2013年12月15日日曜日

イースター島で何がおこったか? 新しいシナリオ(NPR)

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What Happened On Easter Island — A New (Even Scarier) Scenario
by ROBERT KRULWICH


面白かったので、紹介します(逐語訳ではありませんのでご注意)。

Easter Island, Rano Raraku, moais
 巨大なモアイ像で有名なイースター島はわずか63マイル四方の島で、次に人間が住んでいる土地にいたるまで数千キロ離れている孤島である。
 これまでの通説ではジャレド・ダイヤモンドが説明している通り、1200年頃にポリネシア人が住み着いた頃は島は鬱蒼とした森に覆われていたが、人間は焼き畑農業でこれらを破壊してしまった。
 ヨーロッパ人たちが島を見つけたときには、島の住民は破壊された環境で惨めな生活を送っており、島の船は流木をなんとか継ぎ合わせたようなものだった、という。
 これをダイヤモンドは「エコサイド」(環境虐殺)と呼び、限られた環境で資源を過剰浪費した社会のモデルケースと考えた。



 しかし、ハワイ大の Terry Hunt と Carl Lipo の研究によれば、この「エコサイド」モデルは大幅な見直しを迫られるらしい。
 第一に、イースター島のポリネシア人たちが大規模な焼き畑をしたという古植物学的な根拠は乏しい。
 島の森林を破壊したのは、彼らがつれてきたネズミが、島の植物の根を食い荒らしたからであるというのが、現在最も確からしい仮説である。
 また、確かに森林が消滅したことによって、多くの植物や鳥類が絶滅に追いやられたが、島に残された人々は特に困らなかった可能性が高い。
 というのも、彼らはこの島の植物を食い荒らして反映した大型のネズミを食べていたからである。
 先史時代のゴミ捨て場から見つかる骨の6割がネズミのものである。また、住民の古い骨を調べても、彼らが栄養失調等で苦しんでいた訳ではないという。
ネズミは、イースター島の(現在のスウェーデンやニュージーランドと同程度の人口密度の)社会を十分に維持できたのである。
 ヨーロッパ人たちがたどり着いたときも、彼らは食料を求めて船に殺到したりはしなかったのである(かわりに、彼らはヨーロッパ人たちの帽子を欲しがった)。
 とは言っても島の吹きさらしの大地は、農耕にとっては大きな問題であった。
そこで彼らは、岩を切り出し、それを大地にまくことによって凹凸をつけるとともに、島のやせた土地に風化した岩からのミネラルが行き渡るよう工夫した。
 その結果として、彼らは確かに深い海で漁をする船をつくるための材木を持たず、島にはココナッツもなかったが、ネズミと野菜でそれなりに十分な生活を送っていたのである。

 では、イースター島の人口減は何故おこったのだろうか? ヨーロッパ人が持ち込んだ病気によるものだったかもしれない。

 これは、一見、「エコサイド」モデルに比べて成功したモデルに思われる。
 しかし、人間の高い適応力は、たとえ自分たちの住む環境を完膚なきまでに破壊してしまっても、それなりにそこで繁栄して行けるのである、ということを考慮すれば、それはダイヤモンドが示したのとは別の「破局的なモデル」と考えるべきであることに注意する必要がある。  地球の未来がイースター島の未来と同じように「破滅的なものでありながら、人々はそれに耐え、イースター島の人々にとってのネズミの肉と岩の庭と同等の何かに頼って生きながらえながら、彼らの神を崇めて石像を作る」というようなものであったら?
 人々は、警鐘を鳴らされないと環境のために行動しないものであるが、新しいモデルは「警鐘はこない」ということを意味している。

 人は知っていることしか知しらないのであり、その祖先がなにを見て、食べて、また愛していたか、すぐに忘れてしまう。
 これは、人々が語るNASAが有名にした、平板な味の惨めな合成ジュースの話のようなものである。
 人々が本当のオレンジジュースの味を知っていれば、合成ジュースはなんでもないだろう。
 しかし、もし50年の航海で本当のオレンジジュースの味を忘れてしまったら、人々はだんだんこの合成ジュースをおいしいと思い始めるだろう。

 彼らが本来持っていた豊かな世界を忘れて、より貧困な環境で生きることを学んでしまったイースター島の人々におこったことは、我々の身にも起こりうることなのである。
 
さて、この最後の感覚はもうひとつ示唆的で、STS研究者(私の以前の上司)の小林傳司さんがよく授業で学生たちに「科学技術への感覚が変わってくる例」としてあげるのが、自分が子どもの頃合成ジュースと果汁100%ジュースの選択肢を示されたら「雑味が無く清潔な」合成ジュースを迷わず選んだが、もちろん今ではそんなことは考えも付かない、という話である。
 もちろん、我々が「すでにパックされた果汁100%ジュース」が安全であると判断して飲めることの背景には、(衛生管理から輸送まで)高度に組織化された科学技術の成果があってのことである。
 一方で、昨今の「自然に帰れ」的な風潮を批判する人でも、どちらかくれると言われたら合成ジュースよりも果汁をそのまま使ったタイプのジュースを選ぶのではないか。
  もちろん、この選択には様々な前提(なにを「自然」としなにを「科学技術」とするのか)が介在しているということであり、そこをきちんと議論することが、「警鐘」を社会的に共有し、政策につなげて行くためにも必要である、ということも考えられる必要があるだろう。


 

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