2021年11月21日日曜日

野党が示すべき労働・福祉政策の中での「ポスト核家族」ジェンダーロール

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 ポリティカル・ライターの平河エリ氏と衆議院議員米山隆一氏の間で、次のようなやりとりがあったようである。


 野党の政策の優先順位について米山隆一議員が Twitter で「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」と述べた。

 この発言は大きな論争を呼んだが、私にはこの米山隆一議員がの発言、「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」でも不十分であるように思われる。

 現在、立憲民主党の代表選が行われており、ジェンダー問題についても議論が行われているようであるが、その場でも(これは、時間がなくて、あまり深掘りできないという事情は汲むべきであろうが)十分な議論が行われているようには思われない。

 実際は「ジェンダーも気候変動も経済や福祉と密接に関係した問題」なのであり、これらのことを個別に分けて政策化するのではなく、一体として考え、そのことをきちんと有権者にアピールできることが重要である。

 この問題について以下に論じておく。

2021年11月7日日曜日

「野党連携は失敗」ではない。小選挙区での善戦は「最初の一歩」である: 2021年衆議院選挙について

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 選挙の結果というのは、選挙の形式に大きく依存する。そして、選挙制度には一長一短があると言われている。例えば、日本がかつて衆議院で選択していたのは中選挙区制であり、各県を複数のブロックに分け、原則として3から5人の議員が選出されることになっていた(実際は人口変動や離島と言う条件などから、最小1から最大6までの定数を持つ選挙区が存在した)。
 さて、定数5の選挙区の場合、どのような結果が想定されるだろうか。ある国には、A党がとB党と言う二大政党が政権を争い、それ以外に数党の小規模政党が存在するとしよう。定数5の選挙区では、例えば(A,A,B,B,C)といった結果になることが想定される。あるいはかつての日本のように一つの党が強く、他党はそれに比べて小規模だとすれば(A, A, A, B, C)になるかもしれない。前者のような状況の場合、定数が4になったら(A, A, B, B)になるか、(A, A, B, C)になるだろうし、後者の場合(A, A, A, B)になるかもしれないし、(A, A, B, C)になるかもしれない。いずれにしても、議席数は定数の区切り方に大きく依存する。


 また、中選挙区を採用していた当時の日本で問題とされたのは、政治腐敗である。中選挙区の場合、特にトップの政党は複数の候補者が同一選挙区から選出される。この場合、むしろ野党と与党よりも、与党内での争いが大きくなる面があり、かつこの選択は(「政策」は党で一致しているのが建前である以上)政策以外のものでの選択にならざるを得ない。それが「人格」だったり、あるいは取ってくる予算規模だったり、というところが問題とされた。そのため、小選挙区であれば純粋にマニフェスト同士の選択になると考えられ、選挙制度が変更されたわけである。
 マニフェストの選択にするのであれば、比例代表制も選択肢である。一般に比例代表のメリットは、有権者が政策での選択にプライオリティをおけることであり、また自分の好む政策を掲げる候補が当選しない、所謂「死に票」が相対的に少なくなることであるとされる。一方で、デメリットとしては、小規模政党が乱立し、第一党でも過半数に遠く及ばない、ということがしばしば発生する。そのため、比例制をとる国では連立政権が基本となり、連立交渉のような「政局」が実際に選択される政策の方向性を決めることになる。この場合、長い政治的混乱が予想されるし、その結果として「政党の構成は国民の関心を反映しているが、連立は数合わせになり、首相は必ずしも国民が望んだ政策を掲げる人物ではない」という事が生じうる。こう言ったことを回避するために、比例制を採用した上で第一党には一定の議席を追加配分するといった補正を行う国も存在する。
 逆に、小選挙区制度は、選挙区を細かくわけ、各選挙区から一名のみを選出する方法である。この場合、中選挙区と違い、同じ政党から複数の候補者が擁立されることは(原則として)ないため、純粋にマニフェスト選挙になる。そして、小選挙区制を採用した場合、一般には二大政党制になると考えられている。これはフランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェの名前から「デュヴェルジェの法則」と呼ばれるものであるが、候補者の数は原則として定数+1に収束していく、というものである。なぜなら、複数回の選挙を行ううちに、ほとんどの場合は得票の傾向が顕在化していく。ここで5人の中選挙区制を考えてみると、6番手の候補までは選挙戦に残ると考えられるが、7番手以降の政治勢力にとっては、労力をかけて選挙を継続するよりも、6番手以上の候補に協力した方が政策の実現性は高くなる。例えば5番目の候補が5%の得票で最後の一枠を確保しそうであれば、4%の基礎票を握る6番目の候補は、2%の基礎票を持つ7番手以下のいずれかの(一人ないし複数の)候補と交渉が成立すれば、逆転が可能になる。しかし、逆転されそうな候補は、さらに別の下位の候補と交渉し、再度突き放すことを試みるだろう。このような形で交渉は展開し、最終的には5番手と6番手が競い合う形で選挙戦が進行する。


 かつて、田中角栄は自由民主党の中で5派閥が争っていたときに、6番目の派閥の立ち上げの動きがあり、この動きの失敗を予言した。というのも、日本の中選挙区制では定数は5までであり、「5派閥」と「野党」でデュヴェルジェの法則に合致する6を埋めてしまっているからである。この逸話は、実質的に五派閥が中選挙区制では政党として機能しており、かつ野党が「全部合わせて1」ぐらいの勢力にしかみなされていなかったことを示唆している。
 さて、デュヴェルジェの法則に従えば、小選挙区制において存在できるのは、各選挙区で定数プラス1、すなわち二大政党のみと言うことになる。もちろん、デュヴェルジェの法則が述べているのは、各選挙区ごとに2政党、と言うことであって、その政党が全国的に同じである必要は規定されていない。実際、インドのように各地域では実質的に二大政党制が昨日しているが、州毎に言語や文化の違いが大きいため、基本的には「二つの地域政党」が各地で勢力を持つと言うことはあり得る。ただ、選挙協力体制などを考えると、日本のような言語・文化的な統合が進んだ国では、全国で二つの大政党が競合すると言うことの方が起こりやすいとは言えるだろう。
 こうしたことから、小選挙区中心の制度に変えれば、日本でも二大政党制によるマニフェスト選挙が行われるだろう、と考えられたわけである。しかし、依然として自由民主党は圧倒的に強く、ごく例外的な期間を除けば政権政党の座を脅かす勢力は存在してこなかった。これは何故だろうか? 


 現在の衆議院の定数は465人であり、うち289人が小選挙区で選出され、176人が全国を11にブロック分けした比例代表制で選出される。基本的には首相を選出するには衆議院の過半数を抑えることが前提になり、つまり233議席を獲得する必要がある。これは、比例代表部分を全て獲得してもなお57議席足りないと言うことになり、比例代表制は票が分散しがちであることなどを考えれば、小選挙区部分で大きな勝利を収めない勢力が内閣総理大臣の任命を行える可能性はないといってよい。この意味で確かに日本は小選挙区制を基軸にした選挙制度を持っている。
 その一方で、比例区部分も決して小さくはなく(全議席の1/3を超える議席が比例区に割り振られている)、また通常候補者は比例区にも重複立候補し、小選挙区の「惜敗率」によって比例区での復活当選の可能性が高まるため、小規模の政党であってもデュヴェルジェ的「二大政党」以外の候補者に票を投じるインセンティヴを残してしまっている。特に、与党、野党、第三局の三候補が激戦を繰り広げるような選挙区はそれぞれの惜敗率が高まるため、結果的に「一つの小選挙区から三人を国会に送り込む」と言ったことが生じる(これは、当該選挙区の有権者が単純に自分たちの利益だけ考えた場合、特定の候補が圧勝して一人だけが国会に送り込まれるより利益にかなう)。また、比例区部分の選挙運動は規制が大きいため、小規模政党も「比例票の掘り起こし」のために小選挙区に当選の可能性が低い候補を擁立するという戦略も選択される(特に共産党はこれを積極的にやってきた)。このことが日本の選挙を混乱させている。

 基本的に小選挙区制は二大政党制に傾く一方で、比例制は小規模政党の乱立に傾く。また、二大政党制の選挙戦略は「有権者の志向の分布を読み、その(人工的にみた)真ん中を見極め、右か左の半分を取りに行く」と言う形になるのに対して、比例での戦略は、政策的に比較的近い政党の支持者を奪う方が楽ということになる。

 この前提で今回の選挙を見れば、野党共闘を掲げた候補が選挙区で善戦したのは「有権者を二分して、その左側を取りに行くことを戦略とした二大政党の一つ」と認識されたということに他ならないだろう。デュヴェルジェの法則はゲーム理論的な「合理性に基づく」拘束であるので、よほど他の事情が大きくなければ多くの有権者は(少なくとも「合理的に行動しようとすれば」)小選挙区の中ではこの法則の範囲内で行動せざるを得ない。一方、比例区においては共闘の意味は高くなく、各政党はバラバラに行動する方が合理的である。再度強調するが、比例区においては比較的政策の近い政党の支持者を奪う方が、政策が遠い党と議論してその支持者を奪うよりも合理的である。この結果、第二党である立憲民主党は挑戦者として「有権者の真ん中を探り、その左側全てを奪う」戦略を取らざるを得ず、結果として「右側全て」を狙う自民党と、二大政党制の一つとして争わなければならない。小選挙区の結果を見れば、この戦略は一定の成功を収めており、かつ選挙を繰り返すうちにデュヴェルジェが述べるような原理に従って、この側面は強化されていく事が予想される。
 一方で、維新や国民民主党のような「第三局」志向の政党は、比例区での戦略に特化することが合理的である。そして、基本的には、支持基盤が弱い野党側から票を引き抜く方が楽である。国民民主は明らかにそういう戦略を取ってきたし、維新は本質的には大阪で「緊縮と公共サービスの切り下げ」というネオリベラル政策を推進してきた政党だが、総選挙のマニフェストに関しては総合課税やベーシック・インカムなど、左派的な政策を主張していた(ただし、総合課税であるがフラットタックスであり、ベーシック・インカムも他の福祉の大幅な切り下げを伴う、偽装左派的な側面の強いマニフェストではあった)。岸田自民党も、中道に舵をきるサインを出しており(ただし、これも選挙戦の討論の中で、概ね口だけであることが明らかになったと思うが)、「"真ん中"を探る二大政党の闘い」においても、自民党が中間に攻め込んでいた。このことは立憲民主党にとっての、つまり政権を狙う党になるための闘いという意味では難易度が上がったと言えるが、立憲民主党の政策を支持するような有権者にとっては、必ずしも不利益ばかりではない。政策の「重心」は民主党政権崩壊以降、最も左によったと言えるだろう。


 さて、こうして考えるならが小選挙区で善戦する選挙区が増えたということは、二大政党制による政権交代を見越した選挙を行う、という小選挙区制の目標に一歩近づいたと言える。もちろん、現在の議席数では政権交代には程遠いことは事実であるが、今後同じ枠組みで選挙を繰り返すなら、デュヴェルジェが主張したように、一種のキャリブレーションが効いていく可能性は決して低くない。問題は、そのために必要な期間、野党側で資金や凝集性が保たれるかということである。このことは政治に関わるものの多くが直感的に知っているから(繰り返すが、これはゲーム理論的な帰結であるため、有権者のイデオロギー構成がどう推移するかとは独立に、他の要素が多くなければ結果は遅かれ早かれ近似していくだろう)「野党共闘は失敗だった」キャンペーンを貼っている面は小さくないと思われる。


 その上で、戦術上の小選挙区の要求(有権者の「真ん中」を見極め、その左右で妥協すること)と、比例区での要求(比較的近い思想や勢力の政党から支持者を奪うこと)のバランスを取ることが必要だが、これは至難の業である。一方で、小政党が「二番手」を逆転することも決して容易ではない。「対案」というのは、マニフェストを示し、首班指名に勝つことであれば、もし彼らが本当に「対案」を示したいのであれば、二大政党のうち政策の近い方と連携するしかないはずである。そして、この交渉は中道の小政党にとって基本的には有利であり、左派にとっては不利である。というのも、二大政党制において政策は中道によっていくはずだからである(これも「ビーチのアイスクリーム屋」を例に議論されることが多いゲーム理論的な帰結である)。現状、不利なはずの共産党が交渉に積極的で、有利なはずの国民民主党が「共産党が参加している」というだけで参加に消極的なのは、戦術レベルの合理性があるとは言い難い。このことは変わる余地があるし、立憲・国民両党はそれを変えうるはずである。
 ただし、いかに「政治とは妥協である」と言っても、ゲームが成立しなくなるようなルール違反をする政党とは組むべきではないだろう。「戦術レベルのズル(マリーシア)」と、明白なルール違反の間がどこにあるかというのはよく議論すべきだが、これは政治家がというよりはメディアや一般公衆がそれを行うべき領域であろう。こう言ったことが正常化していけば、有権者の投票活動は自然と小選挙区制に順応していくはずである。日本の小選挙区比例代表制というのは、結果の予測が難しく、戦略的投票が困難であり、小規模政党と大政党の戦術のあり方が食い違い、前者と後者の境界が声がたいと言えるだろう。今回の選挙での野党共闘は、野党側を「二大政党制の一角」としての出発点に立たせることに成功したのは疑いないだろう。もちろん、それだけでは不十分で、比例部分での票の獲得を考えなければいけないわけだが、比例部分を重視するあまり小選挙区での成功を捨ててしまうのは馬鹿げている。野党共闘が成功だったかと問われれば、「大成功とは言い難いにせよ、大成功につながる一歩は示せた」と評価されるべきだと思われる。


2021年7月21日水曜日

「性の多様性」に関する問題について: スポーツとトランスジェンダーの問題から考えてみる

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Clivage-de-landrogyne

 



 オリンピックでは、トランスジェンダーのアスリートの出場をめぐって議論になっている。この選手は、「男性ホルモンのテストステロン値が12カ月間にわたり一定以下なら、女子として競技することを認める」というガイドラインの初の適用事例になるはずである。近年、男性と女性の境界線は揺らいでおり、その過程でトランスジェンダーに対する風当たりは強くなっているように見える。アメリカでは、テストステロン値に関する国際的な規定とは別に、共和党の主導によってトランスジェンダーの選手の公的なスポーツ大会への出場を規制する法律が広がっている。アスリートは出生児に女性であったという証明や、遺伝子検査を課されることになる。これらの措置は、(1)倫理的に妥当だろうか? また、(2)実際問題として可能だろうか、ということを考えてみたい。男性と女性がなぜ別れているのか、ということは簡単に答えられる問いではないが、少なくとも「スポーツ大会を公平に運営するため」ではない。この公平さと性やジェンダーの特性が、整合的なものとは限らないが、このことは、あまり認識されていないだろう。

 

2021年2月20日土曜日

科学認識をめぐる論争とその裁定プロセスの問題について

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 専門家と素人のコミュニケーションと言う問題について、かつての議論が再燃していますが、これに関して見直すことは有益だと思いますので、若干コメントさせていただきます。


 まず、政治的な意見の違い、特にリスクに関する見立ての違いが引き起こしがちな問題の枠組みについて見直したいと思います。

 これは、図表のように整理できます。



2021年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

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The Year of the Ox

2020年11月19日木曜日

災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める

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 政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、本来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基本的に春に書いたときのままです)。


 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は再び考えなければならない時にきている。

2020年11月17日火曜日

「大学の軍事研究」は何が問題か

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予定より長くなったので、最初にアブストラクトを入れておきます。

・フンボルト理念やマートン規範は、主に国家の事情(軍事)と市場の理論の二つから脅かされる。この二つの力の介入を大学が回避することは不可能だが、一定の緊張関係は求められる。


・産学連携より軍学の方がより危険な点があるとすれば「機密」という問題である。第二次世界大戦の敗戦は、この問題に折り合いをつけなければいけないというプレッシャーから、日本の大学を解放したという面はある。


・日本はそのかわりに、学術界主導の基礎研究体制の導入に成功した。これを担ったのが日本学術会議であった。ただし、これはその時々の政権にとっては必ずしも歓迎すべきことではなく、徐々にこの権限は剥奪されていった(しかし、これは合法的に行われたこと、また学者の側の積極的な抵抗は見られなかったことは認めねばならない)。


・一方、戦間期の軍事動員体制を引きずった戦勝国においては、基礎研究が軍事費を中心に支出されており、産業研究がそこから「スピン・アウト」するという体制が戦後も持続した。1970年ごろになると、これは効率の良い研究体制では無いことが認識されるようになった。


・日本は、コンシューマー製品からの養成が技術革新を主導した。これは技術評価に厳しい購買層と合わせて、素早いイノベーションを可能にした。ただし、1970年代に関しては産業界と大学の接続に難があることは、日米の認めるところであった。これを変革しようと、1990年代の大学改革が始まったが、これを成功だったという評価はほぼ無い。


・現在も、日本は米国防総省のDARPAの研究費の支出の仕方などを模倣しようとしている。これは上手くいっているかどうかの評価はおくとしても、別に防衛省でやらなければいけない意味はなく、実際ImPACT は内閣府で実施された。


・むずかいし機密処理の問題を回避するためには、大学は機密性が生じない省庁から研究費を得るのが得策である。国としては、本来防衛省から出すか、他の省庁から出すかは経路の違いに過ぎないので、どちらでもいいはずである。防衛省にこだわるとしたら大学に「機密」を押し付ける意図があるのだろう。


・大学が機能を劣化させない条件で防衛省と契約することは可能であるが、それには、法律の専門家が検証した契約書を準備し、きちんとした法的な手続きが必要であろう。そうした体制を取れるところはほとんどないと思われる。あるいは、米国の大学であるように、独立の研究所なり法人を別途作り、大学とはガバナンスを切り分けることは可能だろう。大学はその研究所を軍事研究を受けるサンドボックスとして利用し、研究者はクロスアポイントメントを利用してそちらにも所属する。これで学生のリスクは小さくできるだろう。


・産学連携と同様に、デュアル・ユース研究から大学が自由であるという楽園はもはや戻ってこないが、法律などの面からその負の影響を最低限に抑えることは可能であり、学術会議の提言はそういうことを求めている。