2023年12月1日金曜日

国立大学運営方針会議に関する議論について

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ボツ原稿公開。 



 

まとめ

 

・大規模大学に運営方針会議を設置するという国立大学法人法の改正は中止すべきである。

 

・国際卓越研究大学制度(所謂大学ファンド)のあり方は根本から見直し、一部の大学を優遇するのではなく、個々の研究者が持続的に研究していくことを支援するために予算を投じるべきである。

 

・大学法人法は、理論的には学長の独裁が可能になる、歪な制度設計になっており、この改正は考えるべきである。ただし、それは少人数の運営方針会議の権限によるものではなく、学生、同窓生、地域などの代表が参加できるような、開かれた制度にすべきである(なぜこういった制度設計がされたのかは定かではないが、おそらく「独裁は研究効率を上げる」という間違った前提に基づいている)。

 

・政治的、経済的な介入から学問の自由を守り、好奇心駆動型の基礎研究を可能にすることが国立大学の最大の意義であることを明示化すべきであり、迂遠ではあるがそれこそが科学技術創造立国への最短の道である。

 

・産学連携は現代の大学にとって避けて通れない課題だが、そのためには大学の交渉力強化が必要であり、そのための専門職を雇用することができるような枠組みが求められる。

 

・軍事研究については、大学で行われるべきではなく、株式会社や社団法人などの架橋機関とクロス・アポインティングなどを活用することによって、大学自体が軍事的な要請から自由であるように工夫する必要がある。

 

 

 

 

 

国立大学運営方針会議に関する議論について

 

 

序:今、国立大学の何が問題なのか?

 

 運営方針会議は本来、大学ファンド(国際卓越研究大学制度)からの資金を受ける大学に設置される予定であったが、東北大学しか審査にパスしなかったために、急遽大学ファンドを受けない大学にも導入を決めたようである。

 そこから推測されるのは、東北大学が目指した方向性が、国の想定に適っており、また運営方針会議を通じて他の大規模大学にも類似の方針を採用させることで大学ファンドの採択に至らせよう、ということではないか。

 しかし、東北大学が掲げた方向性には多くの問題があり、多くの国立大学の一つが冒険的に採用するならば兎も角として、日本の基幹的な役割を担う複数の国立大学がこぞってその方向に動く可能性があることには、大きな問題があると言わざるを得ない。

 せっかく「東北大学一校だけ」という結果になったのであるから、残りの予算は根本から制度設計をやり直し、より幅広く大学を支援する制度に切り替えるのが有効なのではないか。

 

 この問題を考える上で、なぜ大学には「学問の自由」が認められており、政府は大学の方針に対して極力介入を避けるべきというコンセンサスが、歴史的に形成されてきたのかということを理解する必要がある。

 「学問の自由」とは、別に「好き勝手やって良い」という意味ではなく、研究者には職業上の倫理があり、この倫理的拘束に従った上で、内心の自由と知的探究心のみが研究活動を律することができるし、律するべきだ、ということである。

 この倫理を、20世紀を代表する米国の社会学者であるロバート・マートンは四つの原則にまとめている。

 すなわち(1)普遍主義、(2)公有主義、(3)利害の超越、(4)系統的な懐疑主義である。

 なぜこういった原理原則が提示されたかは本項の全体を見ていただきたいが、詳しく見るまでもなく、それぞれは「稼げる大学」とも資本主義そのものとも相性が悪そうだということは見て取れるだろう(ここで「公有主義」と訳しているのは原文では Communism / 共産主義、である。もちろん科学の主眼は「産出すること」ではないので、ここでは公有主義という翻訳を採用するが、要するに科学的な成果は誰かが独占するのではなく、広く共有されるということである。この言葉が利用されたことからもわかる通り、戦前の米国では共産主義という言葉は今ほど否定的には受け取られなかったわけだが、戦後のアメリカ社会ではこの拒否反応が強くなったせいで、現在ではマートンの規範を紹介する文章の多くがここを、Communalism という言葉に言い換えている。どちらの用語を採用するかに関わらず、科学研究というのは、本質的に私的所有と相性が悪いということは認識される必要があるだろう)。

 

 これらの規範に内発的に従う自由(という言葉が分かりにくければ、ここでは自発性とか自律性とか言い換えても良い)こそが、特に基礎研究について重要である、という点を説明したい。

 


2023年2月13日月曜日

同性婚とインセストから現代の結婚に求められるものを考える

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 同性婚の法制化を求める声が大きくなっている。それに対して反発が広がり、「そもそも結婚は生殖(あるいは出産)のためにあるのであり、出産しないカップルに結婚による法的利益を提供する必要はない」とか「同性婚を許容するなら兄弟姉妹の結婚も許されるべきではないか」といった議論も飛び出した。後者に関しては特に、牽強付会と言っても構わないと思われるが、なぜそのような錯誤が生じるのかも含めて、もう一度「婚姻」と「再生産(子どもをつくること)」の関係を考え直してもいいかもしれない。本稿で述べる論点をまとめるなら、以下のようになる。この三つに違和感を感じない方は、最終節だけ読んでいただいても構わないと思う。そうでない方は、少し長くなるが全文にお付き合いいただければ幸いである。


(1)婚姻は生殖のためにあるのではないし、人類のインセスト・タブーは生物学的(優生学的)根拠に基づくものではない

(2)日本文化のインセスト・タブーは極めて弱い。また、世界的にみて、法律上の近親結婚禁止は範囲縮小の方向に動いているし、今後も一般論としてはそうなるだろう。

(3)人類文化にとって「婚姻」の社会的機能はコミュニティの構築/整理だし、その部分は現在も変わっていない(また変わらないだろう)。ただし大家族性をベースにした伝統的コミュニティから、個人の意思を基盤にしたコミュニティに移行しているという違いはある。

 (なお、本稿では性別を問わず兄弟姉妹を示したい場合は「キョウダイ」と記述する)

2022年12月28日水曜日

拙稿掲載のお知らせ(それぞれ、研究者雇い止め問題と科学技術コミュニケーションについてです)

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しばらくご無沙汰でありましたが、以下の二誌に拙稿を掲載していただきました。 

 最初のものは研究者雇い止めが連発される経緯についての解説です。

 二つ目のものは、科学技術コミュニケーションや市民科学といった概念についての見取り図を提示するといった意図で執筆しています。

 ネットでも購入できますので、お手に取っていただければ幸いです。



科学 2023年1月号 - 岩波書店 [amazon]

 ・[科学通信]理化学研究所等での大規模雇い止め問題の背景











『日本の科学者』 2023年 1月号 Vol.58 No.1 通巻660号 [amazon]


 ・科学技術コミュニケーションとシチズンサイエンス: 専門家政治と民主政治の断裂を越えるために

※追記:この論文をオープンアクセスにしていただきました。上記リンクから直接ダウンロードできます。










2021年11月21日日曜日

野党が示すべき労働・福祉政策の中での「ポスト核家族」ジェンダーロール

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 ポリティカル・ライターの平河エリ氏と衆議院議員米山隆一氏の間で、次のようなやりとりがあったようである。


 野党の政策の優先順位について米山隆一議員が Twitter で「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」と述べた。

 この発言は大きな論争を呼んだが、私にはこの米山隆一議員がの発言、「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」でも不十分であるように思われる。

 現在、立憲民主党の代表選が行われており、ジェンダー問題についても議論が行われているようであるが、その場でも(これは、時間がなくて、あまり深掘りできないという事情は汲むべきであろうが)十分な議論が行われているようには思われない。

 実際は「ジェンダーも気候変動も経済や福祉と密接に関係した問題」なのであり、これらのことを個別に分けて政策化するのではなく、一体として考え、そのことをきちんと有権者にアピールできることが重要である。

 この問題について以下に論じておく。

2021年11月7日日曜日

「野党連携は失敗」ではない。小選挙区での善戦は「最初の一歩」である: 2021年衆議院選挙について

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 選挙の結果というのは、選挙の形式に大きく依存する。そして、選挙制度には一長一短があると言われている。例えば、日本がかつて衆議院で選択していたのは中選挙区制であり、各県を複数のブロックに分け、原則として3から5人の議員が選出されることになっていた(実際は人口変動や離島と言う条件などから、最小1から最大6までの定数を持つ選挙区が存在した)。
 さて、定数5の選挙区の場合、どのような結果が想定されるだろうか。ある国には、A党がとB党と言う二大政党が政権を争い、それ以外に数党の小規模政党が存在するとしよう。定数5の選挙区では、例えば(A,A,B,B,C)といった結果になることが想定される。あるいはかつての日本のように一つの党が強く、他党はそれに比べて小規模だとすれば(A, A, A, B, C)になるかもしれない。前者のような状況の場合、定数が4になったら(A, A, B, B)になるか、(A, A, B, C)になるだろうし、後者の場合(A, A, A, B)になるかもしれないし、(A, A, B, C)になるかもしれない。いずれにしても、議席数は定数の区切り方に大きく依存する。


 また、中選挙区を採用していた当時の日本で問題とされたのは、政治腐敗である。中選挙区の場合、特にトップの政党は複数の候補者が同一選挙区から選出される。この場合、むしろ野党と与党よりも、与党内での争いが大きくなる面があり、かつこの選択は(「政策」は党で一致しているのが建前である以上)政策以外のものでの選択にならざるを得ない。それが「人格」だったり、あるいは取ってくる予算規模だったり、というところが問題とされた。そのため、小選挙区であれば純粋にマニフェスト同士の選択になると考えられ、選挙制度が変更されたわけである。
 マニフェストの選択にするのであれば、比例代表制も選択肢である。一般に比例代表のメリットは、有権者が政策での選択にプライオリティをおけることであり、また自分の好む政策を掲げる候補が当選しない、所謂「死に票」が相対的に少なくなることであるとされる。一方で、デメリットとしては、小規模政党が乱立し、第一党でも過半数に遠く及ばない、ということがしばしば発生する。そのため、比例制をとる国では連立政権が基本となり、連立交渉のような「政局」が実際に選択される政策の方向性を決めることになる。この場合、長い政治的混乱が予想されるし、その結果として「政党の構成は国民の関心を反映しているが、連立は数合わせになり、首相は必ずしも国民が望んだ政策を掲げる人物ではない」という事が生じうる。こう言ったことを回避するために、比例制を採用した上で第一党には一定の議席を追加配分するといった補正を行う国も存在する。
 逆に、小選挙区制度は、選挙区を細かくわけ、各選挙区から一名のみを選出する方法である。この場合、中選挙区と違い、同じ政党から複数の候補者が擁立されることは(原則として)ないため、純粋にマニフェスト選挙になる。そして、小選挙区制を採用した場合、一般には二大政党制になると考えられている。これはフランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェの名前から「デュヴェルジェの法則」と呼ばれるものであるが、候補者の数は原則として定数+1に収束していく、というものである。なぜなら、複数回の選挙を行ううちに、ほとんどの場合は得票の傾向が顕在化していく。ここで5人の中選挙区制を考えてみると、6番手の候補までは選挙戦に残ると考えられるが、7番手以降の政治勢力にとっては、労力をかけて選挙を継続するよりも、6番手以上の候補に協力した方が政策の実現性は高くなる。例えば5番目の候補が5%の得票で最後の一枠を確保しそうであれば、4%の基礎票を握る6番目の候補は、2%の基礎票を持つ7番手以下のいずれかの(一人ないし複数の)候補と交渉が成立すれば、逆転が可能になる。しかし、逆転されそうな候補は、さらに別の下位の候補と交渉し、再度突き放すことを試みるだろう。このような形で交渉は展開し、最終的には5番手と6番手が競い合う形で選挙戦が進行する。


 かつて、田中角栄は自由民主党の中で5派閥が争っていたときに、6番目の派閥の立ち上げの動きがあり、この動きの失敗を予言した。というのも、日本の中選挙区制では定数は5までであり、「5派閥」と「野党」でデュヴェルジェの法則に合致する6を埋めてしまっているからである。この逸話は、実質的に五派閥が中選挙区制では政党として機能しており、かつ野党が「全部合わせて1」ぐらいの勢力にしかみなされていなかったことを示唆している。
 さて、デュヴェルジェの法則に従えば、小選挙区制において存在できるのは、各選挙区で定数プラス1、すなわち二大政党のみと言うことになる。もちろん、デュヴェルジェの法則が述べているのは、各選挙区ごとに2政党、と言うことであって、その政党が全国的に同じである必要は規定されていない。実際、インドのように各地域では実質的に二大政党制が昨日しているが、州毎に言語や文化の違いが大きいため、基本的には「二つの地域政党」が各地で勢力を持つと言うことはあり得る。ただ、選挙協力体制などを考えると、日本のような言語・文化的な統合が進んだ国では、全国で二つの大政党が競合すると言うことの方が起こりやすいとは言えるだろう。
 こうしたことから、小選挙区中心の制度に変えれば、日本でも二大政党制によるマニフェスト選挙が行われるだろう、と考えられたわけである。しかし、依然として自由民主党は圧倒的に強く、ごく例外的な期間を除けば政権政党の座を脅かす勢力は存在してこなかった。これは何故だろうか? 


 現在の衆議院の定数は465人であり、うち289人が小選挙区で選出され、176人が全国を11にブロック分けした比例代表制で選出される。基本的には首相を選出するには衆議院の過半数を抑えることが前提になり、つまり233議席を獲得する必要がある。これは、比例代表部分を全て獲得してもなお57議席足りないと言うことになり、比例代表制は票が分散しがちであることなどを考えれば、小選挙区部分で大きな勝利を収めない勢力が内閣総理大臣の任命を行える可能性はないといってよい。この意味で確かに日本は小選挙区制を基軸にした選挙制度を持っている。
 その一方で、比例区部分も決して小さくはなく(全議席の1/3を超える議席が比例区に割り振られている)、また通常候補者は比例区にも重複立候補し、小選挙区の「惜敗率」によって比例区での復活当選の可能性が高まるため、小規模の政党であってもデュヴェルジェ的「二大政党」以外の候補者に票を投じるインセンティヴを残してしまっている。特に、与党、野党、第三局の三候補が激戦を繰り広げるような選挙区はそれぞれの惜敗率が高まるため、結果的に「一つの小選挙区から三人を国会に送り込む」と言ったことが生じる(これは、当該選挙区の有権者が単純に自分たちの利益だけ考えた場合、特定の候補が圧勝して一人だけが国会に送り込まれるより利益にかなう)。また、比例区部分の選挙運動は規制が大きいため、小規模政党も「比例票の掘り起こし」のために小選挙区に当選の可能性が低い候補を擁立するという戦略も選択される(特に共産党はこれを積極的にやってきた)。このことが日本の選挙を混乱させている。

 基本的に小選挙区制は二大政党制に傾く一方で、比例制は小規模政党の乱立に傾く。また、二大政党制の選挙戦略は「有権者の志向の分布を読み、その(人工的にみた)真ん中を見極め、右か左の半分を取りに行く」と言う形になるのに対して、比例での戦略は、政策的に比較的近い政党の支持者を奪う方が楽ということになる。

 この前提で今回の選挙を見れば、野党共闘を掲げた候補が選挙区で善戦したのは「有権者を二分して、その左側を取りに行くことを戦略とした二大政党の一つ」と認識されたということに他ならないだろう。デュヴェルジェの法則はゲーム理論的な「合理性に基づく」拘束であるので、よほど他の事情が大きくなければ多くの有権者は(少なくとも「合理的に行動しようとすれば」)小選挙区の中ではこの法則の範囲内で行動せざるを得ない。一方、比例区においては共闘の意味は高くなく、各政党はバラバラに行動する方が合理的である。再度強調するが、比例区においては比較的政策の近い政党の支持者を奪う方が、政策が遠い党と議論してその支持者を奪うよりも合理的である。この結果、第二党である立憲民主党は挑戦者として「有権者の真ん中を探り、その左側全てを奪う」戦略を取らざるを得ず、結果として「右側全て」を狙う自民党と、二大政党制の一つとして争わなければならない。小選挙区の結果を見れば、この戦略は一定の成功を収めており、かつ選挙を繰り返すうちにデュヴェルジェが述べるような原理に従って、この側面は強化されていく事が予想される。
 一方で、維新や国民民主党のような「第三局」志向の政党は、比例区での戦略に特化することが合理的である。そして、基本的には、支持基盤が弱い野党側から票を引き抜く方が楽である。国民民主は明らかにそういう戦略を取ってきたし、維新は本質的には大阪で「緊縮と公共サービスの切り下げ」というネオリベラル政策を推進してきた政党だが、総選挙のマニフェストに関しては総合課税やベーシック・インカムなど、左派的な政策を主張していた(ただし、総合課税であるがフラットタックスであり、ベーシック・インカムも他の福祉の大幅な切り下げを伴う、偽装左派的な側面の強いマニフェストではあった)。岸田自民党も、中道に舵をきるサインを出しており(ただし、これも選挙戦の討論の中で、概ね口だけであることが明らかになったと思うが)、「"真ん中"を探る二大政党の闘い」においても、自民党が中間に攻め込んでいた。このことは立憲民主党にとっての、つまり政権を狙う党になるための闘いという意味では難易度が上がったと言えるが、立憲民主党の政策を支持するような有権者にとっては、必ずしも不利益ばかりではない。政策の「重心」は民主党政権崩壊以降、最も左によったと言えるだろう。


 さて、こうして考えるならが小選挙区で善戦する選挙区が増えたということは、二大政党制による政権交代を見越した選挙を行う、という小選挙区制の目標に一歩近づいたと言える。もちろん、現在の議席数では政権交代には程遠いことは事実であるが、今後同じ枠組みで選挙を繰り返すなら、デュヴェルジェが主張したように、一種のキャリブレーションが効いていく可能性は決して低くない。問題は、そのために必要な期間、野党側で資金や凝集性が保たれるかということである。このことは政治に関わるものの多くが直感的に知っているから(繰り返すが、これはゲーム理論的な帰結であるため、有権者のイデオロギー構成がどう推移するかとは独立に、他の要素が多くなければ結果は遅かれ早かれ近似していくだろう)「野党共闘は失敗だった」キャンペーンを貼っている面は小さくないと思われる。


 その上で、戦術上の小選挙区の要求(有権者の「真ん中」を見極め、その左右で妥協すること)と、比例区での要求(比較的近い思想や勢力の政党から支持者を奪うこと)のバランスを取ることが必要だが、これは至難の業である。一方で、小政党が「二番手」を逆転することも決して容易ではない。「対案」というのは、マニフェストを示し、首班指名に勝つことであれば、もし彼らが本当に「対案」を示したいのであれば、二大政党のうち政策の近い方と連携するしかないはずである。そして、この交渉は中道の小政党にとって基本的には有利であり、左派にとっては不利である。というのも、二大政党制において政策は中道によっていくはずだからである(これも「ビーチのアイスクリーム屋」を例に議論されることが多いゲーム理論的な帰結である)。現状、不利なはずの共産党が交渉に積極的で、有利なはずの国民民主党が「共産党が参加している」というだけで参加に消極的なのは、戦術レベルの合理性があるとは言い難い。このことは変わる余地があるし、立憲・国民両党はそれを変えうるはずである。
 ただし、いかに「政治とは妥協である」と言っても、ゲームが成立しなくなるようなルール違反をする政党とは組むべきではないだろう。「戦術レベルのズル(マリーシア)」と、明白なルール違反の間がどこにあるかというのはよく議論すべきだが、これは政治家がというよりはメディアや一般公衆がそれを行うべき領域であろう。こう言ったことが正常化していけば、有権者の投票活動は自然と小選挙区制に順応していくはずである。日本の小選挙区比例代表制というのは、結果の予測が難しく、戦略的投票が困難であり、小規模政党と大政党の戦術のあり方が食い違い、前者と後者の境界が声がたいと言えるだろう。今回の選挙での野党共闘は、野党側を「二大政党制の一角」としての出発点に立たせることに成功したのは疑いないだろう。もちろん、それだけでは不十分で、比例部分での票の獲得を考えなければいけないわけだが、比例部分を重視するあまり小選挙区での成功を捨ててしまうのは馬鹿げている。野党共闘が成功だったかと問われれば、「大成功とは言い難いにせよ、大成功につながる一歩は示せた」と評価されるべきだと思われる。


2021年7月21日水曜日

「性の多様性」に関する問題について: スポーツとトランスジェンダーの問題から考えてみる

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Clivage-de-landrogyne

 



 オリンピックでは、トランスジェンダーのアスリートの出場をめぐって議論になっている。この選手は、「男性ホルモンのテストステロン値が12カ月間にわたり一定以下なら、女子として競技することを認める」というガイドラインの初の適用事例になるはずである。近年、男性と女性の境界線は揺らいでおり、その過程でトランスジェンダーに対する風当たりは強くなっているように見える。アメリカでは、テストステロン値に関する国際的な規定とは別に、共和党の主導によってトランスジェンダーの選手の公的なスポーツ大会への出場を規制する法律が広がっている。アスリートは出生児に女性であったという証明や、遺伝子検査を課されることになる。これらの措置は、(1)倫理的に妥当だろうか? また、(2)実際問題として可能だろうか、ということを考えてみたい。男性と女性がなぜ別れているのか、ということは簡単に答えられる問いではないが、少なくとも「スポーツ大会を公平に運営するため」ではない。この公平さと性やジェンダーの特性が、整合的なものとは限らないが、このことは、あまり認識されていないだろう。

 

2021年2月20日土曜日

科学認識をめぐる論争とその裁定プロセスの問題について

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 専門家と素人のコミュニケーションと言う問題について、かつての議論が再燃していますが、これに関して見直すことは有益だと思いますので、若干コメントさせていただきます。


 まず、政治的な意見の違い、特にリスクに関する見立ての違いが引き起こしがちな問題の枠組みについて見直したいと思います。

 これは、図表のように整理できます。



2021年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

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The Year of the Ox

2020年11月19日木曜日

災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める

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 政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、本来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基本的に春に書いたときのままです)。


 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は再び考えなければならない時にきている。

2020年11月17日火曜日

「大学の軍事研究」は何が問題か

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予定より長くなったので、最初にアブストラクトを入れておきます。

・フンボルト理念やマートン規範は、主に国家の事情(軍事)と市場の理論の二つから脅かされる。この二つの力の介入を大学が回避することは不可能だが、一定の緊張関係は求められる。


・産学連携より軍学の方がより危険な点があるとすれば「機密」という問題である。第二次世界大戦の敗戦は、この問題に折り合いをつけなければいけないというプレッシャーから、日本の大学を解放したという面はある。


・日本はそのかわりに、学術界主導の基礎研究体制の導入に成功した。これを担ったのが日本学術会議であった。ただし、これはその時々の政権にとっては必ずしも歓迎すべきことではなく、徐々にこの権限は剥奪されていった(しかし、これは合法的に行われたこと、また学者の側の積極的な抵抗は見られなかったことは認めねばならない)。


・一方、戦間期の軍事動員体制を引きずった戦勝国においては、基礎研究が軍事費を中心に支出されており、産業研究がそこから「スピン・アウト」するという体制が戦後も持続した。1970年ごろになると、これは効率の良い研究体制では無いことが認識されるようになった。


・日本は、コンシューマー製品からの養成が技術革新を主導した。これは技術評価に厳しい購買層と合わせて、素早いイノベーションを可能にした。ただし、1970年代に関しては産業界と大学の接続に難があることは、日米の認めるところであった。これを変革しようと、1990年代の大学改革が始まったが、これを成功だったという評価はほぼ無い。


・現在も、日本は米国防総省のDARPAの研究費の支出の仕方などを模倣しようとしている。これは上手くいっているかどうかの評価はおくとしても、別に防衛省でやらなければいけない意味はなく、実際ImPACT は内閣府で実施された。


・むずかいし機密処理の問題を回避するためには、大学は機密性が生じない省庁から研究費を得るのが得策である。国としては、本来防衛省から出すか、他の省庁から出すかは経路の違いに過ぎないので、どちらでもいいはずである。防衛省にこだわるとしたら大学に「機密」を押し付ける意図があるのだろう。


・大学が機能を劣化させない条件で防衛省と契約することは可能であるが、それには、法律の専門家が検証した契約書を準備し、きちんとした法的な手続きが必要であろう。そうした体制を取れるところはほとんどないと思われる。あるいは、米国の大学であるように、独立の研究所なり法人を別途作り、大学とはガバナンスを切り分けることは可能だろう。大学はその研究所を軍事研究を受けるサンドボックスとして利用し、研究者はクロスアポイントメントを利用してそちらにも所属する。これで学生のリスクは小さくできるだろう。


・産学連携と同様に、デュアル・ユース研究から大学が自由であるという楽園はもはや戻ってこないが、法律などの面からその負の影響を最低限に抑えることは可能であり、学術会議の提言はそういうことを求めている。


2020年10月20日火曜日

「日本学術会議」の設置意図から、現在何が賭け金になっているのかを考える

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1. 「日本学術会議」の設置意図


 なぜ法律を守らなければいけないのか、ということを理解するために、その立法の意図に立ち返って考えることは重要である。人を殺してはいけないことや、人からものを奪ってはいけないことは、さほど考えずとも自明であるように思われる。しかし、例えば人が書いた絵を真似することが、どう言った場面で「違法」になるかは、色々なやり方があるように思われる。だとすれば、どんな社会を作り、どのような方法で、何を守らせようとするかも、実際のところ必ずしも自明とは限らない。ここで、何を目的にして、どう「日本学術会議」を規定する日本学術会議法が定められているかを考えてみたいと思う。

2020年10月4日日曜日

日本学術会議会員任命拒否について、アカデミック・コミュニティはどのような態度で臨むべきか: 様々な差別と人道に関する論点を忘れない

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 日本学術会議会員任命拒否問題に関しては、学術会議側も外された六人の任命を求めるなど、アカデミック・コミュニティとしても抗議の姿勢を強めていくようである。それは大変大事なことだと思う。ただ、現在の与党幹部と話が通じるという前提でかかるのであれば、不安もある。話が通じるかということは、「学問の自由」というのが、民主国家を支える大前提の一部、それも極めて重要な一部であるという価値観を共有できるか、ということにかかっている。そして、それは(例えば副首相が「大人になってから因数分解や三角関数なんて使わないから、義務教育は小学校まででいい」と言ってしまう状況であることを考えれば)ちょっと望み薄なのではないかと思っている。

 すると、妥結はある種の「力のあるもの同士の取引」になるのかもしれない。アカデミック・コミュニティとして、それで満足すべきなのか、という問題である。


 排他的なポピュリズムというものが世界を覆っている。政治家は、政府の失敗や不作為から目を逸らしつつ、大衆を満足させるために、敵を指名して見せる。敵は様々なマイノリティであることもあるし、あるいはネオリベラルな経済的な文脈で公務員や労働組合などが「改革の敵」「既得権益」として名指されることもある。パブリック・エネミーとして名指されたグループを大衆は非難し、その非難に加わることによってマジョリティの結束は高まり、政権は支持をます。エヴィデンスに基づいた政策論争よりも、この第三項排除の政治の方が、為政者にとって都合が良く、楽でもある。それに争うためには、良質な議論を提供する、政治的・経済的な圧力から独立したメディアの存在が欠かせないが、メディア自体が凋落の一途である。大量のフェイク・ニュースを提供するという方法論は、第一に民衆に「排除の理由」を提供することにあるが、低コストで大量のジャンク・ニュースを提供させることによって、取材や議論に手間のかかるニュースサイトのプレゼンスを低下させ、そこからの収益を奪うという効果も秘めている。


 こうした中で、文化の基盤としての多様性は痩せ細り、公的なサービスへの不信感は増幅されていく。増幅された公的サービスへの不信感は、為政者がそれを営利セクターに売り払い、主権者の手から取り上げ易くもする。大学とか知識は適切に運用されればこう言った構造によって、生きるリソースを奪われようとしている人々を助ける力になる。ゆえにこそ、まず差別や歴史修正主義を扱う人文系が標的になるわけである。すでに科研費による歴史研究が日本政府に対して「後ろ玉」になっているという見解が杉田水脈議員によって国会で述べられるまでになっているが、これも今回の件と一続きであることを認識すべきであろう。大学は脆く、攻撃を受けやすいものであるが、最初に攻撃を受ける場所ではない。世論というのは兎角忘れっぽいもので、学術会議をめぐる騒ぎで、その直前の、これもまた杉田水脈議員による「女は嘘をつける」発言は忘れ去られそうであるが、これらが一連の流れの中にあることを忘れてはならない。


 かつて、ピエール・ブルデューは高級官僚を国家の右手、現場で公共サービスを担う教員、窓口職員、現業職のような人々を国家の左手に例え、ネオリベラル体制を右手による、左手への攻撃に喩えた。日本文化の中にいるものであれば、公務員叩きとレント・シークを、「タコが自らの足を食うような」と見るとしっくりくるかもしれない。しかし、「科学技術創造立国」を国是として掲げながら、一方でノーベル賞受賞者を含む科学者たちのグループを「既得権」として叩き始めるというのは、「このタコ、ついに足では飽き足らず、自分の頭まで食べ始めたよ」と笑うべきところであろう。しかし、だからと言って、頭が「足だけにしておけ」という態度に出るのは好ましくないだろう。

 

 知性があると自認するものにはインテグリティが求められるであろう。これは、一般原則から演繹された倫理に忠実であるべきだ、ということである。なぜ知識が重要であり、知識を産み出し、守る職は公的に確保されるべきなのか。なぜプラトンは彼の学校を世俗の政治から隔絶できるアカデメイアの森の中に作るべきだと考えたのか? それから2000年以上の歳月を経て、我々は知識をいかに積み上げてきたのか。その知識は、我々がどのように振る舞うべきだと教えているのか?



 回答は、多少のグレーゾーンをがあるにしても、概ね明らかであるように思われる。なぜ学問の自由は守られるべきなのか。それは第二次世界大戦の反省と、今沖縄で行われていることと、様々な形で不安定な身分に置かれている外国籍の人々への政府の態度の問題と、その他様々な人道上の問題と連続しているものとして扱われなければいけない。政府与党と科学の貴族たちの対話が、かつての米国大統領とソ連書記長が葉巻を片手に交わしたような、相手の人道問題を黙認する代わりにこちらの問題も見逃してもらう、と言ったものであってはならないことは強調されなければならないだろう。


 任命拒否を撤回する運動が、その他様々な問題を見直すきっかけの一つになることを願っている。


2020年9月8日火曜日

『日本の科学者』9月号 <特集>待ったなし,気候危機を回避するために (…に拙稿掲載)

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   『日本の科学者』9月号に拙稿が掲載されています。

 気候変動特集の序文、という位置付けの短文です。

 (目次のページで序文は読むことができますが、ご購入いただければ幸いです。)

 9月号への貢献はこれだけなのですが、しばらく編集委員をさせていただくことになりましたので、社会的・科学的に意義のある雑誌にするために及ばずながら努めて参りたいと思います。



2020年8月3日月曜日

研究者のワーク・ライフ・バランスについて

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 九州大学の中山敬一教授がネットに公開している女性研究者のキャリアに関する文章が議論を呼んでいる。(リンク先に飛んで「女性研究者の有利と不利」をクリックしていただきたい)
 

 ここで、同氏の文章について、問題を整理しておく。
 先に結論を述べておくと、この文章はセクハラとパワハラの双方の成分を含んでいる。
 こういった文章が大学のウェブサイトに公然と載っていること自体が問題であり、またこの態度で研究室運営を行っているとすれば、実際の被害者も多くいると思われる。
 ただ、一方で(少なからぬ擁護者もいるように)ここで表明されているような感覚はいまだに日本の大学の少なからぬ研究室を支配しており、ここまで公然とは言われないにせよ、同様な感覚を抱いている教員は多いかに思われる。
 その意味でも、ここで問題を総括しておくことは重要であろう。


 まず、「今は女性研究者にとって有利な時代」だろうか?
 確かに、「国の施策として、女性教員を増やすように強いプレッシャーがかかっている」のは事実ですが、それだけを持って「女性に有利」と判断するのは早計だろう。
 2012年の文科省の科学技術政策研究所のレポートによれば、2005年の博士課程修了者に占める女性比率は26.7パーセントなのに対して、大学に新卒で本務教員として採用される人に占める女性割合は31.9パーセントである(ii)。
 

2020年7月12日日曜日

「オール大阪でワクチン開発」の研究倫理上の問題点について(未定稿)

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某所に提出したメモなので、わかりにくいかもしれませんが、リンク集的な利用価値があるかもしれませんので公開しておきます。
 メモがわりの未定稿の公開ということで、情報を足したりするかもしれません(消すことは、基本しないつもりですが…)。


【これまでの経緯】

(1)4月の経緯
  4月14日、大阪府・市、大阪大学、公立大学法人大阪、地方独立行政法人大阪府立病院機構 及び地方独立行政法人大阪市民病院機構の6者がワクチン開発に関する協定を結ぶ。
 

 アンジェスと市立大学病院も別途、同日(14日)付で協定を結んでいる。
 

 これを大阪維新の会の維新Journalが「オール大阪でワクチン開発」「年内には10万単位で投与」などと宣伝。
  



 この段階では「9月には医療関係者に向けた実用化」(大阪日日新聞)と報じられている。
 

 



(2)6月の経緯
 6月17日の記者会見で吉村知事は
 

 知事が記者会見で使ったフリップにも「まずは、大阪市立大学医学部附属病院の医療従事者(20から30例)を対象に実施」とあるため、知事の独断ないし誤解ではなく、事務方もそう認識していた可能性が高いと思われる。
 

 これには、ネットで「医療従事者」を治験の対象にすることへの危惧の声が上がったほか、市立大から倫理委員会の承認前に発表がされたとして「批判や不安の声」があがったとされている。(毎日新聞)
 



 しかし、吉村知事は6月24日の会見で"「ネット上では『(医療従事者に最初に投与するのは)おかしいんじゃないか』という意見があるのは知っている」とした上で、「それだったら、僕を最初に治験者にしてもらっていい。必要であれば、僕が最初にやりますよ。」"と述べたという(日刊スポーツ)。
 

 なお、府議会議員が府職員に確認したところによれば、府はアンジェスや大阪大学などと6者で包括提携を結んでいるが、治験に関してはアンジェスが市大病院と独自に結んだ別の協定に基づくものであり、府として内容に関知するものではない、というような回答だったという。吉村のセリフはなんなんだ、という…。




(3)実際の治験
 実際は、アンジェスは被験者を業者を通じて募集している。毎日新聞に対して、日程などに関する知事の発言については"府が公表した治験日程には「驚いている。目標にはしたい」とした"という(毎日新聞)。
 

 また、医療関係者の治験参加について、市立大学では(同記事によれば)、
 "「(病院職員に治験を)周知はするが、あくまで自由意思に基づく参加とする」としている。"とした。(同)




【問題点】
(1)第一に、大阪府・市は一体としてこのプロジェクトを進めていると表明しているが、そうである以上、市立大及び付属病院にとっては府・市はその予算の大半を支出する実質的な「オーナー」である。
 その市大病院と雇用関係にあるものに対して、知事の優越的地位は明らかであるから、これを治験に参加させるようなことは、例えヴォランティアだとしても避けなければならない。

 人体実験に関しては、ナチス・ドイツの忌まわしい記憶から、厳格な倫理原則を守って行うべきだと考えられている。それを条文化したものに世界医師会によるヘルシンキ宣言がある(1964年に作られ、これまで何度も改定されている)。
 日本でも、これを医師や製薬会社に強制する法律こそないものの、こう言った国際合意に基づいた治験を求める「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令」などが存在している(この規則を GCP / Good Clinical Practice などと呼ばれることもある)。

 この基準に基づけば、雇用関係にある人が被験者になるといった構造は容認されない。実際、社員を被験者に使ったことにより深刻な事故を招いた例として、我が国でもキセナラミン事件(1963)などがある。

 特に、新型コロナ・ワクチンについては、知事が政治的に宣伝しているということもあり、単なる科学論争の域をこえ、治験に参加するしないが、政治的意見の表明にも読み替えられる恐れもある。
 また、こうして得られた実験結果が、(多発する研究不正の問題を受け)倫理基準が高度化している現在、「中立的な実験結果」として評価されうるかも疑問である。

 第二に、この観点から言えばそもそも知事が特定の医薬品を、治験前から名前を上げて宣伝すること自体が好ましくはない。
 中立的であるはずの治験参加者が、報道に影響を受けて「良い結果を出さなければならない」「良い結果を出すことで知事の応援になる」(あるいはその逆)という感覚を抱かされることになる可能性があるからである。



(2)また、アンジェスの株価はこの間、期待を反映して上げている。
 こういったやり方が、市場という観点からも健全かということは検証しなければならないだろう。
 個別の件がそうかどうかの検証は極めて難しいが、行政がその影響力を利用して株価を上げ下げすることによって、例えば政治家が裏金を作ったり、支持者に対して公表の前に「あの株が上がりますよ」と囁いたり、といったことは容易に行えるわけであり、その点からも行政と一般企業の関係は、節度と距離を持ったものであることが望ましいわけである。
 熾烈なワクチン開発競争が世界中で続いている中で、特定のヴェンチャー企業のそれだけを取り上げることは、この意味でも適切ではない。



(3)アンジェスのワクチンを「オール大阪」として押し出す根拠としては、これがDNAワクチンであるため、比較的早く開発ができる、ということが挙げられている。
 しかし、DNAワクチンが大規模に利用された実績はこれまでなく、開発者の森下教授は安全性も高いと主張する(記事参照)が、これは必ずしも実証されているとは言い難い。
 
 もちろん、DNAワクチンが効果をあげるかどうかもまだわからない。
 こういった状況で、一つのワクチンばかり取り上げることそれ自体が、科学的でも公平でもない。

 これらのことを考えれば、大阪府・市、維新の会、アンジェスが一体となった宣伝の仕方はGCPという観点から見ても大いに問題があると言わざるを得ない。
 もちろん、これらの基準が法令ではなく省令や指針にとどまっているのは、研究活動は大学や民間企業の自主性に基づくものであるべきで、政府が過度に介入すべきでないという前提があることは理解できる。
 しかし、一方でGCPや研究倫理を国が推進していると言ってみても、実際に研究現場がそれらの基準に抵触していたとしても行政として実態把握の努力すら行われないというのであれば、一般消費者は医薬の安全性を信頼することができるだろうか?

 治験の公平性、客観性を担保するための仕組みや、それに誰が責任を取るのか、といった観点からさらなる議論が必要である。

 加えて言えば、米国FDAはCOVID-19など個別の疾患のワクチン開発に関してガイダンスを公表している。
 乱立する「新型コロナ・ワクチン」開発プロジェクトであるが、一定の整理が必要でもあろう。
 安全性の確保に関しては共通見解を表明した上で、企業間の競争については中立的な立ち位置を崩さない、というのが行政の態度としてあるべきなのではないだろうか?
 

 
 
 
 

2020年5月27日水曜日

種子はコモンであるべきである: 種苗法改定反対運動を支持する

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 現在、種苗法が議論になっているが、問題の本質は、その背景にあるUPOVと呼ばれる国際条約である。UPOV、正式には「植物の新品種の保護に関する国際条約」は1961年に締結され、たびたび改定されてきた国際条約である。目的は、種子の「育成者権」を知的所有権の一つとして認めることである。しかし、このことには国際的には長い長い議論がある。


 そのためには、まずコモン(ないし複数形でコモンズ)と言う概念を考える必要がある。コモンは、例えば「共有地の悲劇」などの語彙で有名だが、必ずしも「土地」と言うわけではないので、ここではカタカナで「コモン」としておく。元来、人類は生業に必須だが、一人ひとりで独占したり、管理したりすることが適当ではないものを「コモン」としてきた。例えば日本のような農耕文化では、水源や山林は入会地などと呼ばれ「コモン」として管理されてきた。放牧文化では、家畜を放すための土地もコモンであることも多い。また、ヨーロッパ人に土地を売ってくれと言われた先住民たちが、「土地を売る」と言う意味が理解できなかったと言う逸話が世界のあちこちで語られることがあるが、特に狩猟採集を生業の基盤とする文化では、「所有」と言う概念の方が特殊で、むしろ自然のほぼ全てが「コモン」であった。


2020年4月28日火曜日

『ふらっとライフ: それぞれの「日常」からみえる社会 』出版

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 ふらっと教育パートナーズ (編)『ふらっとライフ: それぞれの「日常」からみえる社会 』(2020) 北樹出版 が発行されています。

 元々は高専の人権教育の教科書として考えられていますので、高校生や大学の教養過程レベルの読み物として適切だと思います。

 私は、「第10章 命の源、水を守る人々: インド、ケララ州の社会運動の現場を巡る」を寄稿しました。同章では、南インドのケララ州の住民運動として、自分たちで水道をつくってしまったオラヴァナ村の話と、地域水源を奪ったコカコーラ工場に反対したプラチマダの人々の話を取り上げています。


2020年4月11日土曜日

COVID-19対応に憲法改正は必要ない

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 火事場泥棒とでもいうべきか、新型コロナウィルスによるパンデミックへの対応で、市民の社会・経済活動を抑制する、より強い強制力を発揮するために憲法改正が「極めて重要な課題」であるという発言が、安倍首相自身の口からなされた。報道によれば、日本維新の会の遠藤敬国対委員長に対する回答の中でのものである。Huffington Post が以下のように報じている


遠藤議員の「緊急事態に陥った際、国が国民の生活を規制するに当たって、ある程度の強制力を持つことを担保するにも、憲法改正による緊急事態条項の創設が不可欠だとも考えている」という発言に対し、安倍首相は「憲法改正の具体的な内容等について、私が総理大臣としてこの場でお答えすることは差し控えたい」とした上で、こう続けた。
「あえて申し上げれば、自民党が示した改憲4項目の中にも緊急事態対応が含まれており、大地震等の緊急時において国民の安全を守るため、国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えて行くべきか、そのことを憲法にどのように位置付けるかについては、極めて重く大切な課題であると認識をしております」


 また、パンデミックへの不安の中で、有権者一般や著名人の中からもそう言った発言が出てきてもいるようである。
 これは、日本のパンデミック対応の基本法である「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が、欧米の類似の対策と違い、市民に対する直接の影響力を持たず、要請に止まると言ったところによるものがある。例えば、欧米では外出禁止令が実効的な刑罰を伴った措置として施行されており、これを破れば警官に逮捕されるし、罰金や懲役などが貸されることもある。一方、日本でこう言った強制力のない法律での対応を余儀なくされる。


2020年3月2日月曜日

議会で対案を出すのは野党の仕事ではない

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 議会において対案を出すのは野党の仕事ではないし、真に重要な問題の場合、野党は対案を出せません。なぜなら、民主制というのは意見が違う、ということを前提としているからです。「意見が違う」というのは、良しとする社会の方向性が違う、ということです。そして、どの政党の「良しとする社会」を目指すか、というのは基本的に選挙のマニフェストを有権者が比較することで争われることです。議会というのは、当然選挙が終わった後に開かれるものですから、そこではすでに「対案の検討」は終わっている、ということになります。

2019年11月2日土曜日

'「条件なき大学」の復興のために: なぜ大学改革がイノベーションを破壊するか' (岩波『科学』掲載)公開

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岩波『科学』2019年10月号に掲載していただきました'「条件なき大学」の復興のために: なぜ大学改革がイノベーションを破壊するか' を公開します。


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