2021年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

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The Year of the Ox

2020年11月19日木曜日

災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める

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 政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、本来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基本的に春に書いたときのままです)。


 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は再び考えなければならない時にきている。

2020年11月17日火曜日

「大学の軍事研究」は何が問題か

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予定より長くなったので、最初にアブストラクトを入れておきます。

・フンボルト理念やマートン規範は、主に国家の事情(軍事)と市場の理論の二つから脅かされる。この二つの力の介入を大学が回避することは不可能だが、一定の緊張関係は求められる。


・産学連携より軍学の方がより危険な点があるとすれば「機密」という問題である。第二次世界大戦の敗戦は、この問題に折り合いをつけなければいけないというプレッシャーから、日本の大学を解放したという面はある。


・日本はそのかわりに、学術界主導の基礎研究体制の導入に成功した。これを担ったのが日本学術会議であった。ただし、これはその時々の政権にとっては必ずしも歓迎すべきことではなく、徐々にこの権限は剥奪されていった(しかし、これは合法的に行われたこと、また学者の側の積極的な抵抗は見られなかったことは認めねばならない)。


・一方、戦間期の軍事動員体制を引きずった戦勝国においては、基礎研究が軍事費を中心に支出されており、産業研究がそこから「スピン・アウト」するという体制が戦後も持続した。1970年ごろになると、これは効率の良い研究体制では無いことが認識されるようになった。


・日本は、コンシューマー製品からの養成が技術革新を主導した。これは技術評価に厳しい購買層と合わせて、素早いイノベーションを可能にした。ただし、1970年代に関しては産業界と大学の接続に難があることは、日米の認めるところであった。これを変革しようと、1990年代の大学改革が始まったが、これを成功だったという評価はほぼ無い。


・現在も、日本は米国防総省のDARPAの研究費の支出の仕方などを模倣しようとしている。これは上手くいっているかどうかの評価はおくとしても、別に防衛省でやらなければいけない意味はなく、実際ImPACT は内閣府で実施された。


・むずかいし機密処理の問題を回避するためには、大学は機密性が生じない省庁から研究費を得るのが得策である。国としては、本来防衛省から出すか、他の省庁から出すかは経路の違いに過ぎないので、どちらでもいいはずである。防衛省にこだわるとしたら大学に「機密」を押し付ける意図があるのだろう。


・大学が機能を劣化させない条件で防衛省と契約することは可能であるが、それには、法律の専門家が検証した契約書を準備し、きちんとした法的な手続きが必要であろう。そうした体制を取れるところはほとんどないと思われる。あるいは、米国の大学であるように、独立の研究所なり法人を別途作り、大学とはガバナンスを切り分けることは可能だろう。大学はその研究所を軍事研究を受けるサンドボックスとして利用し、研究者はクロスアポイントメントを利用してそちらにも所属する。これで学生のリスクは小さくできるだろう。


・産学連携と同様に、デュアル・ユース研究から大学が自由であるという楽園はもはや戻ってこないが、法律などの面からその負の影響を最低限に抑えることは可能であり、学術会議の提言はそういうことを求めている。


2020年10月20日火曜日

「日本学術会議」の設置意図から、現在何が賭け金になっているのかを考える

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1. 「日本学術会議」の設置意図


 なぜ法律を守らなければいけないのか、ということを理解するために、その立法の意図に立ち返って考えることは重要である。人を殺してはいけないことや、人からものを奪ってはいけないことは、さほど考えずとも自明であるように思われる。しかし、例えば人が書いた絵を真似することが、どう言った場面で「違法」になるかは、色々なやり方があるように思われる。だとすれば、どんな社会を作り、どのような方法で、何を守らせようとするかも、実際のところ必ずしも自明とは限らない。ここで、何を目的にして、どう「日本学術会議」を規定する日本学術会議法が定められているかを考えてみたいと思う。

2020年10月4日日曜日

日本学術会議会員任命拒否について、アカデミック・コミュニティはどのような態度で臨むべきか: 様々な差別と人道に関する論点を忘れない

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 日本学術会議会員任命拒否問題に関しては、学術会議側も外された六人の任命を求めるなど、アカデミック・コミュニティとしても抗議の姿勢を強めていくようである。それは大変大事なことだと思う。ただ、現在の与党幹部と話が通じるという前提でかかるのであれば、不安もある。話が通じるかということは、「学問の自由」というのが、民主国家を支える大前提の一部、それも極めて重要な一部であるという価値観を共有できるか、ということにかかっている。そして、それは(例えば副首相が「大人になってから因数分解や三角関数なんて使わないから、義務教育は小学校まででいい」と言ってしまう状況であることを考えれば)ちょっと望み薄なのではないかと思っている。

 すると、妥結はある種の「力のあるもの同士の取引」になるのかもしれない。アカデミック・コミュニティとして、それで満足すべきなのか、という問題である。


 排他的なポピュリズムというものが世界を覆っている。政治家は、政府の失敗や不作為から目を逸らしつつ、大衆を満足させるために、敵を指名して見せる。敵は様々なマイノリティであることもあるし、あるいはネオリベラルな経済的な文脈で公務員や労働組合などが「改革の敵」「既得権益」として名指されることもある。パブリック・エネミーとして名指されたグループを大衆は非難し、その非難に加わることによってマジョリティの結束は高まり、政権は支持をます。エヴィデンスに基づいた政策論争よりも、この第三項排除の政治の方が、為政者にとって都合が良く、楽でもある。それに争うためには、良質な議論を提供する、政治的・経済的な圧力から独立したメディアの存在が欠かせないが、メディア自体が凋落の一途である。大量のフェイク・ニュースを提供するという方法論は、第一に民衆に「排除の理由」を提供することにあるが、低コストで大量のジャンク・ニュースを提供させることによって、取材や議論に手間のかかるニュースサイトのプレゼンスを低下させ、そこからの収益を奪うという効果も秘めている。


 こうした中で、文化の基盤としての多様性は痩せ細り、公的なサービスへの不信感は増幅されていく。増幅された公的サービスへの不信感は、為政者がそれを営利セクターに売り払い、主権者の手から取り上げ易くもする。大学とか知識は適切に運用されればこう言った構造によって、生きるリソースを奪われようとしている人々を助ける力になる。ゆえにこそ、まず差別や歴史修正主義を扱う人文系が標的になるわけである。すでに科研費による歴史研究が日本政府に対して「後ろ玉」になっているという見解が杉田水脈議員によって国会で述べられるまでになっているが、これも今回の件と一続きであることを認識すべきであろう。大学は脆く、攻撃を受けやすいものであるが、最初に攻撃を受ける場所ではない。世論というのは兎角忘れっぽいもので、学術会議をめぐる騒ぎで、その直前の、これもまた杉田水脈議員による「女は嘘をつける」発言は忘れ去られそうであるが、これらが一連の流れの中にあることを忘れてはならない。


 かつて、ピエール・ブルデューは高級官僚を国家の右手、現場で公共サービスを担う教員、窓口職員、現業職のような人々を国家の左手に例え、ネオリベラル体制を右手による、左手への攻撃に喩えた。日本文化の中にいるものであれば、公務員叩きとレント・シークを、「タコが自らの足を食うような」と見るとしっくりくるかもしれない。しかし、「科学技術創造立国」を国是として掲げながら、一方でノーベル賞受賞者を含む科学者たちのグループを「既得権」として叩き始めるというのは、「このタコ、ついに足では飽き足らず、自分の頭まで食べ始めたよ」と笑うべきところであろう。しかし、だからと言って、頭が「足だけにしておけ」という態度に出るのは好ましくないだろう。

 

 知性があると自認するものにはインテグリティが求められるであろう。これは、一般原則から演繹された倫理に忠実であるべきだ、ということである。なぜ知識が重要であり、知識を産み出し、守る職は公的に確保されるべきなのか。なぜプラトンは彼の学校を世俗の政治から隔絶できるアカデメイアの森の中に作るべきだと考えたのか? それから2000年以上の歳月を経て、我々は知識をいかに積み上げてきたのか。その知識は、我々がどのように振る舞うべきだと教えているのか?



 回答は、多少のグレーゾーンをがあるにしても、概ね明らかであるように思われる。なぜ学問の自由は守られるべきなのか。それは第二次世界大戦の反省と、今沖縄で行われていることと、様々な形で不安定な身分に置かれている外国籍の人々への政府の態度の問題と、その他様々な人道上の問題と連続しているものとして扱われなければいけない。政府与党と科学の貴族たちの対話が、かつての米国大統領とソ連書記長が葉巻を片手に交わしたような、相手の人道問題を黙認する代わりにこちらの問題も見逃してもらう、と言ったものであってはならないことは強調されなければならないだろう。


 任命拒否を撤回する運動が、その他様々な問題を見直すきっかけの一つになることを願っている。


2020年9月8日火曜日

『日本の科学者』9月号 <特集>待ったなし,気候危機を回避するために (…に拙稿掲載)

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   『日本の科学者』9月号に拙稿が掲載されています。

 気候変動特集の序文、という位置付けの短文です。

 (目次のページで序文は読むことができますが、ご購入いただければ幸いです。)

 9月号への貢献はこれだけなのですが、しばらく編集委員をさせていただくことになりましたので、社会的・科学的に意義のある雑誌にするために及ばずながら努めて参りたいと思います。



2020年8月3日月曜日

研究者のワーク・ライフ・バランスについて

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 九州大学の中山敬一教授がネットに公開している女性研究者のキャリアに関する文章が議論を呼んでいる。(リンク先に飛んで「女性研究者の有利と不利」をクリックしていただきたい)
 

 ここで、同氏の文章について、問題を整理しておく。
 先に結論を述べておくと、この文章はセクハラとパワハラの双方の成分を含んでいる。
 こういった文章が大学のウェブサイトに公然と載っていること自体が問題であり、またこの態度で研究室運営を行っているとすれば、実際の被害者も多くいると思われる。
 ただ、一方で(少なからぬ擁護者もいるように)ここで表明されているような感覚はいまだに日本の大学の少なからぬ研究室を支配しており、ここまで公然とは言われないにせよ、同様な感覚を抱いている教員は多いかに思われる。
 その意味でも、ここで問題を総括しておくことは重要であろう。


 まず、「今は女性研究者にとって有利な時代」だろうか?
 確かに、「国の施策として、女性教員を増やすように強いプレッシャーがかかっている」のは事実ですが、それだけを持って「女性に有利」と判断するのは早計だろう。
 2012年の文科省の科学技術政策研究所のレポートによれば、2005年の博士課程修了者に占める女性比率は26.7パーセントなのに対して、大学に新卒で本務教員として採用される人に占める女性割合は31.9パーセントである(ii)。