丸山和也参議院議員のオバマ大統領のルーツに関する発言が議論を呼んでおり、例えばCNNでも”Japanese lawmaker criticized for linking Obama to slaves”と批判的に報道された。
当該部分は「丸山和也・参院議員(自民)「黒人・奴隷がアメリカ大統領になっている」 発言後に陳謝【全文】」で確認できる。
なぜそんなことを考えちゃったのかさっぱり分からないが、丸山議員がいいたいのは「日本がアメリカ合衆国の51番めの州になれば、我々の子孫からアメリカ大統領が出ることも非現実的ではない」ということであろう。
そして、その理由として、アメリカは「かつては奴隷として差別されていたエスニック・グループにも公民権を認め、ついにはそのグループから大統領まで出した、極めて進歩的で開かれた国である」ということをいいたいのであろう。
おそらく、そういうふうに表現していればこの部分は問題にならないし、避難がましく報道されることはないわけである。
もちろん、これは過去の政治家たちの(CNNがとりあげたような)差別発言に比べれば、おそらく丸山議員のなかではアメリカの歴史とオバマ大統領への尊敬の念があることは、少なくとも日本人からは明らかであるし「誤解を招く、真意とは異なる発言であった」というのは読み取れる(珍しく「誤解を与えたことを謝罪する」のが適当なケースである、とは言える)。
しかし、一方で、そういう「行間を読んでくれ」というのが、日本のようにメディアと政治家がなれ合っている状況でしか通用しないのも当然である。
最大の問題は、なぜ丸山議員が「かつては奴隷として差別されていたエスニック・グループにも公民権を認め、ついにはそのグループから大統領まで出した、極めて進歩的で開かれた国である」と明瞭に言えないか、ということであろう。
一つは、明らかに彼がテレビのワイドショー・カルチャーから出てきた人だと言うことである。
ワイドショーは、社会問題を告発し、その原理を明らかにすることより、びっくりするネタで人の関心を(短い時間)引きつけることに特化している。
だから「黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って。」と、センテンスが極めて短く、耳目を引くために衝撃的になるように計算のされた表現を選択している。
テレビの速度では、きちんと定義された言葉で長々と説明したら、たぶん途中でチャンネルを変えられてしまう、ということなのかもしれない。
しかし、明らかにこの表現は、他者の実存をおもしろおかしく消費するための表現であり、それ事態が差別的である。
また、原理に立ち戻って抽象化された表現を、特に保守層の人間が嫌うもう一つの理由があるのではないかと、私は疑っている。
つまり、アメリカで「差別されていたエスニック・グループ」に対して進歩的な対応がとられているなら、日本ではどうなのか、という問題である。
それに対して、人権という原理に立ち戻らなければ、「アメリカさん、立派、立派。えっ、日本? それはまた別の話だから」で済ませられる訳である。
おそらく、現代社会の文脈では、非差別層の地位が回復され、公民権が付与されたというエピソードに言及するとして、「それが、人権に基づく当然の権利として行われたのか、それとも支配層の温情として行われたのか?」という問題が重要である。
もちろん、前者として表現されるべきであるというのが、現代社会におけるコンセンサスであり、後者であることを示唆すれば、それ自体が差別な訳である。
そして、丸山議員の発言は、明白に後者という感じではないものの、「前者であることを明言しないために選択された曖昧さ」であると見える。
(これも実は、いろんな視聴者層がいることを考慮し、なるべく多くの範囲から反感を買わないようにする、というテレビ的配慮であるのかもしれない)
なので、この事件から明瞭に言えることは、我々が文化をまたぐ相手に関係する議論をする場合は、局所的なエピソードで自分の言いたいことを匂わせるのではなく、きちんと「どのような原理に立脚した価値判断をおこなっており、その結論はどの範囲に適用される」かを明確にするようにすることであろう(「国際化教育」というのはそういうことであるはずである)。
当該部分は「丸山和也・参院議員(自民)「黒人・奴隷がアメリカ大統領になっている」 発言後に陳謝【全文】」で確認できる。
なぜそんなことを考えちゃったのかさっぱり分からないが、丸山議員がいいたいのは「日本がアメリカ合衆国の51番めの州になれば、我々の子孫からアメリカ大統領が出ることも非現実的ではない」ということであろう。
そして、その理由として、アメリカは「かつては奴隷として差別されていたエスニック・グループにも公民権を認め、ついにはそのグループから大統領まで出した、極めて進歩的で開かれた国である」ということをいいたいのであろう。
おそらく、そういうふうに表現していればこの部分は問題にならないし、避難がましく報道されることはないわけである。
もちろん、これは過去の政治家たちの(CNNがとりあげたような)差別発言に比べれば、おそらく丸山議員のなかではアメリカの歴史とオバマ大統領への尊敬の念があることは、少なくとも日本人からは明らかであるし「誤解を招く、真意とは異なる発言であった」というのは読み取れる(珍しく「誤解を与えたことを謝罪する」のが適当なケースである、とは言える)。
しかし、一方で、そういう「行間を読んでくれ」というのが、日本のようにメディアと政治家がなれ合っている状況でしか通用しないのも当然である。
最大の問題は、なぜ丸山議員が「かつては奴隷として差別されていたエスニック・グループにも公民権を認め、ついにはそのグループから大統領まで出した、極めて進歩的で開かれた国である」と明瞭に言えないか、ということであろう。
一つは、明らかに彼がテレビのワイドショー・カルチャーから出てきた人だと言うことである。
ワイドショーは、社会問題を告発し、その原理を明らかにすることより、びっくりするネタで人の関心を(短い時間)引きつけることに特化している。
だから「黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って。」と、センテンスが極めて短く、耳目を引くために衝撃的になるように計算のされた表現を選択している。
テレビの速度では、きちんと定義された言葉で長々と説明したら、たぶん途中でチャンネルを変えられてしまう、ということなのかもしれない。
しかし、明らかにこの表現は、他者の実存をおもしろおかしく消費するための表現であり、それ事態が差別的である。
また、原理に立ち戻って抽象化された表現を、特に保守層の人間が嫌うもう一つの理由があるのではないかと、私は疑っている。
つまり、アメリカで「差別されていたエスニック・グループ」に対して進歩的な対応がとられているなら、日本ではどうなのか、という問題である。
それに対して、人権という原理に立ち戻らなければ、「アメリカさん、立派、立派。えっ、日本? それはまた別の話だから」で済ませられる訳である。
おそらく、現代社会の文脈では、非差別層の地位が回復され、公民権が付与されたというエピソードに言及するとして、「それが、人権に基づく当然の権利として行われたのか、それとも支配層の温情として行われたのか?」という問題が重要である。
もちろん、前者として表現されるべきであるというのが、現代社会におけるコンセンサスであり、後者であることを示唆すれば、それ自体が差別な訳である。
そして、丸山議員の発言は、明白に後者という感じではないものの、「前者であることを明言しないために選択された曖昧さ」であると見える。
(これも実は、いろんな視聴者層がいることを考慮し、なるべく多くの範囲から反感を買わないようにする、というテレビ的配慮であるのかもしれない)
なので、この事件から明瞭に言えることは、我々が文化をまたぐ相手に関係する議論をする場合は、局所的なエピソードで自分の言いたいことを匂わせるのではなく、きちんと「どのような原理に立脚した価値判断をおこなっており、その結論はどの範囲に適用される」かを明確にするようにすることであろう(「国際化教育」というのはそういうことであるはずである)。