2016年12月28日水曜日

「証拠を用いた説得に失敗したときに、相手を何が説得できるか?」 by Scientific American

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 アメリカの著名な科学雑誌であるサイエンティフィック・アメリカン誌に「証拠(ファクト)を用いた説得に失敗したときに、相手を何が説得できるか?」と題する記事が掲載されている。
 いかに人々が「ファクト・ベースの」説得では説得されないか(例えば、イラクのフセイン政権は大量破壊兵器を実は保持していなかったという「ファクト」はブッシュ政権を支持した人々を納得させないか)という調査が示されている。
 ただ、「証拠(ファクト)」が失敗したあとの方法論については、筆者の「経験によれば」という記事になっており、若干残念感が否めない。

ただ、その「経験」自体はある程度同意できる者なので、その結論だけここに訳出しておく。
 議論のたたき台としても適当なのではないだろうか。

1. 情報交換で感情的にならないようにしよう
2. 攻撃にならずに、討議になるようにしよう(人身攻撃でなく、ヒトラー視するのでもなく)
3. 注意深く相手の主張を聞き、正確にその主張を言語化してみよう
4. 敬意を持って
5. 誰かがなぜそのような意見を持っているのかについて、あなたがどう考えているか認識しよう
6. 事実認識を変えることが世界観を変えることではない、ということが伝えられるように試みよう

これらの戦略が人々のマインドを変えることに常に成功するというわけではない。
 しかし、この国がポリティカル・ファクト・チェックの絞り上げに疲れている現在、不必要な分断を軽減するのには役立つかもしれない。

2016年12月22日木曜日

「日本にノーベル賞が出なくなる」のは「国立大学に予算がないから」ではなく…: AERA「 頭脳の棺桶・国立大学の荒廃 東大も京大も阪大もスラム化する」ご紹介

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 昨今、国立大学の苦境が伝えられているが、議論は予算についてのものに終止しているように見える。
 しかし、抜本的な問題は、以前「博士はなぜ余るか? 日本の科学技術政策の10年に関する覚え書き」という記事でも述べたように、政策の方針が間違っていることである(リンク先の記事、MovableType を消してしまって文字データだけ残っている状態なので、読みにくくて申し訳ありません)。


 ノーベル賞受賞者たちが「今後、日本でノーベル賞が出なくなるかもしれない」と憂慮しているのを聞くと、ある人は「大学の構造を改革しないと」といい、ある人は「大学にもっとお金をつけなければ」という。
 もちろん、前者に関しては研究者自身から多くの反論が出ている。
 「改革のための費用」(と称するが、実際は組織をなんとか維持してくための費用)を国から交付してもらうために、できもしない「改革プラン」や「中期目標」を捻出することに時間を撮られ過ぎで、肝心の教育も研究も二の次になっている、というのが現在の国立大学の状況だからである。


 一方で、後者については、それはお金はあったらあったほうがいいに決まっているので、研究者たちも表立っては反論しないが、実際はそこは最も重要な点とは言い難い。
 というのも、現在ノーベル賞受賞に至ったような研究がなされた時代は、日本の国立大学がもっとも貧乏だった時代に行われたものであるから、である。
 「昔はよかった」と表現されると、多くの人は(場合によっては言ってる本人すら)錯覚してしまうが、戦後一貫して日本の国立大学は劣悪な環境に苦しんでおり、1990年前後ぐらいにそれはある意味で頂点に達する。

1991年05月28日発売のAeraに掲載された「頭脳の棺桶・国立大学の荒廃 東大も京大も阪大もスラム化する」 という記事は、この状況を明らかにし、日本の科学技術行政に一石を投じることになった(手元に白黒のコピーしかないのでそちらを紹介するが、元記事はフルカラーである)。

2016年12月21日水曜日

資本主義の本質は「リスクをどう裁定するか」の問題であり、奨学金はその手段である (奨学金問題雑感 その2)

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 昨日の記事「教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある」に続いて、主に経済的側面の問題について。これは二次的な問題であると入ったが、無視して良いわけでもないので…。


NHKが「“奨学金破産”追い詰められる若者と家族」という報道特集をウェブに掲載している(対応する番組があったのかもしれないが、見ていない)。
しかし、タイトルに反して、本質的には「自己破産」が問題ではなく、自己破産できないかもしれないことが問題になるべきであろう(記事は、実際は後半でその問題に触れている)。


「借りたものは返すのが当然」は儒教的な道徳としてはありかもしれないが、「資本主義の倫理」としては合理的ではない。
 これは、奨学金以外でも、あらゆる経済活動について言えることである。

教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある (奨学金問題雑感 その1)

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給付奨学金について「貧乏でも幸せはある」といっためちゃくちゃな批判も問題だが、「大学に行くことが貧困から脱出する道である」という議論をその批判に当てることも若干の問題がある。
 もちろん、受け手(生徒)の利益になるようなインセンティヴがなければ中々続かないのも確かなので、大学進学の経済的メリットは考える必要があるし、あまりに不利益が大きければ大学という制度そのものが持続的ではなくなるだろう。

しかし、(過去、国際社会に教育の無償化を促された日本政府が度々そう抗弁してきたように)もし教育が生徒の利益のために行われるのであれば、大学教育などは完全に営利企業の手に任せればよいだろうし、そのほうが保護産業として行うよりも高い効率を収めるかもしれない。


2016年12月13日火曜日

ポリティカル・コレクトネスと文化相対主義

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為末大さんの

という発言が批判を読んでいるようである。
 もちろん、私もまったくこの見解に同意できない。
 ポリティカル・コレクトではない、と非難されるような発言は通常、ステレオタイプを押し付けたり誰かを社会的に排除したりといったときに使われるものだからである。
しかし、しばらく後に為末氏は以下のように発言している。

2016年12月1日木曜日

NHK報道 「 原発事故と向き合う高校生 」への疑問: あるいはリスク・コミュニケーション教育はどうあるべきか、について

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 NHKのおはよう日本という番組で「原発事故と向き合う高校生」という特集があったようである。福島高校スーパーサイエンス部の生徒たちが福島第一原発の様子を見学したりする様子が扱われた。これは、NHKのページで確認することができ、また YouTubeにも映像が上がっている(後者に関しては、おそらく著作権法上の問題があるものだと思われる)。
 見ると、様々な疑問が湧いてくる報道である。
 特にその中で地元の幼稚園の保護者に、高校生が遠足のリスクについて説明するシーンが出てくるが、この部分には報道だけでは十分に判断できないが、大きな問題があったように見える。

 これは、この会合が、
・なにを目的にしたものであったろうか?(つまり、会合の目的はインフォームド・コンセントなのか、パブリック・アクセプタンスなのか?)
・その目的は、参加者に十分に周知され、またその意味するところについて(それに必要な準備について)、高校生は十分に指導を受けていたのだろうか?
・これを報道する意味は(特に、高校生と保護者の間の感情の対立を報道する意味は)十分に検討され、それは報道される側の理解を得ていたのだろうか?
 といったことが、十分に説明されていない点からくる疑問である。

 以下に、そのことについて論じるが、まず当該のやり取りをNHKのサイトから引用すると、次のようなものであった(可能であれば映像を確かめてほしい)。