神なき時代の人間の倫理は、大抵の場合、ベンサム的な功利主義とカント的な義務論の二つの原理のどちらかに基づいていて、現実の人間はその二つに、自分に有利かどうかや常識的・文化的な臆見を適当に混ぜ合わせたもので倫理的な判断をしている。
ところが、ある種の状況を想定すると、功利主義も義務論もバグって適切な答え(と思われるもの)を出してくれない。
(あるいは、著しく直感に反した回答が出てくる)
その事例として使われるのがトロッコ問題。
だから、その限界も踏まえた上できちんと二つの哲学原則を運用できるようにならんといけなくて、そのためには哲学史をきちんと勉強する必要があるよね、と言う前振りに使われる。
一種のパラドクスであるわけだから、トロッコ問題に答えは出ないし、答えが出るかも、と思っているうちは哲学の勉強が足らない、と言うことになる。
ところが、ある種の状況を想定すると、功利主義も義務論もバグって適切な答え(と思われるもの)を出してくれない。
(あるいは、著しく直感に反した回答が出てくる)
その事例として使われるのがトロッコ問題。
だから、その限界も踏まえた上できちんと二つの哲学原則を運用できるようにならんといけなくて、そのためには哲学史をきちんと勉強する必要があるよね、と言う前振りに使われる。
一種のパラドクスであるわけだから、トロッコ問題に答えは出ないし、答えが出るかも、と思っているうちは哲学の勉強が足らない、と言うことになる。
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