2023年12月1日金曜日

国立大学運営方針会議に関する議論について

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

ボツ原稿公開。 



 

まとめ

 

・大規模大学に運営方針会議を設置するという国立大学法人法の改正は中止すべきである。

 

・国際卓越研究大学制度(所謂大学ファンド)のあり方は根本から見直し、一部の大学を優遇するのではなく、個々の研究者が持続的に研究していくことを支援するために予算を投じるべきである。

 

・大学法人法は、理論的には学長の独裁が可能になる、歪な制度設計になっており、この改正は考えるべきである。ただし、それは少人数の運営方針会議の権限によるものではなく、学生、同窓生、地域などの代表が参加できるような、開かれた制度にすべきである(なぜこういった制度設計がされたのかは定かではないが、おそらく「独裁は研究効率を上げる」という間違った前提に基づいている)。

 

・政治的、経済的な介入から学問の自由を守り、好奇心駆動型の基礎研究を可能にすることが国立大学の最大の意義であることを明示化すべきであり、迂遠ではあるがそれこそが科学技術創造立国への最短の道である。

 

・産学連携は現代の大学にとって避けて通れない課題だが、そのためには大学の交渉力強化が必要であり、そのための専門職を雇用することができるような枠組みが求められる。

 

・軍事研究については、大学で行われるべきではなく、株式会社や社団法人などの架橋機関とクロス・アポインティングなどを活用することによって、大学自体が軍事的な要請から自由であるように工夫する必要がある。

 

 

 

 

 

国立大学運営方針会議に関する議論について

 

 

序:今、国立大学の何が問題なのか?

 

 運営方針会議は本来、大学ファンド(国際卓越研究大学制度)からの資金を受ける大学に設置される予定であったが、東北大学しか審査にパスしなかったために、急遽大学ファンドを受けない大学にも導入を決めたようである。

 そこから推測されるのは、東北大学が目指した方向性が、国の想定に適っており、また運営方針会議を通じて他の大規模大学にも類似の方針を採用させることで大学ファンドの採択に至らせよう、ということではないか。

 しかし、東北大学が掲げた方向性には多くの問題があり、多くの国立大学の一つが冒険的に採用するならば兎も角として、日本の基幹的な役割を担う複数の国立大学がこぞってその方向に動く可能性があることには、大きな問題があると言わざるを得ない。

 せっかく「東北大学一校だけ」という結果になったのであるから、残りの予算は根本から制度設計をやり直し、より幅広く大学を支援する制度に切り替えるのが有効なのではないか。

 

 この問題を考える上で、なぜ大学には「学問の自由」が認められており、政府は大学の方針に対して極力介入を避けるべきというコンセンサスが、歴史的に形成されてきたのかということを理解する必要がある。

 「学問の自由」とは、別に「好き勝手やって良い」という意味ではなく、研究者には職業上の倫理があり、この倫理的拘束に従った上で、内心の自由と知的探究心のみが研究活動を律することができるし、律するべきだ、ということである。

 この倫理を、20世紀を代表する米国の社会学者であるロバート・マートンは四つの原則にまとめている。

 すなわち(1)普遍主義、(2)公有主義、(3)利害の超越、(4)系統的な懐疑主義である。

 なぜこういった原理原則が提示されたかは本項の全体を見ていただきたいが、詳しく見るまでもなく、それぞれは「稼げる大学」とも資本主義そのものとも相性が悪そうだということは見て取れるだろう(ここで「公有主義」と訳しているのは原文では Communism / 共産主義、である。もちろん科学の主眼は「産出すること」ではないので、ここでは公有主義という翻訳を採用するが、要するに科学的な成果は誰かが独占するのではなく、広く共有されるということである。この言葉が利用されたことからもわかる通り、戦前の米国では共産主義という言葉は今ほど否定的には受け取られなかったわけだが、戦後のアメリカ社会ではこの拒否反応が強くなったせいで、現在ではマートンの規範を紹介する文章の多くがここを、Communalism という言葉に言い換えている。どちらの用語を採用するかに関わらず、科学研究というのは、本質的に私的所有と相性が悪いということは認識される必要があるだろう)。

 

 これらの規範に内発的に従う自由(という言葉が分かりにくければ、ここでは自発性とか自律性とか言い換えても良い)こそが、特に基礎研究について重要である、という点を説明したい。

 


2023年2月13日月曜日

同性婚とインセストから現代の結婚に求められるものを考える

このエントリーをはてなブックマークに追加


 同性婚の法制化を求める声が大きくなっている。それに対して反発が広がり、「そもそも結婚は生殖(あるいは出産)のためにあるのであり、出産しないカップルに結婚による法的利益を提供する必要はない」とか「同性婚を許容するなら兄弟姉妹の結婚も許されるべきではないか」といった議論も飛び出した。後者に関しては特に、牽強付会と言っても構わないと思われるが、なぜそのような錯誤が生じるのかも含めて、もう一度「婚姻」と「再生産(子どもをつくること)」の関係を考え直してもいいかもしれない。本稿で述べる論点をまとめるなら、以下のようになる。この三つに違和感を感じない方は、最終節だけ読んでいただいても構わないと思う。そうでない方は、少し長くなるが全文にお付き合いいただければ幸いである。


(1)婚姻は生殖のためにあるのではないし、人類のインセスト・タブーは生物学的(優生学的)根拠に基づくものではない

(2)日本文化のインセスト・タブーは極めて弱い。また、世界的にみて、法律上の近親結婚禁止は範囲縮小の方向に動いているし、今後も一般論としてはそうなるだろう。

(3)人類文化にとって「婚姻」の社会的機能はコミュニティの構築/整理だし、その部分は現在も変わっていない(また変わらないだろう)。ただし大家族性をベースにした伝統的コミュニティから、個人の意思を基盤にしたコミュニティに移行しているという違いはある。

 (なお、本稿では性別を問わず兄弟姉妹を示したい場合は「キョウダイ」と記述する)