前回「声の不在という問題について: パキスタン南西部バルチスタン州地震に思う」の続き。
一度書き始めるともう少し言葉を継ぎたくなり、まぁ、いずれ切りが無くなるのですが、すこし(たぶん、その道の専門家向けの)補足をしておくべきかな、ということで…。
たぶん「カルスタ的な『現地の代弁』とNGOによる『現地の代弁』」は違うのではないか、という論点について検討する必要があるように思う。
たぶんカルスタ的視点は限りなく個別性、特異性が高い事例を扱うのに対して、NGOというのは多少なりと(全てのとは言わないまでも一定の規模の)市民の代弁をするという側面があるからである。
つまり、スピヴァクが有名な「サバルタン」に関して実例として示したブヴァネシュワリ・バドリのケースは、あくまで一回的なものであり、行為主体としてのブヴァネシュワリ自信が慣例と異なる自分を(言葉ではなく身体を使って)歴史に書き記すことを試みることによって第三世界の女性性を規定する「ステレオタイプ」に逆らおうとした事例として書かれている。
一方で、現代の社会運動が取り上げるのは「資本主義の進化」という巨大で一回性のイベントに対して、世界中の無数の「声なき声」からある程度共通に取り出せる問題についてのものである。