原子力爆弾の投下について、アメリカ大統領に謝罪を「求めない」ことがよいことだ、という意見があるが、日本はやはりきちんと謝罪を要求すべきだと思う。そして、謝罪を要求できない要因を、我々自身がいくつか抱えているように思われるので、まずそれを是正する努力をすべきである、ということでもある。
逆に言えば、日本政府が「謝罪を求めない」という態度を取っているのは、おそらく自分たちにも相応の責任が生じることを嫌がっているということであろう。
しかし、そこを超えずして、第二次世界大戦への真摯な反省の上に平和を希求しているのだ、という「建前」が信用されるはずがあるだろうか?
安保法制をめぐって、日本政府はそういった趣旨の発言を繰り返したが、現状ではそれは、対外的にはまったく信用されない、空虚な言い訳に過ぎないであろう。
謝罪を求めるべきである理由は、直接的には、被団協のような被害者組織がそれを望んでいる、というだけで十分なはずである。
もちろん、最終的に日本政府の公式の立場として大統領に謝罪を求めないという結論はあり得るだろうが、被団協のような組織に対して「謝罪を求めるな」という有形無形の圧力がかかっているように見えるのは、奇妙を通り越しておぞましいとしか言いようがない。
謝罪を求めないことが国家の品格であるという議論まで飛び出したが、「国家の品格」とやらのために個人の自己決定権や尊厳が無視されるような状況があってはならないのである。
謝罪を求めるべきである理由は、直接的には、被団協のような被害者組織がそれを望んでいる、というだけで十分なはずであるが、加えて倫理的な論点も検討してみよう。
原子力爆弾の投下は二つの理由で明白に、人道に対する罪である。