ラベル 大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年12月21日水曜日

教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある (奨学金問題雑感 その1)

このエントリーをはてなブックマークに追加
給付奨学金について「貧乏でも幸せはある」といっためちゃくちゃな批判も問題だが、「大学に行くことが貧困から脱出する道である」という議論をその批判に当てることも若干の問題がある。
 もちろん、受け手(生徒)の利益になるようなインセンティヴがなければ中々続かないのも確かなので、大学進学の経済的メリットは考える必要があるし、あまりに不利益が大きければ大学という制度そのものが持続的ではなくなるだろう。

しかし、(過去、国際社会に教育の無償化を促された日本政府が度々そう抗弁してきたように)もし教育が生徒の利益のために行われるのであれば、大学教育などは完全に営利企業の手に任せればよいだろうし、そのほうが保護産業として行うよりも高い効率を収めるかもしれない。


2015年6月13日土曜日

人文学/人間性の危機とイノベーションの神学

このエントリーをはてなブックマークに追加

国立大学法人評価委員会の答申として、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院について」「組織の廃止や社会的要請の高い分野 への転換」が求められたということと、その際に人文学とはどうあるべきかという議論が抜けているということを、過去二回にわたって書いた。

国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話
人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?
ここでは、もう少し詳細に、(主にデリダの『条件なき大学』といった議論を参照しながら)人文学およびそれをになう大学のあるべき形(とそれが形成されてきた歴史的経緯)と今置かれている危機について議論してみたい。

2015年6月5日金曜日

人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
 "国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話"の続き

 人文学が社会の役にたつ、というのはどういうことだろうか?
 教育という議論はひとまず置くとして、ここではあくまで「研究活動」に絞って、その機能につうて(相互にオーバーラップする)三つの側面に整理したい。すなわち、(1)経済的価値、(2)人権や正義、真善美に関わる価値、(3)カウンターサイエンス、である。


2015年6月1日月曜日

国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話

このエントリーをはてなブックマークに追加

 産経新聞の「国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換 文科省が素案提示」という記事が話題になっている。
 その中でも特に、
 通知素案では、少子化による18歳人口の減少などを背景として、教員養成や人文社会科学などの学部・大学院について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努めることとする」と明記された。

 の「社会的要請の高い分野への転換」が議論の焦点である。学問を評価するのに、「社会的要請が高い」ということはどういうことか、ここでは定かではないからである。
Europe 2003
 どんな場合でも社会的要請とは一枚岩ではなく、ある時代の社会的要請が結果的には極めて有害だった、ということもありうる。そういったとき、いち早くその可能性に気づき、警鐘を鳴らし続けることは、価値を扱う学問である人文学にとって極めて重要な仕事である。しかし、多くの場合それらの作業は簡単に評価しうるものではなく、特に政策がますます経済指標に従属するようになっている昨今、これらの評価は危険な作業である。
 かつて文化使節として来日したフーコーは記者に記者に「激しい自国批判を続けるあなたをフランス政府が文化使節に任命する理由はなんでしょうか?」と問われて「ご存知のようにフランスにとってプワゾン(毒)は重要な輸出商品なのです」というようなことを答えていたと記憶する。このことは、デリダのファルマコン(毒にも薬にもなる存在)としての哲学、という議論も想起させるだろう。日本の人文社会科学は、ファルマコンであるべきという「社会的要請」に十分に答えることができているだろうか?
 こういった問題について、十分に議論が尽くされた結果として「社会的要請」という言葉が使われるのであればそれは需要せざるを得ないが、大学法人評価委員会の議論を見ていくと、どうもそうとは言い難い状態にあるように思われる。
 以下、具体的に見ていこう。