2020年10月20日火曜日

「日本学術会議」の設置意図から、現在何が賭け金になっているのかを考える

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1. 「日本学術会議」の設置意図


 なぜ法律を守らなければいけないのか、ということを理解するために、その立法の意図に立ち返って考えることは重要である。人を殺してはいけないことや、人からものを奪ってはいけないことは、さほど考えずとも自明であるように思われる。しかし、例えば人が書いた絵を真似することが、どう言った場面で「違法」になるかは、色々なやり方があるように思われる。だとすれば、どんな社会を作り、どのような方法で、何を守らせようとするかも、実際のところ必ずしも自明とは限らない。ここで、何を目的にして、どう「日本学術会議」を規定する日本学術会議法が定められているかを考えてみたいと思う。


 同法は、学術会議の役割を「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」(第一条)と規定している。「科学者の国会」と言われる所以である。そのために、「独立して」(第三条)、「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図る」(第三条)ことが定められており、また政府の諮問に応じたり(第四条)、政府に勧告したり(第5条)、政府に資料の提出を求めたり(第6条)することができる。


 諮問とは政府が公式に問いかけることであり、問いかけられた団体や専門家グループは「答申」という形でこれに応える。政府からの公式のものでない場合、「審議依頼」と「回答」という言葉が用いられるが、やることは一緒である。「勧告」は特に聞かれていなくても、自発的に議論して声明を発表し、政府に対して実現を求めることを言う。要望、声明、提言、報告などと言う言葉も使われ、意味するところの細部は微妙に違うが、基本的には一緒のものである。


 また、学術会議は日本を代表する学術団体として、「学術に関する国際団体に加入」したりすることができる(これは「科学者外交を行う」と言い換えられることもある)。その規定通り、各国の「学術会議」相当機関(後述の通り、一般には「アカデミー」と呼ばれる)の国際団体である「国際科学会議(ICSU)」に加入している(ICSU の英語正式名称はInternational Council for Science だが、 International Council of Scientific Unions という名称であった時代を継承して、ICSUという略称を現代でも用いている)。ICSU は独立機関であるが、その財源は各国アカデミーからの拠出金と、ユネスコからの助成で運営されている。


2. 「学術会議」はどこの国にもある「アカデミー」の一つ: でも、アカデミーって何?


 前述の通り学術会議は一般に「アカデミー」と呼ばれる組織の日本版であると考えらられている。アカデミーは、各国の歴史を背負っており、それぞれに特徴がある。これらの元祖と考えられているのは1660年に設立された英国の王立協会である。これは基本的に自然科学者の集まりであり、人文・社会科学は「英国学士院」と言う別の機構がある。王立協会は「王立」と言う翻訳が誤解を招くが、王によって設立を許された(チャーターされた)という意味であり、元々運営は学者たちが独自に費用を工面し、行っていた。チャーターというのは日本語にしにくいが、上位者がその権限の一部を下位のグループないし人物に移譲すること、あるいはその移譲を示す文章、のような意味である。例えば有名な東インド会社は国王からインド植民地における徴税権や通貨発行権を「チャーター」されているから、インドにいて行政機構を構築し、支配する権利がある、という事になる。


 米国では米国科学アカデミーがあり、同様に政府からの独立期間であるが、日本の学術会議と同様に法律で規定され政府から様々な諮問をうける立場にある。自然科学の強い米国という風土ゆえか、これは基本的には自然科学者の組織である。フランスはフランス学士院の下に、自然科学も含めた5個のアカデミーが存在している。このうちアカデミー・フランセーズは1635年設立で王立協会より古いが、これはフランス語の標準化のための研究機関で、一般的なアカデミーとは少し異なる。ただし、定員が40人と決められており、名誉ある職であると考えられていた点は同じである。科学部門に関してはルイ14世によって1666年に設立された。人文・社会部門はだいぶ遅れて18世紀末に設立されている。ノーベル賞を出す事で有名なスウェーデンのアカデミーもフランスに範をとって組織されており、複数の組織を傘下に抱える形になっている。オランダのように、日本同様自然科学系と人文・社会系が一体となった組織を持っているところもある。


 いずれにしても、アカデミーは(歴史、組織形態は様々だが)高い業績をあげ、その国を代表するような学者の集まりである、という事になる。さて、このメンバーはどのように選考されるか、という事になると、これは中々に難問である。例えば、よく知られている、著作が多い、テレビによく出ている。これらのことは「高い業績」を意味するだろうか? あるいは、なんらかのテストを課すことが妥当だろうか? つまり、「高い業績」というのは、果たして誰が判断しうるのであろうか。例えば、ノーベル賞やフィールズ賞といった国際的知名度が高い賞を受賞している研究者は「高い業績」と言っても問題ないように思われる。しかし、それでさえもその成果が捏造だったことが明らかになることさえある。詰まるところ、「高い業績」などというのは、主観的にならざるを得ないし、完全な審査方法など存在しない。その中でなお、アカデミーのような組織を作らざるを得ないとしたら何故か、という点については後述するが、結局のところメンバーの選び方は恣意的にならざるを得ない。一般的な手法は「名将は名将を知る」の格言に従い、すでにメンバーである研究者が、他の研究者を評価する、ということである。これは米国科学アカデミーなど多くのアカデミーで採用されている方法である。



3. 会員の選出法について: 誰が「学者の業績」を評価するのか?


 日本は、戦後に新しく学術会議が立ち上がったため、やや理想主義的に(GHQの指導により)「全ての科学者の投票制」というシステムが造られた。しかし、これは組織票を得られる立場が有利、という事になり、科学者コミュニティ内部にも多くの不満を生じさせる結果になった。そのため、1983年に法改正が行われ(科学者は分野ごとに物理学会、生物学会、哲学会などの学会を組織するが、これら)学会の推薦で会員を選ぶという方式に切り替えられた。しかし、この方法も、選出権を持っている学会ポストの権威主義化や、逆に学会によって選出された会員が、その分野の利害を前面に押し出して活動する事、それらが遠因となったポストの年功序列化、高齢化、と言った問題が指摘されてきた。そのため、2004年の法改正では、現職の会員が次期会員を推薦する方法に切り替えられた。結果的に、半世紀をかけて他のアカデミーが採用している方法に回帰してきた、と言える。もちろん、この推薦方式は透明性が高いとは言い難いし、21世紀的でもないかも知れない。より民主的でオープンな手法が試みられて、それをうまく運営できなかったことは科学者コミュニティ全体の責任に帰されるべきだろう。一方で、このあたらしい手法は、実際は比較的穏健で実務がこなせる会員が選出される事、また年齢やジェンダーのバランスも配慮されるといったメリットも指摘される。一方、今回も研究者自身の中からも「学術会議は自分には関係のない団体である」という事でその代表性に批判的な声が上がったことからも分かる通り、代表性は減じられるとともに、政府に対する批判能力も大きく失われたと指摘できるかも知れない。しかし、いずれにしてもアカデミーの重要性は「高い業績をあげた科学者の集団」が一定のコンセンサスを国内外にむけて発することができる、という機能にある。


 一方、「民主的な科学」という観点からは、全米科学振興協会(AAAS)のような組織がある。こういった組織も、実は多くの国にみられるが、これはアカデミーとは違い、ボトムアップの組織である。つまり、著名な科学者だけでなく、若い科学者、あるいは科学を支援する立場の科学ジャーナリスト、初等中等教育の教員、学芸員といった、あらゆる立場で科学に関わる人々が参加する組織という位置づけになる。こういった組織は現在までのところ日本には存在しないが、多くの国はこの二本立てで「科学を支える機関」が機能している。日本にもAAASに相当するボトムアップ組織は必要だろうと思われるが、補完的な意味でも「権威的な」政府に対するアドバイス機関は必要だろうと思われる。次に、それが何故で、かつどのように運営されなければならないかについて述べる。


4. 科学と政治の関係性について: 科学は政治に助言する


 「科学」というのは「民主的な政府」に影響を与えられる「民主制度に対して外部的な制度」という点で特殊な制度である。例えば現在、世界の先進国で主流の世俗主義によれば、宗教は個人の自由であるが、政治は宗教ベースで考えてはならないとされている。例えば、個人がイワシの頭に毎日三度礼拝するのは全く自由であるが、仮にイワシの頭教徒が国民の過半数を占めていたとしても「すべての国民はイワシの頭を一日三度礼拝すべし」という法律は作ってはならない。しかし、「科学」は法律や社会的価値に介入を許された唯一の信念体系である。


 一方で、科学が「合議制」から完全に自由であるというわけではない。「全員参加」を合議手続きの根拠にはしないが、複数の視点が入って熟議検討した方が、一人の人間の考えよりは優れている、という弁証法的手続きは科学的プロセスでも重要である。具体的には、これはピア(同業者)レビューというシステムがある。ピアとは、同じような研究をしている人々のグループである。どこまで細かい専門の違いを考慮するかは文脈によるが例えば物理学とか生物学、あるいはそれぞれをもうちょっと細かく分けて量子力学や生態学、というのはそれぞれ一つの分野(Discipline)であ理、同じ分野を研究しているのがピアである。Discipline が同時に「規律・修練」を意味したり、あるいは同じ語源を持つ Disciple  が「弟子」を意味することからも分かる通り、基本的にこれは学ぶということに関わる区分である。同じ領域のことについて、最低限必要とされる学習を積んで、その分野の常識を共有しているのが「ピア」である。そして、この共有される知識に、何か新しいこと(Something New)を付け加えるような発見や考察をすることが、研究活動ということである。そのために科学者は論文を書き、論文は一般には「ピア・レビュー」に付される。最も厳格なピア・レビューは学術誌に投稿した場合に行われるが、その場合は論文は雑誌の編集者が選んだ複数名のピアに送付される。ピアは、前述の通り、論文が「そのコミュニティにおいて当然踏まえていなければいけない前提知識を押さえた上で、何か新しい発見をしている」かどうかを審査し、問題がなければ掲載を許可するように編集者に伝える。これは、一般には匿名で(論文著者は審査をする人が誰かを知らず、また審査する側も論文の著者の名前は告げられない)行われる。より広い意味でのピア・レビューであれば、例えば学会で発表したり、すでに出版したりした論文について議論してもらうこともそれに含まれる(なぜこれらが「厳密な意味では」ピア・レビューとして適切でないと考えられるのかは後述する)。


 こうした厳格な手法を守る限りにおいて、科学は科学としての特異性を認められ、政治にアドバイスする特権的な地位を要求できる。ただし、これは科学が「どうすべきか」を決められるということではない。である論(事実命題)からべき論(価値ないし当為命題)を導き出すことはできないのである。


5. 価値命題と事実命題を区分し、政治と科学がそれぞれを扱う


 価値命題はあくまで民主制に属し、事実命題は基本的に科学に属する。その支配領域は異なる(S.J.グールドの言葉を借りればマジステリアがある)のである。従って、政策に関与するには、命題を整理する必要がある。


 例えば以下の命題に関して考えてみよう(これはAとBという二つの原子命題が複合した、分子命題である)。


   [命題1]  (A1)気候変動が事実ならば、(B1)人類は協力して対処すべきである。


 これは価値命題である。しかし「気候変動」はおそらく「科学的な」言葉であり、それだけでは科学の「しろうと」は何を言われているのかわからないだろう。従って、この価値命題に対して、民主的な合意をとるのは、ほとんどの民主国家で難しいと思われる。

 そこで、例えば[命題2]として次のように主張してみよう。


   [命題2] 「(A2)今後数十年の間に、地球の大半の場所で生活が困難になるような規模の災害が起こることが予見されるのであれば、(B2)各国が大規模な財政支出を必要とするような行動の義務を共有するような抜本的な対策が求められる」


 実際はもう少し具体的な数字があった方がいいかもしれないが、これは民主的な合意をとることは可能であろう。強調すれば、これは価値命題であり、従って民主的に真偽(「妥当性」と言い換えてもよい)を決定すべき領域の問題である。つまり、ここまでは「民主制」がマギステリアを主張すべき領域である。ただし、前半のA2の命題について考えてみると、これ自体は事実命題になっている。そこで、次の命題3を導入する。


  [命題3] (C)気候変動(が起こること)は、(B2)「今後数十年の間に、地球の大半の場所で生活が困難になるような規模の災害」である。


 これ事態は事実命題であり、[命題2]に関する議論と独立に、科学によって決することができる。つまり、科学者共同体がマジステリアを主張すべき領域である。科学的命題は基本的に民主的に決められるべきではない。例えば、「もう少し遅く落ちたいから重力加速度を今より30パーセント小さくする決議」などというものは意味がない。ただし、気候変動に関する事実認定は、重力加速度のそれよりも少し複雑で曖昧なものであることは認めざるを得ない。また、科学が厳密な意味で客観的なものだとしても、人間はそれほど客観的な判断ができるようにはできていない。「自然」はウサギアヒルの絵のようなものである。もちろんこの絵自体はウサギでもアヒルでもないただの白地と黒い線の集合に過ぎない。しかし、我々の身体構造と経験は、黒い線が集中しているところを陰とみなすべきで、黒い丸は目とみなすべきだ、と告げてくる。結果として、我々には何故かアヒルかウサギが知覚される。アヒルかウサギのどちらかが知覚されるかは、人それぞれである。この時の恣意性を科学哲学的には「理論負荷性」と呼ぶ。



 ウサギアヒルをウサギと見るかウサギと見るかは無害な遊びである。しかし、地球の大気に関する一連の観察データをどう読み解くかは、ある人にとっては地域の農業コミュニティの持続性がかかっているし、また別の人にとっては莫大な石油プラントへの投資が回収可能なものであるかどうかと密接な関わりを持つ。客観的であるということは、こうした利害から自由な視点を持つということだが、実際はこれは大変に難しい。この難しさを、我々人類は紀元前から認識していた。これは、プラトンが自分の学校を「学生が世俗の利害や圧力から自由な形で学業に専心できるように」と街から離れ、オリーブの木がしげるアカデモスの森の中に設置したことからも分かるだろう。そして、この「アカデメイア」こそが「学術的であること」(アカデミック)の語源であり、アカデミー(学校、学士院)の語源である。

 

 価値判断と事実判断はそれぞれ、政治の領域と学術の領域に割り振られ、後者は前者の影響を極力廃する形で検証を行わなければならない、という倫理はこうした歴史的、哲学的な経緯からできている。



6. 科学が科学である条件について: 科学社会学の導入


 さて、科学が厳格に客観的な事実を扱いうると信頼されているのは、科学が「科学的」であるからである。では、科学的とはどういうことだろうか? これに関してはいくつかの立場がありうるが、一つ重要なのは、科学が厳格な倫理規範に従うものであり、科学者コミュニティはその規範からの逸脱に厳しいからだ、というものがある。この規範は科学者コミュニティに潜在的に埋め込まれたものだと考えられているが、それを明示的に示したのは米国の社会学者マートンである。そのため、この規範群を「マートン規範」とも呼ぶ。


 マートン規範は次のようなものである(それぞれの頭文字を取ってCUDOSと呼ばれる)。


・公有主義(Communism) 科学的な成果は社会的協力の成果であり、科学者コミュニティに公開された共有材として扱われる。

・普遍主義(Universalism) 科学的な発見や理論は、その提唱者の人種、国籍、宗教、階級といった要素に関わりのない、予め定められた方法で取り扱われねばならない。

・無私性(Disinterestedness) 科学的研究は誰かの利害のためのものであってはならない。

・組織された懐疑主義(Organized Skepticism) すべての科学知識は、その提唱者がいかなる権威であっても、科学的に確立された手法で疑われ、検証されなければならない。


 (率直に言えば、これらマートン規範は米国流にいうところの理想的な「リベラル」規範そのものであり、それを左翼的というならば、科学者は大概の場合左翼的であると言わざるを得ない。そして「リベラル」な価値観がWTO体制下で Google や Apple のような企業を躍進させて莫大な富を生むと同時に、工場のオフショア化で工場労働者などを苦境に追い込んだ、という批判も全く根拠がないというわけではない。トランプがこの辺の話をうまく混ぜ込んで、科学者を敵視して見せるパフォーマンスをするのも、そういった背景がある。しかし、その二つは全く分けられないものなのか、また「科学者」はそれにどう責任を取るべきか、ということについてはまた議論を改めたい)

 ジョン・ザイマンは『縛られたプロメテウス』の中で、これらの倫理観は実際は機能していないと告発している。そのことは、例えば産学連携が進んで無私性が失われていたり、各国が自国の産業振興のために競って研究投資を行っていたり、その結果が海外に流出するのを防ぐための法律が作られ、産業スパイ容疑で逮捕される科学者が現れたり、と言った状況を考えれば、ザイマンの主張は全く正当である。ザイマンは科学の現場をPLACEという頭文字で示そうと試みた。曰く、Proprietary(私的所有)、Local(局所的)、Authoritarian(権威主義的)、Commissioned (請負的)、Expert work(専門家仕事)である。個別の議論には踏み込まないが、いずれにしても、マートン規範が機能していないということを告発している(CUDOSに対して、PLACEと纏められる)。


 ザイマンが一定正しいとしても、大半の科学者が、少なくとも社会の他のセクターの人々よりマートン規範に近い行動様式を示す、ということは認められて良い。先に、匿名性を確保したピア・レビューが最も適切なピア・レビューの方法だということを述べたが、これはこのマートン規範が未だに有効であるからである。つまり、論文は普遍主義的に(著者が誰であろうと関わりなく)、組織された懐疑主義に晒されなければならない。ある分野の権威だからとか、ある国籍を持っているから、といった理由が審査に影響を与えない、ということが考慮されているからである。少なくとも建前のレベルでこういった理想主義が共有され、多少は制度に影響を与えているという事は、どこかの国の強欲な政権すらも認めざるを得ない、科学の長所である。


7. 日米貿易摩擦からの教訓

 例えば、米国はかつて、日本が科学知識を隠匿していると非難していた。米国によれば、米国において科学が行われる場は大半が大学か公的な研究機関である。一方、日本では各企業が内部に研究所を持っており、そこで活発な研究投資が行われている。仮に、これらの企業研究者が米国の大学に留学するなり、短期の研究員として働くなりといったことを考えれば、それは(科学の普遍主義、公有主義にしたがって)概ね認められる。一方、米国の研究者が日本の最先端の研究を知ろうとすれば、企業の研究所に滞在することを認めてもらわねばならず、これは簡単ではない。これを「非対称のアクセス」と呼んで、貿易交渉の中で米国は激しく日本を非難した。日本が1990年代に大学院機能を充実させた背景の一つにはこの「貿易摩擦」がある。しかし、これは利害という問題に厳しい米国社会ですらも、大学というのはマートン規範に従って機能させなければ、その創造性を容易に失ってしまうということを認識していた、ということでもある。


 現在でも、米国を含めたすべての国の大学は、他国からの研究者や学生に開かれた存在である。一定の手続きは必要であるにせよ、同盟国はもちろん、東西冷戦の敵国や、米国がテロ支援国家と呼ぶ国々からも、大学は研究者や学生を受け入れる。基本的には逆も然りである。トランプ大統領は米国に批判的なイスラム諸国の留学生や研究者が米国に入国できなくするといった措置をたびたび拡大してきたが、米国の大学は常にこれに対して批判的に対応してきた。これがマートン規範の意味するところであり、科学が機能するためには、最低限のマートン規範的な共通理解が必要だ、ということである。



8.  基礎科学と応用科学: 果たして政治はどちらを好むか?


 学術会議の問題を考えるときに重要なのは、こうした普遍主義や無私性をどう担保するかが、科学の自由と直結している、ということである。先に触れたように、価値命題は政治のマジステリアであり、事実命題は基本的に科学のマジステリアである。政治はしばしば、価値命題から演繹される政策が自分に都合の良いものであるように、事実命題の方に手をつけたがり、そのために科学者に圧力をかけてくる。


 例えば、ザイマンの「請負仕事」という概念を考えてみよう。これは、例えば産学連携で、科学者がもはや個人的興味からではなく、企業の利害に基づいた研究を行う、ということである。ここではマートン規範の無私性や公有主義が阻害されているだろう。同様に、政府はある政策目標に基づいて研究資金を確保し、大学の研究者にそのプロジェクトへの参加を求めることがある。こういった研究を「トップダウン型」ともいう。逆に、科学者自身の純粋な好奇心に基づいた研究を「ボトムアップ型」という。あるいは「ミッション指向型」「好奇心駆動型」という分け方をすることもある。産業応用につながるような研究を「応用研究」、すぐにはつながらない研究を「基礎研究」と分ける分け方もある。「ボトムアップ」の予算であるから基礎研究であるとは限らないが、基礎研究の多くはボトムアップの予算に支えられている。好奇心駆動型の研究の例として、例えば「イエローストーン国立公園の間欠泉には微生物が住んでいることが知られるが、生き物がとても生きられないと思われる高温化で、彼らはどうやって生きているんだろう?」ということに関する研究が挙げられるだろう。これは、どう産業に応用すべきか、ちょっと想像が付き難い研究であり、おそらく開始された直後はさらにそうだったろう。しかし実際は、この研究はPCRプロセスの中で、DNAを高温で処理する際の工夫に大きな示唆を与えることになった。純然たる好奇心からの研究が、思いもかけない形で、総額がちょっと想像すらできないような超巨大市場の創生につながったわけである。すべての基礎研究にこうしたことが起こるわけでは、もちろんない。それどころか大半の基礎研究は、一円たりと価値を生み出さないであろう。しかしながら、何がそういった市場の創出につながる基礎研究であるか、事前に予見することはほぼ不可能であろう(予見できるのであれば、それは応用研究であるし、その研究にはあっという間に世界中の研究者が殺到するであろう)。


 日本では、こうしたボトムアップの予算としては、まず国立大学に配分され、各大学法人が自由に使うことができる「運営費交付金」がある。しかし、この予算は年々減らされており、この中から毎年割り当てられてきた各教員への個人研究費も著しく減額されているのが現状である。また、文部科学省傘下の「日本学術振興会(JSPS)」が管轄する科学技術研究費も基本的にはボトムアップの予算である。予算の使途は申請する各研究者がかなり自由に裁量でき、審査は基本的に同業の研究者が行う。この予算は、増減はあるが、ざっくり言えば毎年2千億円ほどである。



9. 大学改革、あるいは大学に対する政治の侵食


 一方、1990年代後半に日本の公的研究費は大きく増額された。これは、大学の機能強化のためのキャンパス建築費など、様々なものが含まれるが、重要なのはトップダウンの研究予算である。これらは、各省庁から直接配布されたり、文部科学省傘下の科学技術振興機構(JST) などを通じて配られることが多い。これらの予算は、政府が「こういう目標を持って研究開発を進めたい」と示し、それを実践できると思う研究者が応募する、という形式である。企業からの研究依頼よりは総花的な目標設定が行われることが多いが、それでもその時々に政府が重要だと思う事業に資金が投じられるわけで、純粋に好奇心駆動型の研究を行うことには程度の差はあれ、困難を伴う。


 元々、日本の大学教員の公的な義務は教育であり、研究は教員が自発的に行うものという設定であった。従って、日本の大学教員がアクセスできる公的研究費は(原子力や宇宙開発のように国家事業として行われるものへの参加を除けば)科研費にほぼ限られていた。科学というのは人類共通の文化であり財産であるから、それに寄与する大学教員の活動は政府としても多いに支援する、ということが前提であり、例えば芸術への助成金と同じようなものとして科研費が設定されていたわけである。ところが、1990年代に、先に述べた米国からの圧力や、バブル崩壊により旺盛だった企業の研究投資が衰え始めたことから、大学の研究を、より経済的な事情を反映したものに変えていこうという動きが出始めた。最も重要なものは科学技術基本法の制定であり、この法律によって科学知識は(例えば道路が政府によって作られる公共インフラである、というのと同様に)社会インフラであり、政府が積極的に投資するべきものであると定義され直したのである。つまり科学研究が「大学教員の趣味と、それをフィランソロピックに後押しする国家」という位置づけから「国家が目標を示し、それを達成するために国費を使って研究する大学教員」という位置づけに大転換したわけである。もちろん、ボトムアップの研究としての科研費は残されたが、元々諸外国に比べて大きな額ではなかったこともあり、その重要性は失われていった。また、科研費の審査員は同業者であるという原則に従って、その審査員選定に対して学術会議は一定の権限を持っていたが、2003年には学術振興会内部に学術システム研究センターが設置され、この選定業務に当たることになったため、この面でも影響力は後退した。


 また、1959年から2000年まで存在した科学技術会議も、総合科学技術会議に改組された。科学技術会議は首相、文部大臣、経済企画庁長官、科学技術庁長官という4人の担当閣僚と、日本学術会議会長及び科学技術の専門家数名から構成されており、内閣と日本学術会議の調整機関的な側面を持っていた。しかし、左派色の強い学術会議と自民党内閣の間で、この会議はうまく機能しているとは言い難かった。そのため、科学技術基本法にも整合的なように、2001年に総合科学技術会議がこれを代替した。総合科学技術会議は、学術会議の会長も席を残しているものの、財界からの議員を加え、応用研究の推進にほぼ特化している。2014年には総合科学技術・イノベーション会議と改称され、"「世界で最もイノ ベーションに適した国」を創り上げていくための司令塔"と位置付けられた。さらに応用への傾斜を深めているとみて良いだろう。



10. 学術会議を力点とする対立


 形式的な二項対立を強調しすぎることは問題だが、ざっくりというと、好奇心駆動型 vs ミッション指向、ボトムアップ vs トップダウン、CUDOS vs PLACE、という対立の軸があり、その制度的裏付けとして学術会議 vs 総合科学技術イノベーション会議…、という関連はある(実は、学術会議自体もそういった二項対立の中で自分たちの活動が捉えられることに、ややワキが甘い面があったことは否めないと思う)。そして、基本的には学術会議は制度的に弱められ、総合科学技術イノベーション会議が強化されてきた、というのが、少なくともここ30年ほどの歴史である。ただし、重要なのはこれまでは、制度は、少なくとも形式上は合法的な手続きをえて法改正がされてきた、ということである。しかし、今回は多くの論者が批判しているように、全く議論抜きで突然に、実質的な「解釈の変更」が行われ、首相の任命の裁量が拡大された。これは、あまり考えなしに行われたという気もしなくもないが、意識的にせよ無意識にせよ実質的には、学者の好奇心主導型の科学に対して、政治主導の科学の余地を大きくしようという、一連の歴史的経緯の一部であると考える事は、特に矛盾がない。


 実際のところ、好奇心駆動型の科学は世界中で弱体化はしているのだが、日本ほど絶滅への道が見えてきている場所も珍しいかもしれない。しかし、政治主導型の科学の問題点は様々にある。例えば、間欠泉の中の生態系に着目するような「変な科学者」がいなくなったら、実はイノベーションの機会も狭まっているかもしれない。また、政府の視点に近いところで研究するということが常態になってしまったら、原子力研究で起こったように、視点の多様性が失われ、思わぬ弊害や事故の可能性は見過ごされるかもしれない。今回は人文系の学者がターゲットだったが、政府がこれに味をしめれば、次は気候学者が狙われるかもしれない。こういったことを起こさないために、科学と政治の領域は分離されなければならない。政治に対する助言機関としては形骸化、弱体化している面は否めないにせよ、学術会議法の会員選定が、「優れた研究又は業績がある科学者の うちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦」(17条)し、「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」(7条)とされているのはそういうことである。「優れた研究又は業績がある科学者」の選び方については一考の余地はあり、学術会議法が改正されることは構わない(ただ、こういった改正は時の政権に都合のいいように行われるのが常であり、改正には慎重を要する)が、それは政治的圧力を排してピアによる評価が行われるという原則に従ったものでなくてなならない。ましてや、法を歪める形で科学に対する介入を始めることは、我々の認識の眼を曇らせる暴挙であると指摘されねばならない。従って、現行の日本学術会議に多くの問題があるとしても、それに対して政治介入が起こるということは(それこそ「それでも学術会議という枠が必要だ」ということの証明にはなるとしても)学術会議を改革する根拠にしてはならないのである。

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