2016年5月23日月曜日

在外軍事基地と人民主権(Overseas Military Bases and Popular Sovereignty): グローバルに問題を共有するために

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 在外軍事基地問題を抱えるのはもちろん、沖縄だけではない。ここでは、在外軍事基地という言葉で、ある国が、その国とは別の国の主権が存在する国や地域において設置、運営している基地を示す。現在、世界100カ国以上に、千を超える軍事基地や軍関連施設があり、その大半はアメリカ合衆国のものである。他には、イギリス、フランスが多くの海外基地を旧植民地などに所有している。ロシアは、旧ソヴィエト連邦を形成していた地域に海外基地を維持している。インドは、タジキスタンとブータンで基地を運営している。Wikipedia によれば、他に在外軍事基地を有しているのは中国、イタリア、日本、トルコである(日本に関しては、ジブチのものを指している)。

在外軍事基地の問題は、大きく分けて三つ挙げられる。

1) ひとつは、間接的に戦争に加担させられることである。多くの基地は設置国の戦略上の意図を持って設置され、例えばそこから空爆などが行われる。この場合、ホスト国は(意図するか否かにかかわらず)戦争に資源提供などの面で協力させられており、また、自国軍の戦闘参加と異なり、多くの場合は国会承認などの方法による「主権のコントロール」が効かない。日本でも、対テロ戦争の「有志連合」として名前が付け加わっていることが事後的に国会で問題になった。また、このことによりテロの標的としてのリスクが増大するという問題も指摘される。

2) 二つ目は、軍事基地が及ぼす様々な環境問題である。軍事基地は、通常多くの国で、自国内においてすらも、企業活動より環境規制が弱く、また説明責任も国家機密に阻まれて弱くなりがちである。例えばオクラホマ市のある地区では子どもの平均出生体重が2オンス、同市の平均より小さいことから調査が進められた結果、隣接するティンカー空軍基地から大量の汚染排水が流されていたことが発覚した。その他、全米で国防総省は三万以上の汚染を認めている。汚染物質としては、訓練のための射撃場(に弾薬としてばらまかれた重金属)、汚水として流された塗料や燃料、その他、本来であれば産業廃棄物として処理しなければならないような物質である。

旧楚辺通信所(沖縄県読谷村)


 日本でも、遺棄されたと思われる枯れ葉剤の容器が見つかったりしており、すでに返還された読谷村の楚辺通信所(通称「象の檻」)でも返還後に土壌汚染が見つかっている。同様に、フィリピンで返還されたクラーク空軍基地およびスービック海軍基地でも、返還後に深刻な汚染が発覚し、これに関しては甚大な健康被害も発生した(これに関してはできれば稿を改めたい)。フィリピンの健康被害については、米国は原因が米軍にあることを認めているものの、基地協定を理由に補償は拒否している。

3) そして、最後に(おそらく一般的にはこれが最も深刻な問題であるが)犯罪に関する問題である。通常、基地に対するホスト国の警察権、裁判権はなんらかの形で制限されている。これは、海外で「戦ってもらう」以上、その国の法律で裁かれるというリスクから兵士を守らなければならないという事情を考えれば、理解できることである。特に、日本の制度は代用監獄制度など国際的な非難を浴びており、米軍としても容易に妥協できないところであろう。1995年に沖縄において3人の米海兵隊員によって12歳の少女がレイプされた事件でも、日米地位協定に従い、容疑者たちの身柄が米軍側から引き渡されることはなかった。その後、運用は多少柔軟に行われるようになり、特に今回(2016年)の事件では容疑者が軍属であり、また軍の業務外であったこともあり、身柄を日本側が確保することに成功しているが、近年でも現役兵士に関しては身柄の確保が米軍によって行われ、日本側が任意捜査しかできないという状況は何度も発生している。今回のケースでも(真偽はわからないが週刊誌などの報道によれば)沖縄県警は身柄を自分たちで確保するために、米軍が関係しない捜査では発生しない苦労を強いられた、という話もある。

さて、いずれの問題も、「主権」という問題が関わっていることができる。軍や警察は「暴力装置」である(先に野田元首相がこの言葉をつかって炎上したが、学術的な定義として、そういうことになる)。地域に存在する統制外の暴力装置を禁止し、暴力の行使を適正な法律の下に運用する組織である軍や警察にのみ、一元的に許可し、統制する、というのが近代国家の前提である。そういう意味では、在外軍事基地というのは、その国に、必ずしも主権に服さない特殊な暴力装置が存在する、ということに他ならない。特に、アメリカ軍は世界最強の暴力装置と言って過言ではない。問題はさらに深刻になる。
 特に、軍というのは「暴力を振るうための」教育がされるところである。『戦争における「人殺し」の心理学』によると、特に措置をされない状態で人を殺せる人というのは、実はあまりいない。そのため、軍隊では「敵を殺す」という心理にもっていくための教育を行うのである。これは映画『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹が有名だが、まず新兵たちの自尊心を破壊し、上官の命令には服従し、暴力や殺人を抑制する個々人の倫理感覚を封殺することから始まる。こうした「技術」は20世紀になって飛躍的に増大し、ベトナム戦争の頃には9割以上の兵士を、殺人にコミットできるように養成することが可能になった。
 さて、この時重要なのは「敵・味方」の二項対立である。敵は速やかに殺すべきだが、味方を殺すような兵士になっては困るわけである。では、「その中間」はあるのだろうか? 「ここは国外だが、そこには自国民でも敵国民でも同僚や同盟国の兵士でもない人がいる」という認識は、もちろん理性的には持ちうるだろう。しかし、その理性のストッパーを外すような潜在意識への訓練というレベルでそのような複雑な認識を植え付けることは可能だろうか? もちろん、司令官にとっては駐留地でところ構わず暴力やレイプ事件を引き起こす兵士は頭がいたい存在だろうが、それでも、そういった兵士と、敵地で倫理やコンプライアンスを気にして相手の年齢や所属、敵対意志の有無を確認しないと銃を撃てない兵士と、どちらがマシかと問われれば、回答は自明であろう。これが、在外軍事基地がホスト国の市民にとって危険である理由であろう。
 そして、先の議論に戻るが、この暴力装置は民主的な主権の統制に服さないのである。暴力事件が起こるたびに、他の組織(つまりは自国の軍隊など、ということであるが)であれば、主権は対策を講ずることができる。しかしながら、主権の外部にある暴力装置の場合は、ひたすら「対策を申し入れる」ことしかできないわけである。

したがって、在外軍事基地の問題とは、徹頭徹尾「主権国家の内部に、その主権に服さない暴力装置がある」ことの問題である(環境問題も含めてそうであるといっていいだろう)。ところが、日本の政府(つまりは自民党政権)は、沖縄が返還されるまでは「潜在主権」と唱え続けたが、いざ返還されてみると、沖縄で適切に主権が行使しえているか、ということにはまったく無関心であったのであり、その結果が返還後の沖縄が一貫して置かれてきた状況であろう。自由民主党にとっての主権とは「人民主権(ないし国民主権)」のことではなく、単なる領有権のことだ、ということなのだろう。本来は、この認識こそがまず是正されなければいけないのであり、その意味では沖縄の問題は、主権概念を軽視する与党と、それを選び続けた有権者に責任がある問題である。

なお、今回の事件に関して言えば、容疑者は(報道の範囲からの推察では)ハートマン軍曹的教育の直接の影響下にあるというよりは、その後に軍の奨学金などを活用し、大学教育資格などを取得し、市民社会に復帰した人物が引き起こした事件であるように見える。なので、軍事的な「敵・味方」教育の問題とは別に考えるべきなのか、あるいは、であるからこそ「軍隊という組織の闇は深い」ということなのかは、今後の検証を待たなければならないだろう。また、それとは独立に、すでに述べたように捜査権の制約といった問題は存在し、そちらについても検証が必要であろう。また、対策を「お願いするしかない」という構図は今回の事件でも覆いがたいことを考えれば、その条件とは独立に、現地の怒りは当然であるといえよう。
 私はすべての在外軍事基地が撤廃されるべきだという議論に大いに賛同する(また同時に、最低限の「自衛の手段」として、自国の主権下にある領土を出ない範囲で行使される軍事力と、そのための組織を我が国が所有することを支持する)。もし、それでもどうしてもアメリカとの安全保障条約が必要であり、アメリカ軍の日本への駐留が必要であるというのであれば、基地の負担は一地域に押しつけるのではなく全国で平等に負担すべきであろう。