2015年6月24日水曜日

ブタ生肉食は「考えるに良い」か?

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 最近のブタ生肉食禁止に関する議論を見ていると、生肉食を食べたいという人を馬鹿だと罵る傾向があるのが気になっている。
 今のところ、禁止の妥当性については異論も不満もないが、その決定が適切な調査と議論に基づいて行われたか、という点には疑問なしとしない。




 確かに、疫学的知識の発展によって、それまで許されていた行為の危険性が明らかになり、それが禁止される、ということはあり得るし、あるべきである(例えば喫煙)。
  また、基本的には「安全性」を向上させ、リスクを低減させるのがテクノロジーの発展の基本的な意義である、ということに異論のある向きは少ないと思う。
 一方で、そういった「発展」がある種の人には暴力として立ち現れる、ということに、規制当局や専門家側は、もう少し配慮してもいいのではないか。

 そもそも、人間はなぜ「食べる」のだろうか?
 もちろん、生命活動を維持するというのが大原則であるが、それだけが目的ではない。
 我々は食に楽しみや儀礼的、社会的意味を見出す。

 このことを強く主張したのは、フランスの文化人類学者レヴィ゠ストロースである。
 もともと、文化によって食の対象になるものは違う。
 例えば、イスラム教徒はブタを食べないし、ヒンドゥ教徒はウシを食べない(なので、両者が住んでいるインドのマクドナルドは、ヒツジ肉のハンバーガーを提供する)。
 これらの文化が広まった理由には、合理的理由があると推測する人もいる。
 例えば、インド人はウシをシヴァ神の乗り物である聖なる動物であるとして食べないわけだが、農耕文化であるインドにおいて、ウシは貴重な労働力であり、安易な消費を戒めた、という説がある。
 イスラム教ののブタについては、さらに諸説乱立していて、私がぱっと思い出すだけでも、(1)人獣共通感染症が豊富なのでという衛生学的理由。(2)騎馬民族にとって(群れを作らない動物である)ブタを混ぜると誘導の速度が下がって、戦闘などに不利であるから、という理由。(3)ブタは美味しく、栄養価も高いので、贅沢を戒めた、という理由。等が候補にあがっている。
 しかし、レヴィ゠ストロースは、南米などの先住民文化の研究から、極めてよく似た環境に住む人々でも、文化によって「食べて良い」とされるものはお大きく異なり、そこに法則性や生物学的根拠は見いだせないことに気がつく。
 そのため、彼は食べることと世界を理解することの相補的な関係に着目し「種は、食べるのによいから食べられるのではなく、考えるのによいから食べられる」という考え方を提唱する(具体的には『野生の思考 』を参照されたい)。

 レヴィ=ストロースの議論は今でも多くの人類学者が採用する、分野内での一般合意的なものになっているが、これに徹底的に反論しているのが、しばしば「異端の人類学者」とよばれているマーヴィン・ハリスである。
 ハリスの著書食と文化の謎 の原題は "Good to Eat: Riddles of Food and Culture "であるが、これは先のレヴィ゠ストロースの「考えるのに良い」(Good to think / bonnes à penser)に対抗したタイトルである。
 同書では、たとえば何故ヒンドゥ教徒はやイスラム教徒が特定の家畜を食べないかについて、先に挙げた議論よりはもう少し複雑な説明を提供してくれるが、基本的には「地域の環境に適応し、最もエネルギーと栄養素の摂取に効率的な方法を取った結果である」と説明している。

 こういった議論は、実際のところは様々な要素が複雑に入り混じったものであり、もちろん「環境に適応」したという要素は皆無ではない(そもそも環境にいない生物は利用できない)にしても、それだけでは説明はつかないし、レヴィ゠ストロースの議論には説得力がある、と多くの人類学者は考えている。


文化的多様性とリスク

 また、最近では科学的な規制を理由に、文化排除的な政策が行われることがある。
 たとえば、イスラム教徒は犠牲祭で生きた家畜(ヒツジなど)を屠り、神や他人に振舞うが、ヨーロッパ諸国などでは衛生上の理由などで規制するという国もある。
 文化的要求は、リスクを理由にした規制を緩める根拠になるだろうか?
 これも、個別のケースについて議論を詳細に行わなければならないところである。

 実は、関西に移住して(1998年のことである)生肉を食べる機会がだいぶと増えた。
 また、必ずしもそれだけではないが、朝鮮半島の料理を食べさせる店で生肉料理が多いという面はある(ユッケが代表例だが、それ以外も)。
 今回の禁止措置に関して、それが理由の差別的措置であるとは思わないが、相対的に禁止措置に対する反発が封じ込めやすいという計算がなかったとは言えないのではないか?

 たとえば、10年前に厚生労働省が「水銀を含有する魚介類等の
摂食に関する注意事項」を発表したが、この中でキンメダイは妊婦が摂取を注意するように求められている一方で、より水銀の含有量の高いマグロ類が注意から外れていた、ということがあった。
 これは、1日あたりの平均摂取量がマグロはキンメダイより低いということを根拠としていたが、我が国においてマグロは当然のようにキンメダイよりはるかに人口に膾炙した食料である。
 当該の資料でも 国民栄養調査によればキンメダイの摂取者は調査対象者の0.7パーセントに過ぎないのに対して、マグロは26.7パーセントがなんらかの形で食べている。
 1日摂取量はマグロが統計上キンメダイの1/4強であるが、これは握り寿司として食べているケースが大きいためだろうが、切り身を焼いて食べればキンメダイと同量か、それ以上に食べることになることは想像に難くない。
 統計上、キンメダイの摂取者の40倍近くいるマグロの摂取者の、高い方の分散がどの程度の水銀を摂取することになるのか、統計的に確かなことをいうのは難しいが、決して軽視していい問題とも思われない。
 すでに当時から、市場規模が大きいマグロが「計算したら」対象から外れたのではなく、外れるように計算式を設定したのではないか、という疑念は呈されていた。
 今回、逆のことが起こったと想像することは、不当だろうか?


ドイツのブタ

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 ところで、たとえば生のブタ肉を食べる文化のあるドイツで、この問題はどう扱われているのだろうか?
 ネット上にドイツ食料、農業、消費者保護 省の連邦リスク・アセスメント研究所の発表がある。
 2012年11月付の記事であり、現在の見解を反映していない可能性はあるが、その後の発表は見つけられなかった。

 生の肉にはサルモネラ、カンピロバクター、腸管出血性大腸菌を含む大腸菌、エルシニア、リステリアなどの危険があると述べている(E型肝炎については言及がない)。
 そして、病気になった一歳以下の子どもの30パーセントが生のブタ肉を食べたことがある(対照群では4パーセント)と紹介されている。
 どうもドイツでは、ブタの生肉を一歳以下の子どもに与えるということも行われているようである(どれくらい一般的なことなのかは資料からはわからない)。

 その上で、

 食料由来の深刻な感染から自分達を守るために、特に5歳以下の子ども、妊娠中の女性、高齢者、免疫システムが弱い人は、生の食料を食べることを慎むことが原則です。したがって、これらの人は生のミンチ肉あるいは味付けした(生の)ミンチ肉、生ソーセージ、生乳(raw-milk )および生乳チーズ、生の魚(例えばスシ)および幾つかの魚食品(例えばスモークサーモンやグラブラックス)やその他の生のシーフード(例えば生のカキ)は食べるべきではない。

 と述べている。
 生のブタ肉が、スシや生乳と同列のカテゴリーなのが興味深いといえば興味深い。
 ここから、生のブタ肉だけ切り出して禁止する、ということは、あまりなさそうではある。
 衛生上の理由とはいえ、ここまで範囲を広げられると逆に日本人はびっくりする気もするが、5歳までと言われれば自然だろうか?
 (スシでサルモネラというケースも報告されているようである)
 もちろん、政府が禁止したとして、ドイツ人が素直にそれに従うか、というのは大いに疑問であるが…。


 いずれにしても、日本でも、「禁止」という結論に至るのは止むを得ないとしても、もう少し、生肉食が広がった文化的背景などを調査の上、参加型の政策決定ができたのではないか、という気がするわけである。

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