2015年4月19日日曜日

「被災者(被害者)」の多様性に配慮を払うこと、あるいは二重三重の被害者、ということについて

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【連載・第1回】震災報道で気づいた「放置される性虐待」~若年女性の“見えない傷”と「レジリエンス」

 についたコメントがなんとも辛い。

 一応、連載の三回目まで読んだところで、コメント。

 その地域の多数派(/マジョリティ)が深刻な被害を大規模災害時には、結束が強調され、復興のために大規模な(社会的、経済的、あるいは公的、私的な)支援が展開されるというのは当然のことである。
 その一方で、同じ幸福追求権を持っているはずなのに、ある種の「被害」は社会的に十分な支援が与えられないばかりか、場合によっては(スティグマ化が恐れられる場合)被害者がそれを口にすることすらはばかられる、というケースはある。
 その二種類の落差に気がついたときに、後者の「被害者」(マイナーな被害者)が二つの「被害」の扱いの差に愕然とするということは大いにあり得る。

 また、災害からの復興が結束を強調すること、また政府や地域マジョリティが想定する「一般的、標準的な被災者像」を想定すること、また被災者自身が想定されたやりかたで被害を訴えること(ポスコロ流に言うと「被害者の語りが定型化していくこと」)のなかで、マイナーな被害者(この時点で、しばしばメジャーな災害とマイナーな事件の二つの事象から二重に被害を受けている「被害者」であるかもしれない)に適切な支援は後回しにされたり、被害を訴えても聞き届けられることがない、ということは生じうる。
 あるいは、場合によってはマイナーな被害者の「被害者の語り」は定型化された被害者の語りから外れるため、メディアなどに載りにくいだけならまだしも、それを表明すること自体がマジョリティへの裏切りや攻撃とみなされる、という事象すら生じうる(ここで、「第三の被害」が発生するわけである)。

 特に、セクシャリティに関する事象は、こういった問題を生じがちである。
 こうしたことは、別に日本に限った話ではなく、全世界の災害や紛争などにさいして発生しており、そういった問題に対する研究もそれなりに蓄積されている。

 しかし、残念ながらそういった問題について、日本の行政の反応は全体に鈍いし、社会的にも「多様で異質な語り」に対する抑圧は、そもそも平素から日本社会の大きな問題であるし、対策が十分とは言いがたいように思われる。

 …ということで、当該記事のコメント欄も、そういった問題を立証してしまっているように感じられる。
 もちろん、「著者がそのあたりを十分に説明していない」という批判はあり得るとは思うが、おそらく殆ど全ての人にとって、人生のある局面でこういった問題に直面する機会があったとして、それはもっと(この記事に書かれる以上に)僅かな兆しとしてしか与えられないであろう、ということは考えておきたい。
 つまり、ある、とても遠慮がちな「マイナーな被害者の語り」に直面したときに、我々は「今はもっと大事な問題があるし、みんな頑張ってるんだから、君ももう少しがんばりなよ」みたいなことを言ってはいないか、という反省が必要だ、ということである(もちろん、私自身も現実の問題に直面したときに、あまり繊細には振舞えていないだろうな、という自己反省を込めての提言である)。

 その上で、確かに著者の前振り「地方を、そして日本を本当の意味で活性化させるために必要なものは、何でしょうか。それは、実はとてもシンプルで、若い女性たちのもつ力を最大限活かすこと。(中略)自ずと人口は増え、地方自治体は消滅から再生へと向かうはずです」にこの議論が続くことには若干の違和感を感じざるを得ない。
 こういった問題というのは、定型的に提供される(しばしば家父長的な社会を想定した)福祉国家型の支援と、"若い女性たちのもつ力を最大限活かす"といったネオリベラルな根性論の間に落ち込んでしまった、個々の主体が抱える困難、ということであるように思う。
 その場合、困難を抱えた女性たちがある種の解決策を見つけることと、地方自治体にとって好ましいことが起こることと、もちろん重なる部分は多いであろうが、重なることを前提としたり重なることを求めたりしてはいかんのではないか、という危惧を感じるというのが正直なところである。

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