種の知性があることとのあいだになんらの関係性を見出せない、というほうが無理があるのではなかろうか。
 その上で、知性とは何か、人権概念と知性の関係性、これら「知性の高い」動物に認められるべき権利の異同の問題について改めて議論することは有用である。
第二次世界大戦後の歴史は、人間性・人道概念の裁定位の歴史でもある。
 それは、直接にはホロコースト(やそれをめぐるニュルンベルク裁判)の問題として提起され、世界人権宣言(1948年)という形で結実した。
 「日本の戦争がアジアの植民地を解放した」という言い方があるが、仮にそういう力学があるとしてもそれは間接的なものであろう。
 しかし、「普遍的な人権」概念の普及こそが、植民地解放の直接的な駆動要因であることは疑い得ない。
そこで改めて考えてみると、日本政府の人文学に対する否定的態度は「逆コース」に関連があるのではないか。
 第二次世界大戦に敗北した日本は、ドイツ同様に戦勝国、特にアメリカの管理下におかれた。
 この時、アメリカが使命としたのは日本を民主国家として復活させるということであった。
 そのため、当初はルーズベルトの元で左派的なニューディール政策を担ったスタッフが、日本統治/復興政策を担当していた。
 しかし、朝鮮戦争や中国本土における国民党の敗北を受けて、日本を反共の砦にすべきだ、という議論がアメリカ内部で急速に高まり、そのなかで、A級戦犯を含めて、公職追放を受けていた戦争責任者が続々と復権する、という事態になる。
枢軸国が戦前の独裁政権を拒否し、民主と人権の尊重を誓ったが故に、連合国側も懲罰的な賠償を免除し、人道に配慮して戦後復興に力を貸す、という戦後史はわかりやすいが、公職追放を受けた人々の復権はこの物語にはまりにくい。
 特に、安倍晋三首相は岸信介元首相の孫であることを誇っているが、岸の復権やその家系であることが議席や政権を維持することにつながっているという物語は、戦後の「人道と人権の国際化と、それによって救われた日本の民衆」という物語は座りがわるいのである。
 この事情は、ドイツとは異なる事態であり、「人道」という概念を国際社会と協調して精緻化していくのに、障害の一つになったのではないだろうか?
ジャック・デリダも『条件なき大学』で次のように大学(における人文学の問題)に関する議論の口火を切っている。
真理と光についての巨大な問い、啓蒙の問いが人間の問いと常に結びついてきたことだけをあらかじめ強調しておきます。この問いは人間本性の概念に関わるのですが、この本性こそが<人間主義/ユマニスム>と<人文学/ユマニテ>の歴史的観念とを同時に根拠づけてきたのです。刷新され練り直された「人権」宣言(1948年)と「人道に反する罪」(1945年)という法概念の制定は、こんにち、世界化とこれを見守るとされる国際法の地平を形づくっています。

 このことを踏まえた上で、まず大学とは何かを、その成立過程から振り返ってみたい。

・越境する人文学、「見えない大学」

Philo mediev.jpg

まず第一に、本来、学問とはグローバルなものである。
 大学がいつできたかにはいくつかの議論があるが、11世紀から12世紀にかけて、特にボローニャ大学とパリ大学をその先駆とする、という点で一致している。
 もちろん、歴史的に見れはより古い「学校」はありうる。
 現在知られている最古の「大学」はおそらくモロッコのカラウィーン大学で、9世紀にマドラサ(イスラム教の宗教学校)として始まった。
 連続性を考慮しなければ、アテネの名高いアカデメイアやリュケイオンなど、学問の場として歴史的に有名な場所はいくらでもありえた。
 「大学」という制度を人類史に残すことに成功した転機は、ボローニャ大学の「設立」の瞬間ではなく、ボローニャ大学に請われた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が「特許状」(オウテンティカ・ハビタ)を発した時であろう。
 皇帝は大学の教師と学生に学問的理由のための移動の自由とそのための皇帝の保護(つまり訪れた場所の刑法に服さなくて良いこと)を約束していた。これは「大学が競い合う普遍権力や都市の支配から独立した諸権利ないし特権を闘い取る長期にわたる努力の過程の第一歩であって、ついにはここから、大学の自治を確保するための包括的な法的規範が出来ていくことになる」(プラール p.49)
 皇帝への対抗上、教皇庁も同様の保護を大学に対して打ち出していくことになる。また、ラテラノ公会議(1179年)では、大学の授業料は無償であるべし、と宣言された。
中世では「都市の空気は自由にする」という言葉があるが、農村に住む人々が基本的に領主に服属し、移動の自由がなかったのに対して、都市住民は自治を形成していた。
 この自治の基盤になるのが、各職業ごとに組織された職人組合(ギルド)であり、ギルドで徒弟として修行をし、職人の地位を認められれば都市間を移動する自由も得られる。
 領主たちにとっても、もし職人の一人を弾圧すれば、ギルドに所属する職人全体がその領主に対する技術の提供を拒むことになりかねず、得策ではなかったため、強力なギルド組織が、都市が封建領主たちと対等に渡り合うことを可能にしていた。
 大学も、このギルド組織を真似て作られている。
 つまり、大学は(たとえばパリ大学は)「教師と学生の共同体」(ウニベルシタス・マギストロール・エト・スコラーリウム)として発足した。共同体
 学生たちは出身地域ごとに同郷学生会(ナチオ)に所属した。これがネイシャン(民族/国家)の語源である。
 ただ、パリ大学などのケースを見ると、実際は当初、数の上で多かったグループを四つにまとめ、それ以外の地域の学生は適当にその四つに割り振ったということのようで、ネイシャンの語源になったということから想像されるような、民族意識に基づいた区分では(少なくとも当初は)なかったようである。
こうして、大学はギルド組織を真似て結成され、また土地によらない普遍性を確保することになる。
 この理念を最もよく体現した概念は「見えない大学」"Invisible College"であろう。
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 この概念は錬金術を研究する結社であった薔薇十字団に起源を持ち、ボイルの法則で有名なロバート・ボイルやその周辺の自然哲学者によって受け継がれ、英国の王立協会の結成を導いた、と言われる(ボイルは、錬金術が近代的な「化学」へと変質してく、過渡期的な学者であると言える)。
 薔薇十字団による「車輪の上の大学」の図像は、学問が土地にとらわれない越境的なものであり、各地の「大学」はたまたまそこに止まっただけである、という理念を表している。

 国民国家(ネイシャン・ステート)という概念は大学よりあとに成立するものである。
 もともとステート(ないしエステート)は国王や封建領主の財産としての国土を意味したが、君主ではなく土地の人々の大地、ということでネイシャン・ステートという概念が発生したのである。
 このネイシャン(民族/国家)概念の存立基盤には、それぞれのネイシャンが等置されるものであるという理解、つまり一種の世界化(グローバル化。デリダの言葉を借りれば、「地球ともコスモスとも、宇宙とも異なる、「世界 Monde」への準拠を保持」するために世界化/モンデアリザシオンという言葉を使うべきとしている)が必要だったのである。
 そして、その世界化は、オウテンティカ・ハビタを経由することが必要だった(もちろん、そのさらに古層には、ギルドによって職人になり、各地を遍歴した職人/市民の世界経験があるだろうが、これはまた別の話である)。
オウテンティカ・ハビタから見えない大学を経て王立協会に至るルートは、やや事情は異なるもののマグナ・カルタからフランス革命に至る民主制の歴史と相似のものと見ることもできよう。
 現代では、この人文学の越境性を、ドゥルーズとガタリのいうリゾーム上のものと見ることもできよう。
 (個々のキャンパスを持つ)大学とは、この越境的に広がる「学問」が個々の場所に顕現している、というイメージである。
 自然科学に関して言及しておけば、ボイルから王立協会という流れからわかる通り、本来はこの流れの中にあるものだが、自然「科学」として成立していく過程で、人文学的な問いをいったん切り離すことになったという面がある(このことについてはここでは論じない)。

・条件なき大学

したがって、大学は国民国家より古く、また国民国家の主権が支配する領域を超えて広がっている。
 このなかで、国家に都合のいいところだけつまみ食いすることはできないのである。
この性質を、フランスの哲学者ジャック・デリダは『条件なき大学』と呼んでいる。
 デリダの議論によくあるように、この言葉には幾つかの意味が重ねられているが、最も重要なのは、「いかなるものも問い直しを免れえないような場でもあるべきでしょう」ということである(デリダ p.13)。また「条件なき」とは、大学による批判は「『権力なしに』とか『防御なしに』という意味合い」を含んでる(p.15)。もし、十分な権威や権力がある場合にのみ、批判がなされるとしたら、それは「公的な」ものとは言い難く、知識と権威の私的利用である、というのはカントも指摘するところでる。したがって、本質的には大学は「誰かに提供されたものであり、奪い取られるべきものであり続け、多くの場合、無条件降伏する定めにある」(p.15)のである。
 この、大学が「条件なき大学」である場合にのみ、大学は大学たるのであり、その一部だけ切り取るわけにはいかない。にもかかわらず(あるいは、でるからこそ)国家や経済的な諸権力は、大学を領有化し、自らの利益のために奉仕させようと試みるのである。
 デリダは次のように続けている。
 大学は降伏し、時には売却されます。あっさりと占領され、奪取され、買収されるという危険に曝され、複合企業や多国籍企業の支部と化す恐れがあります。こんにち、アメリカ合衆国において、そして世界中で(大学にとっての)主要な政治的掛け金は、どの程度まで研究機関や教育機関は支援されるべきか、すなわち、直接的ないし間接的に統制されるべきか、婉曲に表現するならば、商業や産業の利益のために「スポンサーをもつ」べきか、というものです。周知の通り、この類の論理によって、<人文学>はつねに、学術の世界とは無縁な、収益性が見込まれる資本投資に関係する純粋科学や応用科学のための人質となるのです。

その上で、
 次のような問いが立てられます。大学は無条件の独立を主張することができるのだろうか(またその場合、いかにして)。大学はある種の主権を、きわめて独創的な類、例外的な類の主権を要求することはできるのだろうか? その主権的な独立を無理な仕方で抽象化しようとするあまり、無条件に屈服し降伏し、いかなる安値ででも奪取されるという最悪の危機をいささかも冒すことなく、大学はそれらを要求することができるのだろうか?

デリダによる、この危機に対応するためのプログラム(「肯定的かつ行為遂行的な仕方で批判的な問いを立てる」、またその問い/作品とそれをするという関与の信仰告白の次元の区別を明確にすること、あるいそれらの行為における『かのように』を引き受けること、といった論点が提示されている)についての分析はまた稿を改めたい。
 いずれにしても、大学が、オープンであることでしか機能せず、それによってこれまでも様々な危機にさらされてきており、今も(もしかしたらその大義のの溶解という意味では過去最大の)危機にさらされているのかもしれないが、にもかかわらず、その本質を維持することでしか大学は大学たり得ない、ということが議論の出発点になるのである。

・イノベーションの神学

さて、その危機の本質について、もう一つの論点を見ておきたい。
 人文学の排除と協調して起こっていることは、イノベーション概念の強化である。「社会の要請」に答えないということを定式化するとき、「お金にならないと言われている」といえば、人文学に否定的な人々も「そうは言っていない」というであろう。しかし、イノベーションという言葉はもう少しだけ包括的なものとして使われている。このことについて見ていこう。
日本では、科学技術に対する予算執行は「科学技術基本法」に基づいて「科学技術基本計画」が策定される形で行われるが、第3期基本計画までは分野(情報科学や生物学といった)で重点領域が指定されていた(いわば、科学者共同体の側の事情が重視されていたのである)。
 一方、第4期以降は、イノベーションという概念が重視されるようになった。
 イノベーションは、個々の分野よりもエンドユーザーである一般の人々の生活から見たニーズの側面が重視された言葉である。
 あるいは「イノベーション」は自足した体系である「ディシプリン」を外部(社会)の側がコントロールするためのインターフェイスをつくるための制度、ということもできるだろう。
 第4期以降の基本計画において重点分野は、たとえば、人々の健康を向上させる「ライフ・イノベーション」と環境問題の解決に結びつく「グリーン・イノベーション」という形で定義されている。
 欧州でも事情はわりと似ており、このことは悪いことではないし、ある意味では不可避のことであるかもしれない。
 しかしながら、問題は「イノベーション」が無定義の絶対善になってしまっていることである。
ある人にとってはイノベーションであることが、ある人にとっては迷惑である、という状況は容易に想像がつく。
 イノベーションがコモディディの領域にとどまっているのであれば、消費者はそれを消費するかしないか、という選択をすればいいということになる。
 しかし、「情報化社会」と言われるように、イノベーションが社会全体に及ぶようになると、個人の選択でそこから逃れるということは非常に難しくなる。
したがって、イノベーションは進めることが必要であるにしても、同時に分野横断的(哲学、倫理学、経済学、社会学、法学、etc. etc.)に批判的に検証していかなければいけない。
 「条件なき大学」にとって、イノベーションが例外であってはならないのである。
しかし、現実には近年「イノベーション」を研究する領域(科学技術政策、科学技術社会学)のポストは、イノベーションを推進することを求めるものばかりである。
 (大学研究職の求人が集中的に公開される JREC-IN Portal で「イノベーション」と検索をかけてみると、そこに否定的な記述はまったく見られないことに気づくだろう)
 たとえば、国家や民族を扱う人文学領域があったときに、「日本国の国家概念の推進につながる研究」を求める公募があることは、20世紀前半までならともかく、現代ではほぼ考えられない。
 あるいは、イノベーションと似た言葉に「開発」(development)があるが、現在では開発援助を推進するような研究と同じくらい、開発概念の批判的検証が研究として行われている。
 こうしてみると、イノベーション概念は現代の大学で特別な地位を確立してしまっている。
 大学はこぞってイノベーションを追求しており(今回の「人文学」騒ぎは、文学部すらもこの方向性に奉仕するように求めている)、その一方で批判的検証の回路はほぼ存在していない。
 あたかも、かつての神学部における神の位置を、すべての学部に対してイノベーションが占めてしまっているかのごとくである。
もちろんイノベーションをカントの善意思のような、絶対的な善と捉えてその成立条件を探る、というアプローチもあり得るだろう。
 しかしその場合は、多少なりと否定的な要素のある技術はイノベーションの枠から排除され、結果的に政府が望むような結論はほぼ出ないことは確実であろう。
 これは、明らかに「イノベーション」を、負の影響もありうることも認め、批判機構をあらかじめ社会に実装したうえで、暫定定期に推進することに比べて「生産的なやり方ではない」というのは、イノベーションに対する擁護派も批判派も認めるのではないか。
「イノベーション」の最大の問題とは、それが一見(「大学」がそうであるかのように)横断的であるかのように見えて、実際は極めて局所的で領有化されたものであるところだろう。
 日本の中産階級の「イノベーション」と、アメリカの富裕層の「イノベーション」はもちろん違うし、ましてそれらとアフリカの小農にとってのイノベーションはさらに大きく違う。
 また、イノベーションは企業や国家によって所有される。
 イノベーションはリゾーム上に広がる大学にのって世界中に広がるかに見えるが、起点はしっかりと固定されてしまっており、決してリゾーム的ではない。
 国家や企業は大学リゾームの各地のノードにイノベーションを発生させることを望むが、それが過度になれば、イノベーションは大学の可視化された部分を埋め尽くし、リゾーム上のネットワークを枯らしてしまうことであろう。

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