2017年1月4日水曜日

「脱成長」議論のためのメモ

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 日本ではあまりアカデミックに脱成長を研究している論者がいない一方で、反脱成長論のほうが声が大きい印象がある。
 ただ、この双方は大概の場合、論点がかみ合っていない。
 要するに「成長」支持派はGDPが持続的に増大していくことが大事だと言っていて、それは資本主義というものが「成長産業に資本を投下して、投下した資本が増えて戻ってくる」ことを期待する投資家が投資先を探す、というモデルで作られているから、そこが機能しないと資本主義社会そのものが法界するじゃないか、という危惧を抱いているのであろう。
 (そもそも我が国で「資本家」がリアル・エステートを担保に取らなくても「成長産業を探して投資する」なんていう資本家としての役割を放棄しているからの低成長なんじゃないのか、というツッコミはあり得ると思うが、ここではグローバルな資本主義社会の問題が論じられているということで、置いておく)
 一方、脱成長派は主に「環境の限界」を懸念している。
 人類経済の成長は、環境からの収奪によって成立してきており、先進国ではこれ以上の収奪は生活レベルを上げない上に、地球環境という我々の生活を支える土台そのものを突き崩しているのではないか、ということである。
 なので、脱成長派としては「環境負荷が増大しない形でGDPが上昇したとしても、それは<脱成長>という理念と不整合は起こさない。ただし、そういったことはあまり起こりそうにない(/不可能である)」と考えている、ということになる。
 例えば、指標としのてGDPは不十分だということで、GDPから環境影響(外部経済)を引いた指標を作り、その指標の上昇にインセンティヴが働くようなグローバル経済を構築する、といった「改善案」は考えられる。
 ただ、こういった考え方は「脱成長」原理主義者がいれば、それは改良主義に過ぎないと批判されるだろうし、「成長」原理主義者からもあまりいい反応は得られそうにない気もする。
 それに、そもそもそういった構造を構想することは大変難しい(マルクスやケインズ級の「大経済学者」の登場が待たれるところである)。
 とりあえずは国際的な環境課税の制度をつくってしのぐ、というのは当面の目標になるだろうが、おそらくそれだけでは十分とは言い難いだろう。
 成長主義者は「GDPの成長と環境保護がニュートラルないし相乗効果を得られる経済領域はいっぱいある」と主張するかもしれない。
 特に相乗効果が得られるところが「グリーン・エコノミー」と呼ばれるが、はたしてグリーン・エコノミーが世界経済を支えられるほど大きくなるか、というのも疑問である。
 ニュートラルな経済になりうる領域の例として、情報、サービス、イノベーション産業などが考えられる。
 昨年、『認知資本主義』という本の出版に関わらせていただいたが、これはまさに「認知資本主義」の領域の話である。

 しかし、これらの産業は富の偏在を加速させるのではないかという疑念を払拭できない。
 かつて、アンディ・グローヴなども述べていた通り、典型的なテック企業は収益あたりの雇用者数は伝統的な工業より少なく、また技術が進むごとにその傾向は加速する。
 もちろん、Apple のような企業がFoxconnに代表されるアジアの企業に委託している分を含めれば、グローバルには少なくない仕事が生じているわけだが、この部分は伝統的な「環境影響を無視できない伝統的な工業」である。
 また、かつてフォードやトヨタで働く工場労働者は「熟練工」として扱われたが、技術の発達によってこれらの人間が行う作業は非熟練労働としての側面を強め、賃金はそれにともなって低下している。
 この先、さらに技術がいらなくなるのか、そもそも人そのものがいらなくなるのか、いずれにしてもイノベーション部分を担う「高級人材」と、それ以外の人材の給与格差が(なんらかの介入がなければ)拡大するという予測されよう。
 (また実際は、ちょっとした「名声」の差で、認知的生産を担う人材の間の格差も容易に増大する)
こう考えると、我々は、成長、環境、再分配(/労働分配率)というトリレンマを抱えているように思われる。
 成長を環境負荷の少ない経済領域に特化して行うことは可能に思われるが、その場合は労働者一般の所得は犠牲にされるであろう。
 成長を伝統的な工業の振興で行うことは、少なくとも一国レベルではある程度追求できるかもしれない(このあたりはトランプ政権が挑戦することになるだろう)が、その場合は環境に大きな負荷がかかる(また、グローバル経済にも大きな負荷がかかるかもしれない)。
 だとすれば、最後の環境と再分配を重視するという選択肢は可能だろうか?
 おそらく「脱成長」はここを重視している、ということになる。
 これは、三つの選択肢の中では、おそらく最も困難な道であるが、例えば地域通貨や連帯経済といった手法やキャッチフレーズにはこの目的がビルトインされている。
 ただ、「連帯」経済といったときに明らかなように、この分野はある種の社会的信頼(社会関係資本と言い換えてもいい)が不可欠である。
 一方、現在のグローバル経済はこの「連帯」を徹底的に排除するような、相互不信の極大化によって維持されている。
 この転換が容易ではないことは明らかであり、もしかしたら不可能かもしれない。
 (ブラジル労働者党政権の崩壊やべネズエラ経済の失敗を見れば、南米の左派政権はこの部分に挑んだが、総じてみれば退潮期に入っているように見える。一方、ポデモス、シリザ、コービン労働党や大統領選におけるサンダース旋風は、この流れを先進国が引き取って進めるときである、という可能性を示唆しているようにも見える)
 アイディアとしては、衣食住や日常的な楽しみ(イヴァン・イリイチのいう「コンヴィヴィアル」な領域)は定常経済で維持し(グローバルにはわざと互換しにくくした地域通貨と、エクアドルとベネズエラが提唱していたような貿易を管理する新国際通貨などで担い)、認知資本主義領域はグローバル通貨(Bitcoin的なものになるかもしれない)で行い「贅沢をしたい人は後者を稼げる」みたいなモデルは構築可能かもしれない。
 まぁ、いずれにしてもいろいろな可能性があるので、「脱成長」研究というのは今後注力が必要であり、政策的意義も環境課税などの領域に認められるべきであろう、と思う一方で、「脱成長路線でいけば問題はないので、労働運動や財政出動が必要なくなる」という段階ではないのも明らかである…というあたりから議論を始められないものだろうか?