2016年12月21日水曜日

教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある (奨学金問題雑感 その1)

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給付奨学金について「貧乏でも幸せはある」といっためちゃくちゃな批判も問題だが、「大学に行くことが貧困から脱出する道である」という議論をその批判に当てることも若干の問題がある。
 もちろん、受け手(生徒)の利益になるようなインセンティヴがなければ中々続かないのも確かなので、大学進学の経済的メリットは考える必要があるし、あまりに不利益が大きければ大学という制度そのものが持続的ではなくなるだろう。

しかし、(過去、国際社会に教育の無償化を促された日本政府が度々そう抗弁してきたように)もし教育が生徒の利益のために行われるのであれば、大学教育などは完全に営利企業の手に任せればよいだろうし、そのほうが保護産業として行うよりも高い効率を収めるかもしれない。



 そうではなくて、教育は社会的な財産(それは必ずしも経済学的なものではないかもしれない)を構築するためにあるのである、という問題設定が重要である。
 例えば、医学部の設置は、医者になりたい人へのサービスとして行われるものではなく、「医療環境が整った社会」をつくるためには、どの程度の水準の教育を受けた医師がどの程度の数必要か、という観点から考えられるべきものである。


 もちろん、冒頭に述べたとおり、医療教育を受けるインセンティヴをどう確保するかや、それが社会的に適切な形で経済的な持続性を得る、ということも重要であるから、教育の受け手本人に一定の見返りがあることは重要であるが、それが本質なわけではない。
では、特に「医学ほどは役に立たないようにみえる教育」である人文・社会系の(特に、MBAなどがそうであるようには、企業が就職で歓迎するというわけでもない分野の教育)は一体何が目標になるだろうか?


 重要なのは「我々はよくある (well being) 権利がある」ということであり、それは自然権として社会が認めているということである。
 このことがなければ、そもそもいかに経済が豊かであっても、みなが豊かになる権利が保証されているという訳にはいかない。
 しかし、「よくある」という自然権は先験的なものとして認める一方で、我々は「よくある」とはなにか、ということについて知らない(か、少なくとも「合意をもっていない」)。
 そこで、よくあるあり方を認識すること、またその認識をすり合わせ、共通合意にするということが、「哲学」の役割ということになる。
 これが、大学があり、その中核に(教義の)「哲学」がある意味である。


 もちろん、日本の大学が単なる訓詁学ではなく、こういった広い意味での「人間性についての問」に応えるための教育を行いうる体制にあるか、という点は厳しく批判されて良いだろう。
 しかし、就職率などで測った「教育のレリバンス」とやらが、この哲学的要請より重要である、という議論は受け入れがたい。
これが本来、「保守」という層(例えばエドマンド・バークや「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」と述べたアクトン卿の系譜としての保守思想とそれを受け継ぐ政治的立場)を含めた世界の共通合意であり、ここを外すと極右への道をまっしぐら、ということになる。


 一例として、ハフィントンポストの、ユナイテッド・ワールド・カレッジ・デリジャン校でのジョージ・クルーニーの演説に関する記事を見てみよう。
ユナイテッド・ワールド・カレッジは、ヨルダンのヌール王太后が学長を務める(前学長はネルソン・マンデラであった)トップダウン型の運動であり、日本のカウンターパートは経団連が主体となっている。所謂「左派市民運動」や草の根運動といったものではない。
 つまり、これから述べるような議論というのは、別に革命的でもなければ左派的なものでもなく、ヨーロッパ社会の保守の系譜に埋め込まれている基本思想、ということである。


 ハフィントンポストにアルメニアにあるここのデリジャン校でハリウッドの著名俳優であるジョージ・クルーニーが演説し、学生と対話したという記事があがっている(どうも日本語版にはこの記事が見当たらない)。
 議論の全文が公開されていると良いのだが、今のところ見当たらないが、クルーニーは次のようなことを述べたという。

 「学生が進めた質疑応答の中で、クルーニーは教育の重要性、世界によい影響を与える次世代の能力、また肯定的な対話を通じてお互いに学び合うために異なる文化の人々が必要であることなどについて語った。」

これが、社会的に責任ある大人が教育について語るときにモデルにすべき態度であろう。
 デリジャン校はまさにこうしたことのために設計されているということらしく、そこには64カ国から190任の生徒が学んでおり、そのなかには紛争中の国々も含まれている。例えば、トルコとアルメニア、イスラエルとパレスティナの生徒が互いに学び合う、ということが求められ、起こっているのだという。


 そこまで顕著な例ではなくても、大学は国内外の様々な階層、ジェンダー、エスニシティ、セクシャリティ、心身の特徴、そして思想や将来の希望、政治思想の多様性を必要としており、それがなければ学びは成立しない。
 貧困層の子どもが能力に応じて進学したいと思うのは権利であり、それが(本人及び社会にとって)経済的に「よい取引」だからではない(少なくともそれは「二次的な問題である」と言う必要がある)。
 なぜその権利を認めなければいけないかというと、「言論の自由」と同根で、それがなければ社会は民主制と人権を尊重し得ないからである。


我々は、「人権を認められている」からこそ好きなことが言える(保守の政治家を含めて人権を余計なものと言いがちな人は、封建制のもとでそもそも自分が意見を言えたか、つまり支配階層の男性であったか、いちど振り返ってみると良い)。
 人権(Human Rights)とは人間性(Humanity)と密接に関係しており、人間性を論じる諸学が「人文学」(Humanities)である 。
 なので、たとえば物理学や生物学が自然科学 Natural Science であると同時に人文学 Humanities である、という言い方も本来は可能だし、かつてはそうだったはずなのだが、分類は相互に排他的で、全体として網羅的 (Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive )であるほうが美しいという「科学的思考」の害毒もあってその可能性が潰されている面もある。
 そして、人間性(Humanity)の根幹は「知性」であり、これが啓蒙(Enlightenment)によって人類文化が向上することと「人権概念が広がる」ことに相関があるとみなされてきた理由である。
 ただし、この人文学がこだわる知性はテストを上手く解けるとか、様々なゲームを有利に進められると言った「知性」とは異なり、世界を認識することを可能にする知性である(その意味で、アインシュタインの言葉として知られる「この世界で最も理解し難いことは、この世界が理解できるということである」という言葉は、極めて人文学的である)。
 世界を理解し、それを言語に乗せて表現したり、他者の表現を理解したりする能力が「知性」なのであり、この知性を相互的に認めることが「人権を認める」ことなのである。


この「人間性」の議論によって、「人々は幸せであるべきである」という目標と、そのための諸原理(人権)の設定が可能になる。
 手段の議論はこのあとである。
 「科学的合理性」は目的を設定しないのである。
 人間性についての理解なしに、合理性について論じることは、自分がやっていることがサッカーかラグビーかを理解せずに、勝手に想起した「ゴール」にボールを蹴り込もうとするようなものである。
この意味で「知性」が使われていることを理解すると、なぜ欧米人がロボットやイルカに「知性があるなら人権を認めなければならない」と考えるのかが理解可能である。
 ちなみに、この意味の「知性」と「人権」の関連性を疑う、というのが「ポストモダン」という議論の根幹になる。
 このポストモダン思想の「発生源」はしばしば仏の高等師範学校(École Normale Supérieure)出身の哲学者たちだとみなされているが、(いささか皮肉というべきか、あるいは「進歩」というものの必然とみなすべきか)この高等師範のシステムは「人文的知性を広めることに関して国家のエージェントとして(軍の下部組織であり、工学的実用的な知識のための学校であるエコール・ポリテクニークの学生と同様)給与を支給されるという、啓蒙主義をもっとも組織的に体現したものである。


まとめると、大学の責務は第一に「社会の中の Humanity を涵養するための啓蒙のための組織である」ということであり、その目的に合致するためには、様々なバックグラウンドを持った生徒が「学び、考え、知性を養い、その結果を社会にフィードバックしたい」と思ったときに参加可能なものでなければならない(ここでの深入りは避けるが、ポストモダンの社会でも、この「多様性」は重要性を増しこそすれ、失効はしない)。
 そのために無償の高等教育は権利なのであり、決して「経済的成功をおさめるため」の権利ではない。
 逆に、「健康的で文化的な最低限の生活」であれば高等教育をおさめずとも保証されるべきだし、それ以上の生活に関しては、大学を卒業したことがその権利であるわけではない。


ただ、高等教育は人生の一定期間をそれに費やすというコスト(ないしリスク)を伴うのであり、このコストを支払っても高い教育を受けようという動機が維持できる程度の待遇を保証することが公正の原理に反するとはいえないだろう。
 しかしながら、問題になるのは人間性なのであり、人間性の要求は「健康で文化的な最低限の生活」つまり生活水準のボトムラインについてなのであり、高等教育を受けることでこのボトムラインが底上げされるかのような議論は好ましいものではない。
 したがって「高等教育を受けることで、貧困層に属する個人が貧困から脱出する機会を得る」ことは、個人の動機としては正当なものでも、社会が給付奨学金を提供する根拠としては必ずしも十分とは言い難い(特に、それが「教育水準による経済格差」は先に述べたように多少正当化の余地があるにしても「高等教育を受けないと貧困化する」という状況の説明原理に使われたり、それを貧困層の自己責任であるかのように述べる根拠に使われることがあれば、その議論はまったく正当ではない)。


 給付奨学金を政府が置く根拠は第一に「高等教育における多様性をまし、それによって人間性についての社会全体に蓄積された知識が向上し、結果として貧困全体が縮減していく」ことに置かれなければならない。



「その2」に(一応)つづく