2016年1月13日水曜日

「荒れる成人式」と議員定数

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今年も成人式で暴れる新成人がおり、産經新聞などがうれしそうに批判していた水戸市のケースでは以下のように報道されている(DQNというネットスラングを持ちいて報道する産経さんの方が遥かに品がないと思うが…)。


一部の新成人らがマイクを取り上げ、「おめえがあいさつしてんじゃねえ、このやろー」「なめんじゃねーよ」「みんな、よろしく~」「盛り上がっていこうぜ」などと拡声器で叫びながら、警備員の阻止を振り切ってステージに上がり、妨害行為に出た。

警備員らによって下ろされた後、古谷さんは誓いの言葉を続行し、「僕が話すことが気に入らない方もいると思います。みなさん、しっかりと成人としての自覚をもち、これから社会人としてはばたいていきましょう」と反撃。すると、ステージの下からは「てめーが代表じゃねえ、このやろー」などの罵声が飛んだ。

新成人代表の返しも中々立派だと思うが、「暴れた」側も成人式の代表権やオーナーシップの問題に抗議していて、なかなか立派であると思う。こういった異議申し立ては、問題の重要性や主張の合理性というのは議論されたらよいが、それをするということの重要性においては、例えば若者が安保法制に対して異議申し立てをする、ということと、なんら変わらない訳である。もちろん「荒れる新成人もSEALDSの若者も嫌い」という層もいることであろうが、それは端的にいって「自由からの逃走」であろう。
 朝日新聞に掲載された論考の中で、作家中村文則氏が「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言われたという経験を書いている。
 もちろん、そもそも反対する権利があるから「反対しない」(/支持する)という「自由意志に基づく決断」が可能になる訳であり、そこを見つめないことは「自由からの逃走」である。
 これは、問題になっている議論の重要性とは関わりなく妥当する話である。

もちろん、その対策がどうあるべきか、というのは議論の余地がある。
 たぶん、昨今よく話題になる「議員定数削減」というのは、しばしば財政難と関連づけて語られるが、かりに十人かそこら削ったところで、国家予算に与える影響は微々たるものである。
 逆に、議員がいなくなる、というのは、本来より多様な立場の有権者が国会に影響を与える機会をなくすということでもある。
 「議論の代弁者は少なくてもよい」のであれば、極端な話、大統領ひとり選挙で選出すれば、議会はいらないことになろう。
 そういったことが、議員定数削減論の支持者にわかっていないということでもないのではないか。
 それよりも、結局のところ、「地盤、看板、カバン」と言われるように、議席が各地の有力者によって占有され、また血統で継承されていくということの理不尽さに、代表性やオーナーシップの問題を感じている、ということなのではないか、と思われる。
 これの対応策として支持されるべきは、より開かれた選挙制度であるはずだが、選挙制度がすでに議員になった人々によって設計される以上、なかなかそういった改革は難しい(もし議員に対して、真に痛みを伴った改革を迫りたければ、より新人が当選しやすい形の選挙制度改革を迫ることである。)。
 そして、どうも、「理想的ではあるが、現実的ではない改革案を指示して、夢想家と言われること」が日本の有権者にとってなにより恐ろしいことらしい。
 しかし、少なくとも、そのあたかも現実的な対案であるかのように、議席削減を叫ぶことは、そもそも論理的ではないし、「荒れる新成人」より遥かに子ども染みている。

ところで、「荒れる成人式」問題に解決策はあるか、という問題になる。
 小規模な地方の自治体であれば、新成人全員が参加するような運営というのも考えられそうであるが、水戸ぐらいの都市ではそのあたりも難しそうである。
 欧米の議会などをみていると、たまに環境問題などで抗議するグループが傍聴席を選挙してパフォーマンスすることがあるが、警備担当者もぴったり張り付くもののすぐには止めず、しばらくパフォーマンスをさせてから、議場の外に連行することが多い。
 ガス抜きとみることもできるが、言論の自由と議会運営のバランスという感覚があるのだろう。
 そういうことは日本でも考慮されていいのではないか。

一方、本格的に議論する、となると困難が生じる。
 これは私が「科学と差別」という記事で「野生の言説」と呼んだことに関する議論と同根のものであるが、代表性やオーナーシップに関する異論が、常に相互理解が容易な形で提示される訳ではない、ということを、この成人式の事例で示している。
 また、ある種の「民主的な意思決定」のためには、各人の要望を定型的で論理的な(と、テクノクラートが判断できる)仕方での議論に落とし込む必要がある。
 実際は、テクノクラート側ですらも、必ずしも(これはハーバーマスが定式化したような形で)論理的な意見表明は行っていないのであるが、ある種のずらし方を文化的に共有しているために、通常自分たちですらそのことに気がつかない。
 一方で、「野生の言説」とここで呼ぶものは、こういった「理性的な言説」およびそこからの「テクノクラート的なずらし込み」とは別のずれ方をした言説である、ということになる。
 もちろん、「野生の言説」を発する主体に対して、なんらかの働きかけを行い、「理想的発話主体」に彼らの言動を修正してもらう、という方法がとれることもあるだろう。
 ただ、その場合はその変更のコストと、「翻訳によって失われるもの」のコストを、修正する側が支払っているということを忘れてはならないであろう。
 一方、「野生の言説」の真意を推量して、こちらからそれを加味した解決策を提示する、というほうが合理的な場合も多いだろう。
 こういった場合は、それは「政治のコスト」として認識しやすいし、そういったコストを予め予算に計上しておくべきでもあろう。



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