2016年12月13日火曜日

ポリティカル・コレクトネスと文化相対主義

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為末大さんの

という発言が批判を読んでいるようである。
 もちろん、私もまったくこの見解に同意できない。
 ポリティカル・コレクトではない、と非難されるような発言は通常、ステレオタイプを押し付けたり誰かを社会的に排除したりといったときに使われるものだからである。
しかし、しばらく後に為末氏は以下のように発言している。

 であれば、これは要するに「文明社会が想定する正義と、文化的な多様性はコンフリクトを起こすことがあるのではないか?」という問いであり、これならば広く知られ、かつ熟慮を要する問いである。


 とはいえ、この問いは「文化相対主義と社会正義の問題」として(哲学者や文化人類学者などのあいだで)広く議論され、様々な異論はあるものの、一定の範囲での合意を見ているといってよい。



まず、前提として「ポリティカル・コレクトネス」は一般に、右派が左派を揶揄するときの言葉であるということを確認したい。
 「コレクトネス」という英単語は、一般に「唯一の正解があるような問題の正解」であるときに使う。
 例えば、ヴェトナム戦争の終結は何年でしょう、という歴史のテストがあったとすれば、コレクトな正解は1975年というものであろう。
 一方で、ヴェトナム戦争に関わった人々がそれぞれに感じていた戦争の位置付けや大義といった問題は、「コレクトネス」ではなく、英単語としてはフェアネスやジャスティスの問題である。
 ジャスティス(正義の女神)がしばしば天秤を持った姿で表されるように、これらは「唯一の正解がある」というよりも、様々な要素を慎重に天秤にかけていき、バランスを図っていくべき問題であり、これを社会的に共有するプロセスを「熟議」といったりする。


 右派がこういった問題を「ポリティカル・コレクト」というときには、こういった「熟議」の「拒否」が意図されている。
 言い換えれば、「ジャスティス」の問題を「コレクトネス」の問題に読み替えるというのは、左派に対して「教科書的な正しさにこだわる優等生的偏狭さ」というラベリングを試みる、ということでもある(ということで、左派は「ポリティカル・コレクトネス」というラベリングは拒否したほうがいいのかもしれないが、ここまで人口に膾炙した表現を丸のまま拒否するというのも難しいので、言葉としては受け入れつつ、地道に問題を説明していく努力がなされることが好ましいであろう)。


そのため、我々は文化的多様性の問題は、コレクトネスではなく「社会的正義(Social Justice)」との関連において吟味していかなければならない。
 この議論において、よく事例に出されるのは、FGM(女性器切除ないし女子割礼)の問題である。
 女性器切除はアフリカや中東においてみられる風習で、子どものうちに女性器(の一部)を切除する手術であり、危険性も高く、医学的メリットもまったくないため、現在の理解では女性差別であり児童虐待である、と考えられている。
 男性器の包皮を切除する手術はもう少し広い範囲に見られるが、これは(劣悪な環境で行われればリスクはあるものふぇmの)性病の感染を抑えるなど一定の医学的メリットも見られるため、一概に否定できないと考えられている。
 そのため、かつては「女子割礼」という名称が一般的であったが、男女の区別を明確にするため、現在ではFGM(女性器切除)という名称を使うことが一般的である。


これに対して、広く反対の論陣を張ったのが、『カラー・パープル』などで知られる作家アリス・ウォーカーである。
 ウォーカーはアメリカ国籍を持つ黒人女性であり、おそらくそのことがFGMについて一種の当事者性を持っている、と自他共に認識していたと思われる。
 しかし、アフリカや中東地域の人々はそうは捉えず、むしろこれをアメリカからの文化的侵略であると捉えた。
 そのため、一部で進んでいた進んでいた禁止法案の策定などは右派の巻き返しで後退した。
 FGM反対の声をあげていたフェミニストには「帝国主義の手先」というレッテルが貼られ、またそれら第三世界のフェミニストたち自身からもアリス・ウォーカーの主張が、FGMを受けいている女性が主体性も知性もない従属的な存在と描かれていることへの批判の声が上がった。


こうしたことから西洋社会の考える正義を押し付けることは、少なくとも当事者の尊厳を傷つけ、社会を硬直化してしまうという意味で「逆効果である」ということは認識されてきている。
 そうではなくて、徐々に女性や様々なマイノリティといった抑圧された層のエンパワーメントを進め、そのひとたち自身が社会を変革していく力を養っていけるようにすること、またある種の文化的な権力構造から独立して人々が日々の生活を維持できる手段を提供することなどが、迂遠なようでいて問題解決の近道である、ということである。


同様に、しばらく前に「マイクロ・アグレッション」(日常生活の中で発生する、弱い差別的言説)についても、マイクロ・アグレッション概念を提示している側は、なにが社会的排除をもたらし、どうすればより包摂的な社会をつくるか、という熟議を行う必要性を提示している。
 こういった概念の吟味は、我々「社会のマジョリティ」が無自覚のうちに囚われている偏見を洗い出し、社会を問い直すことを可能にするという意味で、単に差別対象であるマイノリティの利益だけではなく、「社会全体の包括性を向上させる」という意味で社会全体の利益になるはずである。
 ところが、これが「コレクトネス」の問題として提示されている、と解釈する右派のフレームは、この「熟議からの逃走」(すなわち言論という「自由」からの逃走)である、ということである。


とはいえ、その社会の中で「放言の自由」を行使しているマジョリティ側にとって、自分の放言について一々熟議を要求されるというのも疲れる問題であるというのも理解はできる。
 そのため、ある程度社会的合意が取れた問題は正解のある「コレクトネス」の領域で処理してしまうというのもまったく間違っているとは言いがたいわけだが、「ポリティカル・コレクトネス」を批判する側はこういった正しさの問題として問題を定位した上で、それを批判しているわけである。
 こうしたダブル・バインドは到底受け入れられない、ということは主張されなければいけない。