高学歴ワーキングプアーという言葉はすっかり定着したが、そういった状況にある若手人文系研究者の自殺事件が続いたことにより注目されている。先日、朝日新聞に掲載された記事には、友人であり、一般社団法人カセイケンでご一緒している榎木英介氏のコメントが掲載されていた("「博士漂流」問題、職に対して人募集の仕組みを" ※こちらはデジタル版のみの内容も含んでいる)。榎木氏は日本における研究者のキャリアパス問題で長年活動を続けてきており、近年朝日新聞のような「主要メディア」にも意見を求められるようになったことは、私としても大変ありがたいと思っている。ただ、一方では、朝日新聞でのコメントも基本的に「理工系(特に90年代後半から大量生産されるようになったバイオ系)の研究者」の視点かなと思う面はあり、そこで多少違和感を感じる部分も否定できない。ここで、人文・社会系の研究者にとってのキャリア問題について、少し別の切り口から整理してみたい。
ここで「人文・社会系」と言った場合は、いわゆる人文学(哲学、歴史、文学等)と、ソフト社会科学と呼ばれる社会学や文化人類学と言った分野を想定している。経済学や心理学など、人文・社会系の中でも社会での応用性が高い分野に関しては、ここで述べるようなことは全く関係ないとは言わないが、多少別の整理が必要であるように思う。
さて、人文系研究者のキャリアパスは、昔も困難なものがあったが、近年さらに困難の度合いを増しているように思う。もともと、こう言った分野は企業にとっての利用価値は必ずしも高くはない。例えばポスドクの任期終了を迎えた研究者が、リクナビなどの「転職」サイトを利用することを考える。実は、最近はこう言ったサイトにも、研究者や学位保持者というカテゴリーは用意されている。しかしながら、試しに登録してみると、そこで想定されているのはバイオ系の学位(製薬会社が圧倒的に多い)や、IT、ビッグデータと言った分野の学位である。その他の分野の人間にとって決して間口が広いとは言い難い(ただし、これはもしかしたらいかなる分野を専攻していたのであっても、統計処理やプログラミング、そして多分多少の英語力があれば、就職が絶望的というわけではないことを意味するかもしれない。この辺りは要検証である)。
また、これはあまり語られないことだが、人文系の職の幅はむしろ狭まっているということも言える。私は90年代後半に大学を卒業した、いわゆる団塊ジュニアに属するが、このころの研究者志望者は、多かれ少なかれ教員や年長者から「院に進学するのはいいけど、教職はとっておくように」と言われたことがあるのではないかと思う。しかし、すでに我々の頃は新卒での教職の倍率は、自治体にもよるが数十倍位であることが普通であり、研究者志望からの転進が普通は30歳を越えてから行われていることを考え合わせれば、到底(大学に職を得られなかった時の)セイフティ・ネットとは言いがたいのは明らかであった。
また、かつては高校の教員には「研究日」というものが設定されていることが多かった。つまり、1日は通常授業のないウィークデーが設定されており、そこを自分の研鑽のために自由に使えたのである。この日を利用して、大学に行ったり、地域のフィールドワークをすることも可能であった。民俗学や郷土史、あるいは理工系でも生態学といった分野は、こういった高校の先生たちに支えられている面も大きかったのである。一般的なキャリアパスとしても、通常初等教育の教諭は教育学部の出身者が多く、もともと「先生になること」を志望していた人が多いのに対して、中等教育の教員は、研究したいという情熱と、経済的な問題を天秤にかけて、教員を選んだ人も少なくなかったのである。文学作品にもこういった「知的好奇心」を抱き続けて主人公を啓発する教員というのはしばしば登場する。私自身も高校生活を通じて、(複数の)そういった教員にいい刺激を与えてもらったと思う。
しかし、現在では(最近は新聞でも指摘される通り)教員というのは最も拘束時間が長い業種になりつつある。また、非正規化が進み、(待遇の悪さが学生たちに知れ渡ったので)倍率こそ下がったものの、仮に無事就職できても、ともすると生活を維持するのもままならない、といった状況であると指摘されている。こういった状況で(おそらく奨学金の返済義務も抱えた若手の研究者たちが)「生活の安定のために、研究者をやめて転進する」先として適切とは言い難いし、仮になったとしてもかつてのようにエフォートの一部を使って学問に貢献することは至難である。同様に、バブル期までは予備校講師なども高学歴ワーキング・プアの脱出先として確保されていたが、これも近年は規模縮小やかつてのスターシステムから「社員化」の波を受けて、選択肢としては有力ではない。
もう一つ、大学の教員がしばしば「大学が軽視されており、研究者がキャリアパスとして魅力的ではない」ということを主張するとき、見落とされているのは、それが大学だけの問題ではないということである。中曽根、小泉改革と続く非正規化、民営化の流れは、学芸員や司書といった「人文的な知」を支える業種にも(社会インフラを担う現業職同様)直撃している。それらの職業は、基本的には各自治体に少数しかいないこともあって(そして、バスや水道などと違って、サービスの低下に対して即有権者からの反発がないこともあって)、まず非正規化、縮小されたのである。(そして、図書館長などの職は資格を持った経験ある司書ではなく、ジェネラリストとして終身雇用の上がりに近ずいている、必ずしも「図書館とは何か」について詳しくはない公務員によって占められることも少なくない)。もちろん、理工系の就職先としての地域の科学館などもあるが、基本的には人文系の問題であることが多いが、大学の常勤教員たちはこういった問題に対して比較的冷淡であったと思う。しかし、そもそも誰が地域の子供たちに最初に人文的知の重要性を啓発し、大学で何を学ぶべきかについて考えるための道を指し示すかを考えれば、これは自分たちのよって立つ土台が崩れていくことに無関心であったということを意味しないだろうか?
しかし、この数十年社会はそれなりに進歩を遂げているはずであり、本来なら労働者はオートメーションによって発生する余暇を楽しめるようになっていなければおかしいのではないだろうか。しかし、実態は逆であるように思われる。これは、ある種の「民衆管理技術」はそれ以上の進歩を遂げ、人々に(資本主義的には無駄な)思索や省察、創作に耽る時間を削り、「より少ないインプットで、より多くのアウトプットを」というカノンが唯一絶対の正義であると、かつてなく思わせるようになっているということなのではないか。
そういったときであるがゆえに、人文学的な知の重要性は増しているはずであり、我々はその知が地域の学校や図書館、博物館などで機能するように求めていく必要があるのではないか。
これは、経済的にも荒唐無稽な話ではなく、日本の公的セクターはあまりにも縮小してしまっており、ここに人件費を投じることは経済効果もあるだろう。ピケティなども、公的セクターの人件費を3割程度増やす必要があるのではないかと述べているが、これは例えば上級職の給与を増やすということではなく、非正規化した職を正規化することによって達成されると、人道的なだけではなく、経済効果としてもより効率的であろう。
ここまでは「失われたキャリアパス」について議論してきたわけだが、それの代わりがなかったわけではないことも論じておこう。もちろん、中曽根ー小泉改革の流れの中で、世界のほぼ全ての国がそうであったように「無駄な学問」への風当たりは厳しいものがあったが、だからと言って適正化の余地が全くなかったとは思えない。これは他の業種にも言えることだが、その職業がある事業や領域を維持するのに必要であれば、その職業が再生産に十分なだけの所得を維持できるようにすべきである。これは、単に個々の労働者のためというだけではなく、社会を維持するために必要なはずだが、そういった「社会制度の適正化」の努力を日本社会が十分に行ってきたとは言い難い。そういった分野の一つが大学の、専業化された非常勤講師である。
理工系の若手ポストが「ポスドク」によって提供されてきたように、人文系は非常勤講師によって提供されてきた。しかし、この環境も年々悪化しているように思われる。そもそも、制度的な前提としては大学の「非常勤講師」は例外的な存在であった。大学設置基準は大学の授業が選任の教員によって提供されることを求めている。しかし、例えば特殊な分野で、その分野の講義を複数必要とするわけではない場合や、まだごく少ない研究者しかその分野について十分に理解できていないような先端分野について学生に学ばせたい、といった場合に、他の大学から教員を読んで講義してもらう、ということがまず想定される。非常勤講師の謝金は、九十分の授業を毎週提供して、月額3万円前後である(地域、大学間でだいぶ違いはある)。これは、生活を支えるには大変厳しいが元々は他の大学の教員に対する「お車代」的な意味合いだったとすれば悪くない金額であろう。ところが、徐々に常設の、本来大学設置基準が常勤を求めているような講義まで、非常勤で賄われることも増えてきて、大学によっては非常勤講師がなければ十分な授業数を提供できないといった事態に立ち至っている。一方同時に、まだ就職していない博士課程の院生やオーバードクターの「修行」の場としても、非常勤が位置付けられるようになってもきた。一つには、多くの常勤教員公募は「教歴」を求めるのに対して、院生だけを続けていたのでは教歴はつかない、ということが挙げられる。
例えばアメリカの大学では、一つの講義に対して潤沢なティーチング・アシスタントが設定され、これは教育職の一種とみなされる。しかし、日本の大学では同じTAと呼ばれるものは最低時給近くのアルバイトの一種であり、多くの場合業務として直接学部生の教育に携わるものではない。これは、経済的にだけではなく、教育職の養成プロセスとしても問題がある。ある日「非常勤講師」に任命された若い研究者は、特に教育方法の訓練をされることもなく、いきなりその単位について全ての責任を持つことになるからである。また、近年大学はファカルティ・ディベロップメントとして、より良い授業を提供するための講座などを所属教員に提供しているが、これは非常勤講師は対象外である(参加を拒まないところはあるかも知れないが、多くが週一回90分しか大学に拘束されない契約の非常勤講師を参加させることは難しい)。しかし、熟練の専任教授(とも限らないというツッコミは置くとして)たちがファカルティ・ディベロップメントを受けられる(/ 受けさせられる)一方で、授業経験のない若手にはその機会がないというのは、「より良い授業を学生に提供する」という趣旨からすると、矛盾があると言えなくもない。
また、非常勤講師の負担も「単位の実質化」という国策上の要請によって上がっている。かつての大学のイメージというのは、教員は遅れてやって来て、終了時間だいぶ前に終わり、基本的には喋りっぱなしの講義が15回続き、最後にテストないしレポート一発で成績が決まる、というものであろう。しかし、近年は予習復習が求められたり、アクティヴ・ラーニング的要素が求められたり、あるいは成績についても公平を期するために期末テスト一発ではなく、授業中の課題などを加味してつけるように求められている。これらの「実質化」に対応しようとすれば、当然講義負担も上がるが、もちろんそれに対応して支払いが増えるというわけではない。
そもそも論で言えば、非常勤で払われているものはなんだろうか? 例えば、常勤であれば維持される研究室や専門書(実際は書籍というよりも、書籍を格納する書架スペースの負担が大きいわけだが)などの経費は、一種の「間接経費」で支払われるべきであろう。また、これは例えば自動車メーカーの派遣労働者などにも言えることだが、失業リスクは正規雇用より大きいわけで、そのリスクの少なくともある程度の部分をリスク・プレミアムという形で企業が負担しないとすれば、これは搾取である。その意味で、一般論として継続の見込みがない職は、ある職よりもだいぶと高額の給与が給付されて初めて「同一労働同一賃金」と言える。
また、「52歳大学非常勤講師「年収200万円」の不条理: 正規の「専任教員」との給与格差は5倍だ」という記事の"専任教授と非常勤講師が同じく週4コマの授業を担当した場合、年収に10倍近い開きが出ることも明らかになった"という表現に対して、「専任教員は授業だけしていればいいわけじゃない」という反発が上がったことがある。一般論として大学の職は「教育、研究、校務」の三つに分けることができるだろう。欧米の契約ではこれらの比率が示されることが多いと思うが、日本ではこのあたりは曖昧である。確かに、非常勤講師が校務を担うことは基本的にない(入試業務をロハで手伝わされた、みたいな噂を聞くことはあるが、これはどちらかというとパワハラ問題であって、ちょっと別に考える必要がある)。しかし、研究に関しては「教育と研究の一致」というフンボルト理念が容易に放棄されるという状況は驚きであり、危険だと警告を発せざるを得ない。政府は「実務家教員」の比率を上げるように大学に圧力をかけているが、これを拒否するべき最大の理由はフンボルト理念であり、それがなければ大学は専門学校と変わるところはない、ということになる。私も非常勤講師を請け負っているわけで、「研究者」としてはお世辞にも立派な業績とは言えないであろうが、それでも「なにがしか研究に関わっている」という事実がなければ、基本的には非常勤講師の依頼は来ないであろう(と、少なくとも私は理解している)。専任教員であれば研究は給与の一部を形成する一方、非常勤講師であれば研究をする義務はあるが、それはどこからも払われる必要はない、というロジックは、自然とは言い難いであろう。(おそらく、これは現行の非常勤講師制度ができた頃は、そもそも法の立て付けとしては専任教員であっても研究そのものはデューティではなく、政府はあくまで教育に対して給与を払い、研究は余剰の時間にヴォランティアとして行うものである、という理解があったことに起因するだろう。しかし、現在では研究もエフォートを管理する時代であり、そこに整合性のあるシステム変更が求められるであろう)。
こうしたことを整理すれば、例えば各大学がアド・ホックに非常勤講師を雇うことをやめて、連合(大学の規模に応じて出資し)で「非常勤講師派遣センター」のようなものを作り、そこで雇用した「講師」の中から各大学が講義を招聘できるようにする、といった方法が考えられると思う。こうした方法なら、講師個人が不安定化のコストを一方的に負担させられるといったことは避けられる。
次に、1990年代後半から、社会のもう一つのセクターが注目を集められ、振興策が様々に練られてきた。NPOなどが担う、非営利セクターである。もちろん、この領域には様々な人材が参入するが、海外の事例を見ると、大学院の拡充と深く結びついていることが見て取れる。つまり、比較的少ない人材や予算で、政府と企業が効率的に提供できないが必要とされている、多様なサービスを発見し、それを効率よく提供する道を探し出す、ということが必要となっている。そのために、例えばある程度現場で働いたことのある人材が、そこで経験した問題について考えるために大学院に進学し、専門家のアドバイスや研究予算といったサポートを受けつつ研究し、NPOなどを起業して現場に戻る、といったサイクルが必要だ、と考えられていた。
また、そういった社会を効率的に機能させるために、政治家の政策提言能力も底上げされる必要もあるという議論もあった。例えば1993年に導入された国会議員政策担当秘書の国家資格などは、弁護士資格などのほか、博士号を持っていると学科試験が免除されるなど、高度専門家の受け入れ先としても想定されている。これらはもちろん、いわゆる「人文学」だけの問題でななく、例えば経営学であったり、あるいは理工系の知識を持った人の受け入れ先としても想定されているだろう。しかし、価値を扱う領域ということで、人文学の占めうるシェアは、相対的に高いはずである。
しかしながら、他国のようにはこの領域は機能しているとは言い難い。依然として、NPOセクターは「有閑階級や暇な学生のヴォランティア」であり、またそうあるべきだと見なされている。議員秘書の重要な仕事は、論文を精査して、国際経済や環境問題の問題点を論じることよりも、地域回りや陳情の対応である。社会が変わらないから「価値をめぐる知的生産」の領域を扱う職業の地位が(少なくともそれでそこそこ食える程度には)上がらないのか、そういった職業の地位が低いから社会が変われないのか、そのあたりは定かではないが、何れにしてもこの公共セクターの拡充という面で、日本が立ち遅れていることは否定し難いだろう。
「ビジネスにおける倫理や価値」が産業にならないかということも検討に値するかもしれない。。
基本的には人文学は資本主義経済と必ずしも相性が良くない。例えば、バイオテクノロジーの研究であれば、利用価値のたかそうな物質や機能に辺りをつけ、研究費(投資)を集め、それによって獲得された機材や人材を使って目標に近づいていく。これは企業であっても大学であっても大きく変わるものではない。研究のフレームは原則として功利主義的であり、比較的「資本主義の精神」と馴染みがいいのである。しかし、哲学や、あるいは理論物理学などにもある程度妥当するが、一部の分野にとっては、こういった功利主義は発想を貧しくするものであり、忌避の対象であることがある。これらの分野はよりギリシャ的な「暇」としての学問を継承していたり、あるいはカトリック神学に近い面があるのである。生物学、統計や ITの知識はもちろん努力すればフォローできるだろう。しかし、案外とこういったところが、人文学が企業と馴染まない根源的な理由であり、企業側も漠然とそういったことを感じ取っているのではないか、という気もしなくはない。しかし、ではそういった人文学は有用な形で機能していなかったのかというと、もう少し別の形で機能していたのだ、というのが「高校教師や、司書、学芸員といった"啓蒙の尖兵"としての人文学研究者」ということになろう。
とはいえ、人文学が全く資本主義の中で機能しないわけではない。例えばコンテンツ・ビジネスは歴史学などの成果に大きく依存している。歴史研究がなければ『タイタニック』や『グラディエーター』などの映画は、荒唐無稽に見えるものにしかならないだろう。とはいっても、第一にコンテンツビジネスから歴史学が「費用」を回収するのは難しい。大半の作家は、歴史書を読んで想像を膨らませるだろうが、そこから歴史学者に入るお金(主に印税)はたかが知れたものである。作品を丹念に作りたい、比較的裕福な作り手は、若い歴史学者を一定期間雇って、自分の作品が歴史的事実という観点からみてどの程度正確かを調査させるかも知れない。これは大きな実入りになりうるだろうが、全ての作り手がやるというわけでもない。
また、理工系の作品は、例えば洗濯機や抗がん剤のような製品になるとする。研究者や技術者にとって、この製品を純粋に愛し、耽溺してくれることは多くの場合喜ばしいことであっても、嘆くべき要素はない。しかし、「価値」を主に扱う分野はちょっと事情が違う。消費者が坂本龍馬を愛し、その「影響」を課題に見積もることがあった場合、坂本龍馬(あるいは日本近代史一般)の研究者は、それが不正確であり、学問的手続きにのっとらず、またある意味で(例えばナショナリズムを呼び込むなど)危険なことでもある、と主張しなければいけない。自分の生産物を愛してもらうことと、場合によってはそれに苦言を呈し、消費者の不興を買わなければいけない、という緊張感は(理工系でもないわけではないにせよ)人文学者は特に注意を必要とするだろう。
パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちた事件では、有名なゲーム制作会社である Ubisoft が、自社の作品である『アサシンズ・クリード』の作成のためにノートルダム寺院の詳細なデータを取得、それによってゲーム中に大聖堂を再現させており、このデータを再建のために供出する用意があると申し出た。これなどは、もちろん計測技術の進歩や、それを元に3Dで寺院を再現することに消費者の手元のコンピューターが耐えるようになったという意味では極めて理系的な話であるが、一方で「ノートルダム寺院が歴史的、美術的に極めて高い価値を持っており、お金を出してそれを精密に再現することは、コンシューマーを喜ばせる」という決定がゲーム会社の中で行われている、という点において興味深い。例えば、半額だが安っぽい近世パリが再現されている『アサシンズ・クリード』と、現在のパソコンで可能な限り最高のクオリティの『アサシンズ・クリード』と、どちらを消費者が望むか、また日本の企業にそういった選択ができるか、ということは考えたほうがいいだろう。
コンテンツ・ビジネスという面では、昨今の映画会社(特に子ども向けの映画を製作している会社)は、ジェンダーバイアスや文化的多様性といった問題に極めて敏感であるように思われる。かつてはディズニー映画といえば男性中心主義とヨーロッパ中心主義の権化だと見られていたが、特に『ファインディング・ニモ』以降、そういったことには極めて慎重に配慮された作品が多く作成されている。もちろん、「気をつけるぞ」と決めただけで地雷を踏まないというわけにはいかないので、これらの会社はおそらく倫理学者や文化人類学者にそれなりに払っていると思われる。もちろん個々の研究者に支払われるお金は映画の全制作費からすれば微々たるものかも知れないが、そのコンサルティングを受け、場合によっては製作が巻き戻され、やり直されるかも知れないということであれば、映画会社にとってもかなりの負担であろう。
しかし一方で、日本では女性やマイノリティを蔑視しているとして、度々問題が発生している。SNS社会であり、これまでは少数の個人が脅威や不快感を感じても我慢するしかなかったのが問題にしやすくなったという面はある。一方で、制作会社が「バズる」効果を狙って、より悪目立ちするようにコンテンツを作りがちである、ということもあるだろう。そうした中で、世界の雰囲気がよりギスギスしている面もあるとすれば問題であろう。日本でも、倫理的なコンサルテーションを提供する会社ができれば、人文系の研究者の有力な職業になるかも知れない。しかし、一方で「倫理」は日本では軽視されており、ますます軽視されるようになっているように思われる。また、仮にそういった風潮が根付いたとしても「バズりたい」コンテンツ制作会社と人文系研究者の間の緊張関係が発生するだろうことは容易に想像がつく。そんな中で法的根拠がある監査法人ですら企業に十分に物申せないという状況がある中で、果たして十分な成果が出せるかは疑問も残る。
何れにしても
・地域における人文学
・非常勤講師の問題
・NPOセクターのキャリアパス
・産業と倫理・価値
の四つの領域に置いて、いずれも日本社会が問題を抱えているということを概観した。これらは人文学の専門家の苦境の、原因の一部分を形成していると同時に、日本社会として取り組むべき問題でもある。特に、「払われない人件費(と間接経費・リスクプレミアム)」の問題は、他の領域も含めて、日本社会が喫緊に是正していくべき問題であろう。氷河期世代の救済、という議論が時々(大体は選挙前だけ)盛り上がるが、まずこれらの「シャドー・エコノミー」化している仕事を可視化すると、本当に支援すべき領域というのが見えてくるのではないか。
すでに常勤職にある大学教員についても、こういった可視化の努力は可能であり、また多少の道義的義務はあるだろう。中曽根・小泉改革でまず非正規化が進められたのは、直近の人件費削減もさることながら、非正規化して分断することによって労働争議が困難になることが期待されたからである。逆に言えば、正規労働者は、フランスの大学で行われたような、ある種の組織的抵抗を担う義務があるだろう。またそういった姿を見せることが、学生たちへの最大の教育でもあると思う。また、専門領域にこもらずに、我々人類が抱えた問題について、アカデミズムの外部の人と積極的にコミュニケーションするといった努力も求められるだろう。
そういった先に、「公共的なもの」「人文的なもの」が復権し、機能する余地は十分にあるし、そういった形でしか人文学は社会に貢献しないであろう。
追記:
続き的なもの書きました。
・なぜ人文・社会系博士を増やさないといけないと考えられたか、について
関連記事:
・人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?
・人文学/人間性の危機とイノベーションの神学
ここで「人文・社会系」と言った場合は、いわゆる人文学(哲学、歴史、文学等)と、ソフト社会科学と呼ばれる社会学や文化人類学と言った分野を想定している。経済学や心理学など、人文・社会系の中でも社会での応用性が高い分野に関しては、ここで述べるようなことは全く関係ないとは言わないが、多少別の整理が必要であるように思う。
1. 地域における人文学
さて、人文系研究者のキャリアパスは、昔も困難なものがあったが、近年さらに困難の度合いを増しているように思う。もともと、こう言った分野は企業にとっての利用価値は必ずしも高くはない。例えばポスドクの任期終了を迎えた研究者が、リクナビなどの「転職」サイトを利用することを考える。実は、最近はこう言ったサイトにも、研究者や学位保持者というカテゴリーは用意されている。しかしながら、試しに登録してみると、そこで想定されているのはバイオ系の学位(製薬会社が圧倒的に多い)や、IT、ビッグデータと言った分野の学位である。その他の分野の人間にとって決して間口が広いとは言い難い(ただし、これはもしかしたらいかなる分野を専攻していたのであっても、統計処理やプログラミング、そして多分多少の英語力があれば、就職が絶望的というわけではないことを意味するかもしれない。この辺りは要検証である)。
また、これはあまり語られないことだが、人文系の職の幅はむしろ狭まっているということも言える。私は90年代後半に大学を卒業した、いわゆる団塊ジュニアに属するが、このころの研究者志望者は、多かれ少なかれ教員や年長者から「院に進学するのはいいけど、教職はとっておくように」と言われたことがあるのではないかと思う。しかし、すでに我々の頃は新卒での教職の倍率は、自治体にもよるが数十倍位であることが普通であり、研究者志望からの転進が普通は30歳を越えてから行われていることを考え合わせれば、到底(大学に職を得られなかった時の)セイフティ・ネットとは言いがたいのは明らかであった。
また、かつては高校の教員には「研究日」というものが設定されていることが多かった。つまり、1日は通常授業のないウィークデーが設定されており、そこを自分の研鑽のために自由に使えたのである。この日を利用して、大学に行ったり、地域のフィールドワークをすることも可能であった。民俗学や郷土史、あるいは理工系でも生態学といった分野は、こういった高校の先生たちに支えられている面も大きかったのである。一般的なキャリアパスとしても、通常初等教育の教諭は教育学部の出身者が多く、もともと「先生になること」を志望していた人が多いのに対して、中等教育の教員は、研究したいという情熱と、経済的な問題を天秤にかけて、教員を選んだ人も少なくなかったのである。文学作品にもこういった「知的好奇心」を抱き続けて主人公を啓発する教員というのはしばしば登場する。私自身も高校生活を通じて、(複数の)そういった教員にいい刺激を与えてもらったと思う。
しかし、現在では(最近は新聞でも指摘される通り)教員というのは最も拘束時間が長い業種になりつつある。また、非正規化が進み、(待遇の悪さが学生たちに知れ渡ったので)倍率こそ下がったものの、仮に無事就職できても、ともすると生活を維持するのもままならない、といった状況であると指摘されている。こういった状況で(おそらく奨学金の返済義務も抱えた若手の研究者たちが)「生活の安定のために、研究者をやめて転進する」先として適切とは言い難いし、仮になったとしてもかつてのようにエフォートの一部を使って学問に貢献することは至難である。同様に、バブル期までは予備校講師なども高学歴ワーキング・プアの脱出先として確保されていたが、これも近年は規模縮小やかつてのスターシステムから「社員化」の波を受けて、選択肢としては有力ではない。
もう一つ、大学の教員がしばしば「大学が軽視されており、研究者がキャリアパスとして魅力的ではない」ということを主張するとき、見落とされているのは、それが大学だけの問題ではないということである。中曽根、小泉改革と続く非正規化、民営化の流れは、学芸員や司書といった「人文的な知」を支える業種にも(社会インフラを担う現業職同様)直撃している。それらの職業は、基本的には各自治体に少数しかいないこともあって(そして、バスや水道などと違って、サービスの低下に対して即有権者からの反発がないこともあって)、まず非正規化、縮小されたのである。(そして、図書館長などの職は資格を持った経験ある司書ではなく、ジェネラリストとして終身雇用の上がりに近ずいている、必ずしも「図書館とは何か」について詳しくはない公務員によって占められることも少なくない)。もちろん、理工系の就職先としての地域の科学館などもあるが、基本的には人文系の問題であることが多いが、大学の常勤教員たちはこういった問題に対して比較的冷淡であったと思う。しかし、そもそも誰が地域の子供たちに最初に人文的知の重要性を啓発し、大学で何を学ぶべきかについて考えるための道を指し示すかを考えれば、これは自分たちのよって立つ土台が崩れていくことに無関心であったということを意味しないだろうか?
しかし、この数十年社会はそれなりに進歩を遂げているはずであり、本来なら労働者はオートメーションによって発生する余暇を楽しめるようになっていなければおかしいのではないだろうか。しかし、実態は逆であるように思われる。これは、ある種の「民衆管理技術」はそれ以上の進歩を遂げ、人々に(資本主義的には無駄な)思索や省察、創作に耽る時間を削り、「より少ないインプットで、より多くのアウトプットを」というカノンが唯一絶対の正義であると、かつてなく思わせるようになっているということなのではないか。
そういったときであるがゆえに、人文学的な知の重要性は増しているはずであり、我々はその知が地域の学校や図書館、博物館などで機能するように求めていく必要があるのではないか。
これは、経済的にも荒唐無稽な話ではなく、日本の公的セクターはあまりにも縮小してしまっており、ここに人件費を投じることは経済効果もあるだろう。ピケティなども、公的セクターの人件費を3割程度増やす必要があるのではないかと述べているが、これは例えば上級職の給与を増やすということではなく、非正規化した職を正規化することによって達成されると、人道的なだけではなく、経済効果としてもより効率的であろう。
2. 非常勤講師の問題
ここまでは「失われたキャリアパス」について議論してきたわけだが、それの代わりがなかったわけではないことも論じておこう。もちろん、中曽根ー小泉改革の流れの中で、世界のほぼ全ての国がそうであったように「無駄な学問」への風当たりは厳しいものがあったが、だからと言って適正化の余地が全くなかったとは思えない。これは他の業種にも言えることだが、その職業がある事業や領域を維持するのに必要であれば、その職業が再生産に十分なだけの所得を維持できるようにすべきである。これは、単に個々の労働者のためというだけではなく、社会を維持するために必要なはずだが、そういった「社会制度の適正化」の努力を日本社会が十分に行ってきたとは言い難い。そういった分野の一つが大学の、専業化された非常勤講師である。
理工系の若手ポストが「ポスドク」によって提供されてきたように、人文系は非常勤講師によって提供されてきた。しかし、この環境も年々悪化しているように思われる。そもそも、制度的な前提としては大学の「非常勤講師」は例外的な存在であった。大学設置基準は大学の授業が選任の教員によって提供されることを求めている。しかし、例えば特殊な分野で、その分野の講義を複数必要とするわけではない場合や、まだごく少ない研究者しかその分野について十分に理解できていないような先端分野について学生に学ばせたい、といった場合に、他の大学から教員を読んで講義してもらう、ということがまず想定される。非常勤講師の謝金は、九十分の授業を毎週提供して、月額3万円前後である(地域、大学間でだいぶ違いはある)。これは、生活を支えるには大変厳しいが元々は他の大学の教員に対する「お車代」的な意味合いだったとすれば悪くない金額であろう。ところが、徐々に常設の、本来大学設置基準が常勤を求めているような講義まで、非常勤で賄われることも増えてきて、大学によっては非常勤講師がなければ十分な授業数を提供できないといった事態に立ち至っている。一方同時に、まだ就職していない博士課程の院生やオーバードクターの「修行」の場としても、非常勤が位置付けられるようになってもきた。一つには、多くの常勤教員公募は「教歴」を求めるのに対して、院生だけを続けていたのでは教歴はつかない、ということが挙げられる。
例えばアメリカの大学では、一つの講義に対して潤沢なティーチング・アシスタントが設定され、これは教育職の一種とみなされる。しかし、日本の大学では同じTAと呼ばれるものは最低時給近くのアルバイトの一種であり、多くの場合業務として直接学部生の教育に携わるものではない。これは、経済的にだけではなく、教育職の養成プロセスとしても問題がある。ある日「非常勤講師」に任命された若い研究者は、特に教育方法の訓練をされることもなく、いきなりその単位について全ての責任を持つことになるからである。また、近年大学はファカルティ・ディベロップメントとして、より良い授業を提供するための講座などを所属教員に提供しているが、これは非常勤講師は対象外である(参加を拒まないところはあるかも知れないが、多くが週一回90分しか大学に拘束されない契約の非常勤講師を参加させることは難しい)。しかし、熟練の専任教授(とも限らないというツッコミは置くとして)たちがファカルティ・ディベロップメントを受けられる(/ 受けさせられる)一方で、授業経験のない若手にはその機会がないというのは、「より良い授業を学生に提供する」という趣旨からすると、矛盾があると言えなくもない。
また、非常勤講師の負担も「単位の実質化」という国策上の要請によって上がっている。かつての大学のイメージというのは、教員は遅れてやって来て、終了時間だいぶ前に終わり、基本的には喋りっぱなしの講義が15回続き、最後にテストないしレポート一発で成績が決まる、というものであろう。しかし、近年は予習復習が求められたり、アクティヴ・ラーニング的要素が求められたり、あるいは成績についても公平を期するために期末テスト一発ではなく、授業中の課題などを加味してつけるように求められている。これらの「実質化」に対応しようとすれば、当然講義負担も上がるが、もちろんそれに対応して支払いが増えるというわけではない。
そもそも論で言えば、非常勤で払われているものはなんだろうか? 例えば、常勤であれば維持される研究室や専門書(実際は書籍というよりも、書籍を格納する書架スペースの負担が大きいわけだが)などの経費は、一種の「間接経費」で支払われるべきであろう。また、これは例えば自動車メーカーの派遣労働者などにも言えることだが、失業リスクは正規雇用より大きいわけで、そのリスクの少なくともある程度の部分をリスク・プレミアムという形で企業が負担しないとすれば、これは搾取である。その意味で、一般論として継続の見込みがない職は、ある職よりもだいぶと高額の給与が給付されて初めて「同一労働同一賃金」と言える。
また、「52歳大学非常勤講師「年収200万円」の不条理: 正規の「専任教員」との給与格差は5倍だ」という記事の"専任教授と非常勤講師が同じく週4コマの授業を担当した場合、年収に10倍近い開きが出ることも明らかになった"という表現に対して、「専任教員は授業だけしていればいいわけじゃない」という反発が上がったことがある。一般論として大学の職は「教育、研究、校務」の三つに分けることができるだろう。欧米の契約ではこれらの比率が示されることが多いと思うが、日本ではこのあたりは曖昧である。確かに、非常勤講師が校務を担うことは基本的にない(入試業務をロハで手伝わされた、みたいな噂を聞くことはあるが、これはどちらかというとパワハラ問題であって、ちょっと別に考える必要がある)。しかし、研究に関しては「教育と研究の一致」というフンボルト理念が容易に放棄されるという状況は驚きであり、危険だと警告を発せざるを得ない。政府は「実務家教員」の比率を上げるように大学に圧力をかけているが、これを拒否するべき最大の理由はフンボルト理念であり、それがなければ大学は専門学校と変わるところはない、ということになる。私も非常勤講師を請け負っているわけで、「研究者」としてはお世辞にも立派な業績とは言えないであろうが、それでも「なにがしか研究に関わっている」という事実がなければ、基本的には非常勤講師の依頼は来ないであろう(と、少なくとも私は理解している)。専任教員であれば研究は給与の一部を形成する一方、非常勤講師であれば研究をする義務はあるが、それはどこからも払われる必要はない、というロジックは、自然とは言い難いであろう。(おそらく、これは現行の非常勤講師制度ができた頃は、そもそも法の立て付けとしては専任教員であっても研究そのものはデューティではなく、政府はあくまで教育に対して給与を払い、研究は余剰の時間にヴォランティアとして行うものである、という理解があったことに起因するだろう。しかし、現在では研究もエフォートを管理する時代であり、そこに整合性のあるシステム変更が求められるであろう)。
こうしたことを整理すれば、例えば各大学がアド・ホックに非常勤講師を雇うことをやめて、連合(大学の規模に応じて出資し)で「非常勤講師派遣センター」のようなものを作り、そこで雇用した「講師」の中から各大学が講義を招聘できるようにする、といった方法が考えられると思う。こうした方法なら、講師個人が不安定化のコストを一方的に負担させられるといったことは避けられる。
3. NPOセクターのキャリアパス
次に、1990年代後半から、社会のもう一つのセクターが注目を集められ、振興策が様々に練られてきた。NPOなどが担う、非営利セクターである。もちろん、この領域には様々な人材が参入するが、海外の事例を見ると、大学院の拡充と深く結びついていることが見て取れる。つまり、比較的少ない人材や予算で、政府と企業が効率的に提供できないが必要とされている、多様なサービスを発見し、それを効率よく提供する道を探し出す、ということが必要となっている。そのために、例えばある程度現場で働いたことのある人材が、そこで経験した問題について考えるために大学院に進学し、専門家のアドバイスや研究予算といったサポートを受けつつ研究し、NPOなどを起業して現場に戻る、といったサイクルが必要だ、と考えられていた。
また、そういった社会を効率的に機能させるために、政治家の政策提言能力も底上げされる必要もあるという議論もあった。例えば1993年に導入された国会議員政策担当秘書の国家資格などは、弁護士資格などのほか、博士号を持っていると学科試験が免除されるなど、高度専門家の受け入れ先としても想定されている。これらはもちろん、いわゆる「人文学」だけの問題でななく、例えば経営学であったり、あるいは理工系の知識を持った人の受け入れ先としても想定されているだろう。しかし、価値を扱う領域ということで、人文学の占めうるシェアは、相対的に高いはずである。
しかしながら、他国のようにはこの領域は機能しているとは言い難い。依然として、NPOセクターは「有閑階級や暇な学生のヴォランティア」であり、またそうあるべきだと見なされている。議員秘書の重要な仕事は、論文を精査して、国際経済や環境問題の問題点を論じることよりも、地域回りや陳情の対応である。社会が変わらないから「価値をめぐる知的生産」の領域を扱う職業の地位が(少なくともそれでそこそこ食える程度には)上がらないのか、そういった職業の地位が低いから社会が変われないのか、そのあたりは定かではないが、何れにしてもこの公共セクターの拡充という面で、日本が立ち遅れていることは否定し難いだろう。
4. 産業と倫理・価値
基本的には人文学は資本主義経済と必ずしも相性が良くない。例えば、バイオテクノロジーの研究であれば、利用価値のたかそうな物質や機能に辺りをつけ、研究費(投資)を集め、それによって獲得された機材や人材を使って目標に近づいていく。これは企業であっても大学であっても大きく変わるものではない。研究のフレームは原則として功利主義的であり、比較的「資本主義の精神」と馴染みがいいのである。しかし、哲学や、あるいは理論物理学などにもある程度妥当するが、一部の分野にとっては、こういった功利主義は発想を貧しくするものであり、忌避の対象であることがある。これらの分野はよりギリシャ的な「暇」としての学問を継承していたり、あるいはカトリック神学に近い面があるのである。生物学、統計や ITの知識はもちろん努力すればフォローできるだろう。しかし、案外とこういったところが、人文学が企業と馴染まない根源的な理由であり、企業側も漠然とそういったことを感じ取っているのではないか、という気もしなくはない。しかし、ではそういった人文学は有用な形で機能していなかったのかというと、もう少し別の形で機能していたのだ、というのが「高校教師や、司書、学芸員といった"啓蒙の尖兵"としての人文学研究者」ということになろう。
とはいえ、人文学が全く資本主義の中で機能しないわけではない。例えばコンテンツ・ビジネスは歴史学などの成果に大きく依存している。歴史研究がなければ『タイタニック』や『グラディエーター』などの映画は、荒唐無稽に見えるものにしかならないだろう。とはいっても、第一にコンテンツビジネスから歴史学が「費用」を回収するのは難しい。大半の作家は、歴史書を読んで想像を膨らませるだろうが、そこから歴史学者に入るお金(主に印税)はたかが知れたものである。作品を丹念に作りたい、比較的裕福な作り手は、若い歴史学者を一定期間雇って、自分の作品が歴史的事実という観点からみてどの程度正確かを調査させるかも知れない。これは大きな実入りになりうるだろうが、全ての作り手がやるというわけでもない。
また、理工系の作品は、例えば洗濯機や抗がん剤のような製品になるとする。研究者や技術者にとって、この製品を純粋に愛し、耽溺してくれることは多くの場合喜ばしいことであっても、嘆くべき要素はない。しかし、「価値」を主に扱う分野はちょっと事情が違う。消費者が坂本龍馬を愛し、その「影響」を課題に見積もることがあった場合、坂本龍馬(あるいは日本近代史一般)の研究者は、それが不正確であり、学問的手続きにのっとらず、またある意味で(例えばナショナリズムを呼び込むなど)危険なことでもある、と主張しなければいけない。自分の生産物を愛してもらうことと、場合によってはそれに苦言を呈し、消費者の不興を買わなければいけない、という緊張感は(理工系でもないわけではないにせよ)人文学者は特に注意を必要とするだろう。
パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちた事件では、有名なゲーム制作会社である Ubisoft が、自社の作品である『アサシンズ・クリード』の作成のためにノートルダム寺院の詳細なデータを取得、それによってゲーム中に大聖堂を再現させており、このデータを再建のために供出する用意があると申し出た。これなどは、もちろん計測技術の進歩や、それを元に3Dで寺院を再現することに消費者の手元のコンピューターが耐えるようになったという意味では極めて理系的な話であるが、一方で「ノートルダム寺院が歴史的、美術的に極めて高い価値を持っており、お金を出してそれを精密に再現することは、コンシューマーを喜ばせる」という決定がゲーム会社の中で行われている、という点において興味深い。例えば、半額だが安っぽい近世パリが再現されている『アサシンズ・クリード』と、現在のパソコンで可能な限り最高のクオリティの『アサシンズ・クリード』と、どちらを消費者が望むか、また日本の企業にそういった選択ができるか、ということは考えたほうがいいだろう。
コンテンツ・ビジネスという面では、昨今の映画会社(特に子ども向けの映画を製作している会社)は、ジェンダーバイアスや文化的多様性といった問題に極めて敏感であるように思われる。かつてはディズニー映画といえば男性中心主義とヨーロッパ中心主義の権化だと見られていたが、特に『ファインディング・ニモ』以降、そういったことには極めて慎重に配慮された作品が多く作成されている。もちろん、「気をつけるぞ」と決めただけで地雷を踏まないというわけにはいかないので、これらの会社はおそらく倫理学者や文化人類学者にそれなりに払っていると思われる。もちろん個々の研究者に支払われるお金は映画の全制作費からすれば微々たるものかも知れないが、そのコンサルティングを受け、場合によっては製作が巻き戻され、やり直されるかも知れないということであれば、映画会社にとってもかなりの負担であろう。
しかし一方で、日本では女性やマイノリティを蔑視しているとして、度々問題が発生している。SNS社会であり、これまでは少数の個人が脅威や不快感を感じても我慢するしかなかったのが問題にしやすくなったという面はある。一方で、制作会社が「バズる」効果を狙って、より悪目立ちするようにコンテンツを作りがちである、ということもあるだろう。そうした中で、世界の雰囲気がよりギスギスしている面もあるとすれば問題であろう。日本でも、倫理的なコンサルテーションを提供する会社ができれば、人文系の研究者の有力な職業になるかも知れない。しかし、一方で「倫理」は日本では軽視されており、ますます軽視されるようになっているように思われる。また、仮にそういった風潮が根付いたとしても「バズりたい」コンテンツ制作会社と人文系研究者の間の緊張関係が発生するだろうことは容易に想像がつく。そんな中で法的根拠がある監査法人ですら企業に十分に物申せないという状況がある中で、果たして十分な成果が出せるかは疑問も残る。
5. 結論
何れにしても
・地域における人文学
・非常勤講師の問題
・NPOセクターのキャリアパス
・産業と倫理・価値
の四つの領域に置いて、いずれも日本社会が問題を抱えているということを概観した。これらは人文学の専門家の苦境の、原因の一部分を形成していると同時に、日本社会として取り組むべき問題でもある。特に、「払われない人件費(と間接経費・リスクプレミアム)」の問題は、他の領域も含めて、日本社会が喫緊に是正していくべき問題であろう。氷河期世代の救済、という議論が時々(大体は選挙前だけ)盛り上がるが、まずこれらの「シャドー・エコノミー」化している仕事を可視化すると、本当に支援すべき領域というのが見えてくるのではないか。
すでに常勤職にある大学教員についても、こういった可視化の努力は可能であり、また多少の道義的義務はあるだろう。中曽根・小泉改革でまず非正規化が進められたのは、直近の人件費削減もさることながら、非正規化して分断することによって労働争議が困難になることが期待されたからである。逆に言えば、正規労働者は、フランスの大学で行われたような、ある種の組織的抵抗を担う義務があるだろう。またそういった姿を見せることが、学生たちへの最大の教育でもあると思う。また、専門領域にこもらずに、我々人類が抱えた問題について、アカデミズムの外部の人と積極的にコミュニケーションするといった努力も求められるだろう。
そういった先に、「公共的なもの」「人文的なもの」が復権し、機能する余地は十分にあるし、そういった形でしか人文学は社会に貢献しないであろう。
追記:
続き的なもの書きました。
・なぜ人文・社会系博士を増やさないといけないと考えられたか、について
関連記事:
・人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?
・人文学/人間性の危機とイノベーションの神学
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