2020年10月4日日曜日

日本学術会議会員任命拒否について、アカデミック・コミュニティはどのような態度で臨むべきか: 様々な差別と人道に関する論点を忘れない

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 日本学術会議会員任命拒否問題に関しては、学術会議側も外された六人の任命を求めるなど、アカデミック・コミュニティとしても抗議の姿勢を強めていくようである。それは大変大事なことだと思う。ただ、現在の与党幹部と話が通じるという前提でかかるのであれば、不安もある。話が通じるかということは、「学問の自由」というのが、民主国家を支える大前提の一部、それも極めて重要な一部であるという価値観を共有できるか、ということにかかっている。そして、それは(例えば副首相が「大人になってから因数分解や三角関数なんて使わないから、義務教育は小学校まででいい」と言ってしまう状況であることを考えれば)ちょっと望み薄なのではないかと思っている。

 すると、妥結はある種の「力のあるもの同士の取引」になるのかもしれない。アカデミック・コミュニティとして、それで満足すべきなのか、という問題である。


 排他的なポピュリズムというものが世界を覆っている。政治家は、政府の失敗や不作為から目を逸らしつつ、大衆を満足させるために、敵を指名して見せる。敵は様々なマイノリティであることもあるし、あるいはネオリベラルな経済的な文脈で公務員や労働組合などが「改革の敵」「既得権益」として名指されることもある。パブリック・エネミーとして名指されたグループを大衆は非難し、その非難に加わることによってマジョリティの結束は高まり、政権は支持をます。エヴィデンスに基づいた政策論争よりも、この第三項排除の政治の方が、為政者にとって都合が良く、楽でもある。それに争うためには、良質な議論を提供する、政治的・経済的な圧力から独立したメディアの存在が欠かせないが、メディア自体が凋落の一途である。大量のフェイク・ニュースを提供するという方法論は、第一に民衆に「排除の理由」を提供することにあるが、低コストで大量のジャンク・ニュースを提供させることによって、取材や議論に手間のかかるニュースサイトのプレゼンスを低下させ、そこからの収益を奪うという効果も秘めている。


 こうした中で、文化の基盤としての多様性は痩せ細り、公的なサービスへの不信感は増幅されていく。増幅された公的サービスへの不信感は、為政者がそれを営利セクターに売り払い、主権者の手から取り上げ易くもする。大学とか知識は適切に運用されればこう言った構造によって、生きるリソースを奪われようとしている人々を助ける力になる。ゆえにこそ、まず差別や歴史修正主義を扱う人文系が標的になるわけである。すでに科研費による歴史研究が日本政府に対して「後ろ玉」になっているという見解が杉田水脈議員によって国会で述べられるまでになっているが、これも今回の件と一続きであることを認識すべきであろう。大学は脆く、攻撃を受けやすいものであるが、最初に攻撃を受ける場所ではない。世論というのは兎角忘れっぽいもので、学術会議をめぐる騒ぎで、その直前の、これもまた杉田水脈議員による「女は嘘をつける」発言は忘れ去られそうであるが、これらが一連の流れの中にあることを忘れてはならない。


 かつて、ピエール・ブルデューは高級官僚を国家の右手、現場で公共サービスを担う教員、窓口職員、現業職のような人々を国家の左手に例え、ネオリベラル体制を右手による、左手への攻撃に喩えた。日本文化の中にいるものであれば、公務員叩きとレント・シークを、「タコが自らの足を食うような」と見るとしっくりくるかもしれない。しかし、「科学技術創造立国」を国是として掲げながら、一方でノーベル賞受賞者を含む科学者たちのグループを「既得権」として叩き始めるというのは、「このタコ、ついに足では飽き足らず、自分の頭まで食べ始めたよ」と笑うべきところであろう。しかし、だからと言って、頭が「足だけにしておけ」という態度に出るのは好ましくないだろう。

 

 知性があると自認するものにはインテグリティが求められるであろう。これは、一般原則から演繹された倫理に忠実であるべきだ、ということである。なぜ知識が重要であり、知識を産み出し、守る職は公的に確保されるべきなのか。なぜプラトンは彼の学校を世俗の政治から隔絶できるアカデメイアの森の中に作るべきだと考えたのか? それから2000年以上の歳月を経て、我々は知識をいかに積み上げてきたのか。その知識は、我々がどのように振る舞うべきだと教えているのか?



 回答は、多少のグレーゾーンをがあるにしても、概ね明らかであるように思われる。なぜ学問の自由は守られるべきなのか。それは第二次世界大戦の反省と、今沖縄で行われていることと、様々な形で不安定な身分に置かれている外国籍の人々への政府の態度の問題と、その他様々な人道上の問題と連続しているものとして扱われなければいけない。政府与党と科学の貴族たちの対話が、かつての米国大統領とソ連書記長が葉巻を片手に交わしたような、相手の人道問題を黙認する代わりにこちらの問題も見逃してもらう、と言ったものであってはならないことは強調されなければならないだろう。


 任命拒否を撤回する運動が、その他様々な問題を見直すきっかけの一つになることを願っている。


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