今年も成人式で暴れる新成人がおり、産經新聞などがうれしそうに批判していた水戸市のケースでは以下のように報道されている(DQNというネットスラングを持ちいて報道する産経さんの方が遥かに品がないと思うが…)。
一部の新成人らがマイクを取り上げ、「おめえがあいさつしてんじゃねえ、このやろー」「なめんじゃねーよ」「みんな、よろしく~」「盛り上がっていこうぜ」などと拡声器で叫びながら、警備員の阻止を振り切ってステージに上がり、妨害行為に出た。
警備員らによって下ろされた後、古谷さんは誓いの言葉を続行し、「僕が話すことが気に入らない方もいると思います。みなさん、しっかりと成人としての自覚をもち、これから社会人としてはばたいていきましょう」と反撃。すると、ステージの下からは「てめーが代表じゃねえ、このやろー」などの罵声が飛んだ。
新成人代表の返しも中々立派だと思うが、「暴れた」側も成人式の代表権やオーナーシップの問題に抗議していて、なかなか立派であると思う。こういった異議申し立ては、問題の重要性や主張の合理性というのは議論されたらよいが、それをするということの重要性においては、例えば若者が安保法制に対して異議申し立てをする、ということと、なんら変わらない訳である。もちろん「荒れる新成人もSEALDSの若者も嫌い」という層もいることであろうが、それは端的にいって「自由からの逃走」であろう。
朝日新聞に掲載された論考の中で、作家中村文則氏が「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言われたという経験を書いている。
もちろん、そもそも反対する権利があるから「反対しない」(/支持する)という「自由意志に基づく決断」が可能になる訳であり、そこを見つめないことは「自由からの逃走」である。
これは、問題になっている議論の重要性とは関わりなく妥当する話である。