2016年12月1日木曜日

NHK報道 「 原発事故と向き合う高校生 」への疑問: あるいはリスク・コミュニケーション教育はどうあるべきか、について

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 NHKのおはよう日本という番組で「原発事故と向き合う高校生」という特集があったようである。福島高校スーパーサイエンス部の生徒たちが福島第一原発の様子を見学したりする様子が扱われた。これは、NHKのページで確認することができ、また YouTubeにも映像が上がっている(後者に関しては、おそらく著作権法上の問題があるものだと思われる)。
 見ると、様々な疑問が湧いてくる報道である。
 特にその中で地元の幼稚園の保護者に、高校生が遠足のリスクについて説明するシーンが出てくるが、この部分には報道だけでは十分に判断できないが、大きな問題があったように見える。

 これは、この会合が、
・なにを目的にしたものであったろうか?(つまり、会合の目的はインフォームド・コンセントなのか、パブリック・アクセプタンスなのか?)
・その目的は、参加者に十分に周知され、またその意味するところについて(それに必要な準備について)、高校生は十分に指導を受けていたのだろうか?
・これを報道する意味は(特に、高校生と保護者の間の感情の対立を報道する意味は)十分に検討され、それは報道される側の理解を得ていたのだろうか?
 といったことが、十分に説明されていない点からくる疑問である。

 以下に、そのことについて論じるが、まず当該のやり取りをNHKのサイトから引用すると、次のようなものであった(可能であれば映像を確かめてほしい)。

 

今年(2016年)5月、法井さんたちは街の中心部にあり、市民に親しまれてきた信夫山を訪れました。
震災直後に、基準を超える放射線量が観測され、山の中にある公園は一時、利用が制限されていました。
法井さんたちは、線量がその後どうなったのか調べました。

「0.254マイクロシーベルト/h。」

集めたデータは、地元の幼稚園で報告しました。
震災以来、中止されていた信夫山への遠足を再開すべきか、保護者たちが迷っていると聞いたからです。
法井さんたちは、自分たちで測った線量を示しながら、専門家の意見も交え、遠足を再開しても大丈夫だと説明しました。
しかし、保護者から飛び出したのは思いがけない質問でした。

保護者「自分に子どもができたとして、行かせたいと思いますか?」

法井さんにとって、信夫山は特別な場所でした。
毎年春になると、家族や友だちと一緒に登っていました。
それが今も「危ない」という声が根強く残り、遠足が実現しないことに悔しさがこみ上げてきたのです。

法井美空さん
「これ(遠足)がないと春が始まらないくらい、自分にとっては大きな機会で。
今しか子どもと親が一緒に山に登ることは、自分は今、高校生になってから親と信夫山に登ろうという気にならないので、今しかできない大事な経験だと思う。
だから復活してほしい。」


 高校生はショックを受けたと説明されているが、「自分の子どもにもさせたいと思いますか?」というのは、リスク・コミュニケーションの現場でリスクを引き受けるかどうかの選択を迫られている側から、リスクの性質と大きさを説明する「専門家」や当局者(政府や企業など、リスク要因を伴う事業実施の責任者)に対して必ず提起されると言ってもいいぐらいありふれた質問である。
 これを予想していなかったとすれば、これはこの「保護者への報告会」を指導した指導者(その責任が報道に登場した早野龍五教授らに帰するべきか、当該高校の先生に帰するべきか、あるいはその他の第三者に帰するべきかについては、私は情報を持たない)に大きな責任のある大問題だというべきであろう。

 また、穿った見方をすれば、この「行かせたい(リスクが小さいと判断している)高校生」対「(リスクを大きいと判断している)保護者」という対立構図を予想しており、またそれを全国に報道させたいからわざわざ報道を入れてこの説明会を実施させたかのようにも思われる。
 なぜなら、「官僚対保護者」であれば、内容如何に関わらず視聴者の相当割合が保護者に同情的になるであろうことが、もし「高校生対保護者」であれば、保護者に同情的な視聴者の一定数が「熱心に調べてくれたのにわがままを言って」といったような形で「高校生」への同情にポジションを移す可能性が想定しうるからである。
 これは、「人々がリスクを小さめに評価すること」から利益を得るであろう政府・東電に有利な立場、ということになる(福島に住む人々に利するか、ということに関しては「それは人によるだろう」ということになろう)。

 この政治性に自覚的に高校生がリスク・コミュニケーションを担うというのであれば、それを全否定することはできないかもしれないが、番組の中では「自分の子供に行かせたいか」という問いかけに驚き、動揺する様子が映されており、こういった「説明」は指導者の側から適切になされていなかったことが予想される(この点も、自明なことをなぜ「わざわざ」説明しなかったのか、というところに作為を疑われても仕方がないであろう)。
 なぜ高校生が幼稚園児の保護者(以下、保護者)にリスクを説明する必要があったのか、またその説明会の制度設計に問題はなかったのか(特にメディアを入れることに問題がなかったのか)検証されるべきであろう。

 そもそも、こういったリスクに関わる専門家と素人の間のコミュニケーションはどうあるべきだろうか?
 そもそも、科学的な「事実判断(事実命題)」からは「価値判断」は導き出せないのであり、価値判断に先行するのは常に価値判断である。
 もちろん、当為命題(べき論)の条件節として、事実命題が付属することはある。例えば「明日晴れていたらサッカーをしにいきたい」という命題は、「サッカーをしにいきたい」という価値判断に、「明日晴れていたら」という条件節がついている。
 「サッカーをしに行きたい」という命題の真偽は、いかなる科学的な事実とも関連を持たないが、「晴れている/雨が降っている」というのは真偽値が決定できる事実命題だとみなすことができよう。

 したがって、「線量が低いのであれば、(幼稚園児とその保護者が)遠足に行くべきだ」という命題はあくまで「条件節を伴う価値判断」であり、それ自体の真偽値は科学的には決められない。
 そこで、論理的な吟味に耐えるためには、例えば議論を次のように分解することが必要である。

仮定1) 条件Aの場合に、幼稚園児とその保護者は遠足に[行きたい / いくべきである]。(←当為命題)

仮定2) 条件Bと条件Aは実質的に同等である。(←事実命題)

結論) 条件Bであっても、幼稚園児とその保護者は遠足に[行きたい / いくべきである]。(←当為命題)

 この枠組みは、比較的多くのリスク・コミュニケーションで共通に見られるが、こうして三段論法の形式に分解すれば、事実判断が価値判断を導くという誤謬なしに、状況を分析することが可能になる。

 次に、仮定1と仮定2が適切であるかどうか、調べる必要がある。
 仮定1は当為命題(価値判断)であるため、真であるかの判断を科学的に行うことはできないが、仮定2は科学的であるように見える。
 ただし、「実質的に同等」というのは、「完全に同等」という意味ではないことも事実である。
 つまり、この場合は「震災前の目的地の環境、特に放射線量」と「震災後のそれ」ということになるが、広く浅く拡散した放射性物質が、今後少なくとも数十年にわたって、完全に消えて無くなることはありえない以上「完全に同等ではない」という意見は不自然なものではない。

 もちろん、その違いは無視可能な程度である、という立論も成立する。
 無視可能かどうか、というのは実際は主観的な問題であり、現実の問題としては仮定1へのコミットメントの強さによって、どの程度が無視できるか、ということは決まってくる。
 つまり、「当該目的地に、どうしても遠足に行きたい/行くべきだ」という信念が強ければ、条件AとBの違いは些細なものになるだろうし、条件Aにさほどの思い入れがなければ、条件ABのちょっとした差異でも結論を棄却するほうがよい、ということになる。
 そういう意味で、実質的同等性というのは、事実判断であると同時に、多分に価値判断的要素を持つ(ここで言っているのは、価値判断だから無意味だとか、棄却されるべきということでは、もちろんない)。

 そういった中で、ある人の行動に対する、リスクの専門家の役割というのは、価値判断を代わりに行ってあげることではなく、あくまで事実命題の強度に関する助言にとどまるべきである、というのが一般的な理解である。
 もちろん、そうではなくて、専門家が全てを判断したほうが世界はうまくいく、という(一般にはテクノクラシー/専門家支配)と呼ばれる政治信条と政治体制を支持する立場もないわけではないが、少なくとも現行の民主政治はそれを前提としていない。
 したがって、「専門家」の適切な役割というのは「条件ABの同等性は、かなりの程度まで確かである」ということを、なるべく計量的な証拠とともに示すことであり、仮定1の価値判断に踏み込むべきところではない。

 そして、高校生は参加者から「自分の子供に行かせたいか」という質問を受ける。
 この質問は、ほぼありとあらゆるリスク・コミュニケーションの現場で発せられる質問であり、こういった質問が想定問答の中に入っていなかったら指導者の意図か能力のどちらか(ないし両方)を疑うレベルである。
 ただ、この質問の意図するところ(オースティンのいう行為遂行的発話としての意味内容)は、常に一緒とは限らず、文章の簡単さとは逆に、常に明らかというわけでもない。
 もっとも重要な点は、これは当事者性の問であるというふうに理解することができるし、すべきでもあるということである。
 つまり、子どもになにかあったときに、感情的な打撃を受け、その子どものケアに責任を取るのは、一にも二にも保護者(親権者)である。
 放射線の被害は、可能性が極めて低いとしても、ガンなどのありふれた病気として現れることが多く、仮にガンになった場合、因果関係がある可能性が極めて低くても、子どもを被爆させた親は長期に悩むかもしれない。
 もちろん、可能性が低いことにはくよくよと悩まない親もいるであろう。どちらが悪いということではない。
 そういったことまでふくめて、どういった道を選ぶかは、まさに「親権」の範疇だ、ということであり、「自分の子供に行かせたいか」という質問は、まさにそのアイディンティティを確認する、アイディンティティ・ポリティクスの一種であるとみなすこともできよう。

 さて、番組中の高校生は、こういった構造を実はきちんと読み解いているように見える。
 また仮定2の「実質的同等性」の「同等性」を科学的、計量的な根拠をもとに高めても結論の強化につながらないと(戦略的にか、直感的にか)考えたのであろう。
 そこで、「これ(遠足)がないと春が始まらないくらい、自分にとっては大きな機会で」という言い方で、仮定1への感情的なコミットメントを強めてもらうタイプの説得に出たのであろう。
 これは、およそ中立的とは言い難いが、リスク・コミュニケーションの目的がリスクと便益を理解してもらった上で決断してもらうこと(インフォームド・コンセント)ではなく、すでに行われた決定の受容(パブリック・アクセプタンス)だというのであれば、おそらく効果的な手法であったとも考えられる。
 ただし、現代的なリスク・コミュニケーションの文脈では、目的はあくまでインフォームド・コンセントであるべきであり、パブリック・アクセプタンスではない、ということがきちんと認識されていたか(高校生というよりは、その指導者に)確認したいところである。

 決定権をきちんと保護者に委ねる容易があったのであれば、科学的な説明の後にディスカッションの機会を設けて、疑問点を出し合うことや行かせたい親にも行かせたくない親にも負担のない形での決定を支援することを考えるべきだったであろう。
 また、当然のことながら、こういった態度決定は、極めて私的で、微妙なものとなる。
 その場所にテレビカメラがあることで、発言を躊躇う人もいるであろう。
 そういった意味で、熟議の阻害要因にもなるのであり、報道のカメラを入れるという決断は、果たして適当なものだったのか(撮影の合意はどの程度あったのか?)、メディアも含めて反省する必要があるのではないだろうか?