NHKが「“奨学金破産”追い詰められる若者と家族」という報道特集をウェブに掲載している(対応する番組があったのかもしれないが、見ていない)。
しかし、タイトルに反して、本質的には「自己破産」が問題ではなく、自己破産できないかもしれないことが問題になるべきであろう(記事は、実際は後半でその問題に触れている)。
「借りたものは返すのが当然」は儒教的な道徳としてはありかもしれないが、「資本主義の倫理」としては合理的ではない。
これは、奨学金以外でも、あらゆる経済活動について言えることである。
つまり、経済活動には一定のリスクが伴うのであり、普通以下の資産をもつものが利益を確保するために一定の時間を必要とする活動に乗り出すためには、このリスクをどう裁定するかという観点が欠かせない。
高等教育は、利益の確保まで長い期間(日本では標準的には四年)と巨額のコスト(授業料や生活費)がかかる。
コストをある程度政府が負担するとしても、期間に関しては誰かが肩代わりするというわけにはいかない。
ミルのような自由主義という立場にたてば、リスクを適正に裁定してあげることができれば、貧困層にもチャンスが訪れるし、リスクを取る人が増えることは社会を進歩させる、とかんがえられるのである。
こうした思想は現代のヴェンチャー・キャピタルでも同様であり、つまるところ「アイディアを持った個人にリスクを負わせないため、リスクを分散する仕組み」がヴェンチャーなのである。
こう考えると、自由主義と「借りたものは返すのが当然」といった「自己責任信仰」との違いは明白であろう。
ミルが晩年、自分を「社会主義者」と規定したのも、まったく故なきことではない。
これは、教育の経済についても同じことが言えるだろう。
なんらかのリスクを取って社会を向上させる力をえること奨励し、個人が負えない以上のリスクについては社会的に分散させるという仕組みがなければ、社会全体の知識やスキルの蓄積は行われない。
これは、貴方が「医者や看護師を目指す高校生」だろうがイーロン・マスクのような世界経済の主要プレイヤーであろうが、原理的には同じことである。
したがって、社会が「起業して、上手く行かなければ会社を精算すればいいし、教育を受け、上手く稼げなければ破産すればいい」と言えることは大事である。
これを日本社会において阻んでいるのは、明らかに連帯保証という制度である。
NHKの番組でも触れているとおり、親族などへの連帯保証は、経済プレイヤーとしての「奨学金受給者」が事態をやり直すことを阻む。
また、企業でも、経営者やその親族が土地を担保に入れたり連帯保証をすることで、収益的に成立していないにも関わらず倒産もさせられないという企業がある。
企業の倒産によって産業構造の新陳代謝が行われないことや、事業の収益性ではなく、担保や連帯保証の有無が融資を決するという自体が、日本の経済構造を硬直化させ、給与も低く抑える効果があるだろう。
なので、私は最低賃金の引き上げに賛成だが、同時に連帯保証の連鎖のようなものから経営者の親族の個人資産を救済する措置を講じる必要があるかもしれない。
(たぶん、「直接的な経済利益を得るわけではない人の連帯保証契約は無効である」というような判例があるといいのかもしれない)
結局のところ、経済的利益を直接的に被らない人が「連帯保証」をするという構造が資本主義を歪めるのである。
「資本主義」がリスクのマネージメントのためのものであるという思想的前提を理解せずに、うわっつらだけ模倣してローカライズされた「日本型資本主義」が行き詰まっているとも言えるだろう。
21世紀においても、自己責任の名において、活動を行う個人がリスクを追うことが美しい、と信じられている状況は、ジョン・スチュワート・ミルを草葉の陰で憤激させるに十分であろう。
問題は、「誰がリスクをマネージするのか」ということであり、日本社会はこれを再デザインする必要がある(その仮定で、リスクの再分配を阻害するような「巨大なモンスター」こそが精算されるべきかもしれない)。
企業活動については、出資者がリスクを「自分が負える範囲で」負うべきであり、教育に関しては「費やされる若さ」以外のコストは政府が適切に税金を徴収し、それを利用して裁定すべきであろう。
しかし、タイトルに反して、本質的には「自己破産」が問題ではなく、自己破産できないかもしれないことが問題になるべきであろう(記事は、実際は後半でその問題に触れている)。
「借りたものは返すのが当然」は儒教的な道徳としてはありかもしれないが、「資本主義の倫理」としては合理的ではない。
これは、奨学金以外でも、あらゆる経済活動について言えることである。
つまり、経済活動には一定のリスクが伴うのであり、普通以下の資産をもつものが利益を確保するために一定の時間を必要とする活動に乗り出すためには、このリスクをどう裁定するかという観点が欠かせない。
高等教育は、利益の確保まで長い期間(日本では標準的には四年)と巨額のコスト(授業料や生活費)がかかる。
コストをある程度政府が負担するとしても、期間に関しては誰かが肩代わりするというわけにはいかない。
「資本主義の母国」イギリスで、1844年に成立したジョイント・ストック・カンパニー法と、1855年に成立した有限責任法は、資本主義の歴史の重要な転換点である。
このアイディアはシンプルで、要するに人々が株などに出資する形で成立させた「法人」としての株式会社に契約などの経済活動を可能にさせ、出資者はその出資額以上の「責任」を追わなくてすむ、ということである。
これにはもちろん負の側面もあり、反対者たちは図体が大きくて影響力があるにも関わらず無責任な化物が誕生してしまう、と考えた(挿絵参照 Wikipedia から)。
例えば、この会社が火事を起こしたり有害物質をばらまいたりして社会に大きな被害を与えたとしても、会社が精算されてしまえば被害者はそれ以上誰の責任も(少なくとも民事的には)追求できない、ということになる。
こうした危惧を抱いたのはどちらかといえば「保守的な」人々である。
一方で、ジョン・スチュアート・ミルに代表される自由主義者(リベラル)たちは、富裕層に独占されていた企業活動が、この法律によって貧困層にも開放されると考え、このアイディアを大いに支持した。このアイディアはシンプルで、要するに人々が株などに出資する形で成立させた「法人」としての株式会社に契約などの経済活動を可能にさせ、出資者はその出資額以上の「責任」を追わなくてすむ、ということである。
これにはもちろん負の側面もあり、反対者たちは図体が大きくて影響力があるにも関わらず無責任な化物が誕生してしまう、と考えた(挿絵参照 Wikipedia から)。
例えば、この会社が火事を起こしたり有害物質をばらまいたりして社会に大きな被害を与えたとしても、会社が精算されてしまえば被害者はそれ以上誰の責任も(少なくとも民事的には)追求できない、ということになる。
こうした危惧を抱いたのはどちらかといえば「保守的な」人々である。
ミルのような自由主義という立場にたてば、リスクを適正に裁定してあげることができれば、貧困層にもチャンスが訪れるし、リスクを取る人が増えることは社会を進歩させる、とかんがえられるのである。
こうした思想は現代のヴェンチャー・キャピタルでも同様であり、つまるところ「アイディアを持った個人にリスクを負わせないため、リスクを分散する仕組み」がヴェンチャーなのである。
こう考えると、自由主義と「借りたものは返すのが当然」といった「自己責任信仰」との違いは明白であろう。
ミルが晩年、自分を「社会主義者」と規定したのも、まったく故なきことではない。
これは、教育の経済についても同じことが言えるだろう。
なんらかのリスクを取って社会を向上させる力をえること奨励し、個人が負えない以上のリスクについては社会的に分散させるという仕組みがなければ、社会全体の知識やスキルの蓄積は行われない。
これは、貴方が「医者や看護師を目指す高校生」だろうがイーロン・マスクのような世界経済の主要プレイヤーであろうが、原理的には同じことである。
したがって、社会が「起業して、上手く行かなければ会社を精算すればいいし、教育を受け、上手く稼げなければ破産すればいい」と言えることは大事である。
これを日本社会において阻んでいるのは、明らかに連帯保証という制度である。
NHKの番組でも触れているとおり、親族などへの連帯保証は、経済プレイヤーとしての「奨学金受給者」が事態をやり直すことを阻む。
また、企業でも、経営者やその親族が土地を担保に入れたり連帯保証をすることで、収益的に成立していないにも関わらず倒産もさせられないという企業がある。
企業の倒産によって産業構造の新陳代謝が行われないことや、事業の収益性ではなく、担保や連帯保証の有無が融資を決するという自体が、日本の経済構造を硬直化させ、給与も低く抑える効果があるだろう。
なので、私は最低賃金の引き上げに賛成だが、同時に連帯保証の連鎖のようなものから経営者の親族の個人資産を救済する措置を講じる必要があるかもしれない。
(たぶん、「直接的な経済利益を得るわけではない人の連帯保証契約は無効である」というような判例があるといいのかもしれない)
結局のところ、経済的利益を直接的に被らない人が「連帯保証」をするという構造が資本主義を歪めるのである。
「資本主義」がリスクのマネージメントのためのものであるという思想的前提を理解せずに、うわっつらだけ模倣してローカライズされた「日本型資本主義」が行き詰まっているとも言えるだろう。
21世紀においても、自己責任の名において、活動を行う個人がリスクを追うことが美しい、と信じられている状況は、ジョン・スチュワート・ミルを草葉の陰で憤激させるに十分であろう。
問題は、「誰がリスクをマネージするのか」ということであり、日本社会はこれを再デザインする必要がある(その仮定で、リスクの再分配を阻害するような「巨大なモンスター」こそが精算されるべきかもしれない)。
企業活動については、出資者がリスクを「自分が負える範囲で」負うべきであり、教育に関しては「費やされる若さ」以外のコストは政府が適切に税金を徴収し、それを利用して裁定すべきであろう。
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