政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、本来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基本的に春に書いたときのままです)。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は再び考えなければならない時にきている。
第二次世界大戦後、世界は西側の資本主義諸国と、東側の共産主義諸国に分かれた。1991年のソヴィエト連邦の崩壊により、この勝負は資本主義の勝ちと決着がついた、と一般には考えられている。しかしながら、一方では西側諸国は自国の労働者たちが東側に惹かれるのを防ぐために戦後、資本主義を微妙に修正し、国家が「文化的で健康的な最低限の生活」を支えるという原則を導入してきた。いわゆる福祉国家である。日本や北欧、ドイツのように、地政学的に東側との抗争の正面に立つ国々では特に分厚い「福祉」が認められる一方、第三世界の国々では東側に思想的に近いリーダーをクーデターなどで退任させ(場合によっては暗殺し)、経済の自由放任(レッセ・フェール)を支持する独裁者にすげ替えるといったことも行われてきた。
こうして誕生した「福祉国家」であるが、1980年代に入って、いわゆる「新自由主義」の台頭によって、西側諸国の福祉支出は切り詰められる方向に、再びの方針転換がなされた。ここ10年ほど、それに対する反発は活発化し、米国のバーニー・サンダースや英国のジェレミー・コービンら、手厚い福祉国家の再興を訴える政治家が台頭しつつある。特にスペインでは、こうした主張の急先鋒であるパブロ・イグレシアス率いる急進左派政党ポデモスが、中道左派政党である社会労働党と連立し政権入りするまでになっている。
この、「右へ直進するか、左へカーブを切るか」という転換点において、COVID-19の流行は起こったわけである。ポスト新型コロナウイルスの時代において、政治の傾向はどう変わるだろうか?フォーブスは”「税金亡命者」の大富豪ブランソン、政府に巨額の援助求める”と題したコラムで、航空会社ヴァージン・アトランティックの創業者にして億万長者であり、また”「税金亡命者」を自称し、英国外に拠点を置くことで巨額を節約している上、ジェット機で各地を飛び回り楽しみに興じる派手なライフスタイルで知られている”ブランソンが、危機に瀕するヴァージンに対する救済措置を英国政府に求めることに対して、"なぜか、景気が良いときは誰もが資本主義者なのに、経営がうまく行かなくなると企業社会主義に頼るようになる”と皮肉っている。 日本でも、タリーズコーヒージャパンの創業者であり、元参議院議員である松田公太氏が、飲食業に対する支援を求めたことも報道された。もちろん、新型コロナウイルスは人類にとって未曾有の事態であり、人が考えを変えたところで、非難されるべきではないだろう。日本政府は全住民に一人当たり10万円の給付を決めるなど、大規模な財政支出を行ったが、これを「社会主義だ」と怒る人は、むしろ足らないと怒る人よりも遥かに少ないであろう。この状況で意見を変えてもそれはおかしなことではない。今は、この給付を、少なくともパンデミックが治るまで継続的に行うことを要求すべきであろう。(ただ、非課税である必要はないと思う)
余談であるが、英国のNGOが作った、政治問題を考えさせるカードゲーム『デモックス』に、次のようなタスクを課すカードがある。
「あなたが意見を変えざるをえなくなるような大きな事件について考えます。例えば、世界規模の災害、技術的なイノベーション、無尽蔵の資金、法規制の変更、といったものです。これらのことがあった場合、あなたの意見はどう変わるでしょうか?」
今世界で起こっている事態とは、まさにこういうものであろう。小さく効率的な政府という目標を掲げた勢力の急先鋒とでもいうべき日本維新の会を率いて活躍していた元大阪府知事の橋下徹氏も4月3日に、「僕が今更言うのもおかしいところですが、大阪府知事時代、大阪市長時代に徹底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。」とTweet している。 もし橋下氏が自分の政治姿勢を反省し、ポスト・コロナの社会の構想にその反省を生かしていきたいというならば、大いに評価したいところであった。ところが、半月もしないうちに、再び国会議員や公務員、生活保護受給者といった人々に対して「給料をゼロにしろ」「特別給付金を受け取るな」といった Tweet を再開する。
僕が今更言うのもおかしいところですが、大阪府知事時代、大阪市長時代に徹底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。保健所、府立市立病院など。そこは、お手数をおかけしますが見直しをよろしくお願いします。
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) April 3, 2020
制度を作る国会議員と役人の給料をいったん0円にして、自分たちの生活を守るための制度を作りなさいと言えば、やっと国会議員も役人も血の通った制度を作ってくれるだろう。 https://t.co/xNcmEcxWrU
— 橋下徹 (@hashimoto_lo) April 17, 2020
日本維新の会に代表される日本型ネオリベラリズムは、欧米のそれに比しても「底辺への競争」を煽るという面が強い。しかし仮に、公務員の給与が優遇されているとすれば、民間労働者の給与を底上げする運動によって格差は解消されなければならない。そうでなければ、GDPか労働分配率の、少なくともどちらかが下がるだけである(世界的に見ればネオリベラリズムの進行によってGDPは上がる一方で、労働分配率は低下を続けた。そして日本では、労働分配率の低下は起こる一方で、GDPすらも殆ど上がっていない。最悪である)。労働分配率を上げる方法は、経営者が全てとてもいい人であるという、ちょっとありそうにない場合を除けば、労働運動で交渉していくしかないわけだが、長年展開された反労働運動プロパガンダによって、この手段が封じられている。その結果として「自分よりちょっとだけ儲かっていそうな人を叩く」ことが自らの経済的利益に適うという理論が採用されている。しかし、実際は生活保護の給付金や公務員の給料は地域の人件費水準を決めているのであり、これを下げても、その結果として人件費の総額がそれ以上に下がるだけである。
その結果、本来されるはずだった消費がされなくなる(GDPが下がる)か、その分が資本家(株主や企業オーナー)の懐に入る(労働分配率が下がる)わけである。ネオリベラル政党にありがちであるが、橋下徹が煽っている政治は、庶民の見方をするふりをして庶民同士の(相対的には小さな分断を元にした)断絶を煽り、その漁夫の利を「庶民とは言い難い人々」が得るための政治である。しかし、世界的なパンデミックの中で、我々はこうしたネオリベラルなポピュリズムを見直す契機を得ている。実際、緊急性を鑑み、受給資格審査を伴わない給付を政府が行うことのへの支持は、日本を含めた世界中で盛り上がっている。ブラジルに至っては(大統領の消極姿勢を振り切って)議会が実際にベーシック・インカム法を可決し、給付もすでに開始されている。スペインも基本的には同趣旨の政策を実施している(こちらもしばしばベーシック・インカムと呼ばれているが、実際はミーンズ・テスト抜きの失業給付のようなものである)。
一方、特別給付などを行うべきであり、かつ行えるという根拠がMMT(現代貨幣理論)に求められることもある。しかし、重要なのは「可能だから給付する」ということではなく、「給付しないと、健康で文化的な生活が維持できないからする」ということは再確認されるべきである。その上で、MMTが「必要十分な給付しても国家財政は揺らがない」という根拠になると考えるのであれば結構だが、実際はそうならないとしても、給付は行われなければならない。実際、MMTの専門家たちも(その過激な支持者が時として主張するような意味で)国家の支出が無限に行えると言っているわけではない。赤字国債が即ハイバーインフレの原因になるわけではないにしても、無秩序な財政支出は、市場のインセンティヴに影響を与えるのであり、そこのとに政策担当者が注意を払うべきだということは変わらない。ある業界に助成金を入れることは、多くの場合その業界により多くの経済主体(企業であれ個人であれ)をひきつける。一方、例えば、政府がある農産物(例えばコメ)に補助金を出すことは、別の農産物にその土地を使うインセンティヴを相対的に低下させ、供給不足をもたらすかもしれない。薬価を政府が決めることは国民皆保険を維持するためには重要だが、薬価を自由に決められる国に比べて、製薬業が新薬に投資するインセンティヴは抑制されるかもしれない。
したがって、特に市場を重視する新古典派は、政府が公共事業を手掛けることは、こう言ったインセンティヴへの介入であり、それは多くの場合、イノベーションを阻害すると考える。一方、マルクス主義やケインズ主義を支持する経済学者たちは、程度の差はあれ市場への国家の介入は避けがたいと考えている。そして現状では、「コロナ禍の中の経済」においては、”市場という「神の手」のみがインセンティヴの調整を行うべきである”というネオリネベラリズムのマントラが失効している。つまり、自由な経済活動を維持することが一国あるいは人類そのものの滅亡をもたらす可能性もある状況では、人々の経済的インセンティヴに(制限も含めて)政府が何らかの介入を行わざるを得ないのである。この外的要因を、新古典派の経済学者が何というかはわからない。ただ、経済学という純粋に理論的な体系にとっては外部要因であるかもしれないが、そのことが「市場に基づく経済」という現実に対して大きな影響を及ぼすことは、認めざるを得ないだろうと思う。
そして、重要なのは、調整すべき「インセンティヴの変動」が一回ではないということである。少なくとも、コロナ禍が続く間と「ポスト・コロナ」で二度の調整は行われなければならない。実際は、ワクチンが開発されるか集団免疫が確立されるまで、複数回の活動統制と緩和が繰り返される可能性が高い。活動統制期に、特別給付を行うことで発生するであろうインセンティヴは、緩和期には逆のインセンティヴを与えて緩和する必要があるだろう。これを財政支出のさらなる積み増しで行うべきなのか、徴税で行うべきなのかは技術論である。肝心なのは、市場の個々のアクターである一般公衆が、適切に衣食住にアクセスできる「権利」(アマルティア・センであれば「権原」と呼ぶもの)が適切に再分配されているかであり、額面上の所得や資産の大小の問題ではない。こうした再分配のために、継続的に行われる市場への介入を支持する立場を名付けるとしたら、それは「社会主義」以外にあり得ないだろう。なぜ「公務員は除外すべき」なのではなく、一律の給付が望まれるかといえば、それは主に「救済を必要とする人」の選別の時間とコスト(例えば対面で申請を行うことの感染リスクの増大、と言ったことも含めて)が無駄だからである。このことは無論、事後的な調整の必要性を棄却するわけではない。それが(ごく常識的な)復興税の徴収のような形で行われるべきなのか、(MMT派も指示すするであろう)雇用創出プログラムのようなさらなる支出で行われるかということは、少なくとも今週、今月に重要なわけではない。1回目のインセンティヴ調整を支持するということは、継続的な調整を、我々が支持するということに他ならない、ということを確認すれば今のところは十分である。もちろん、スペインのポデモスや、米国のサンダースのような、こうした「災害社会主義」を先取りした有力政治家を日本は持ち合わせていない。ブラジルは現在ポピュリスト右派大統領が政権を握るが、広範な市民運動の連帯と、労働者党政権時代の蓄積(BI法の原案は既に労働者党政権時代に作られていた)によるものである。今後、こうした政治思想を社会でどう涵養していくかは、日本社会の大きな課題であろう。
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