【「(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…」からの続き】
シャルリー・エブド誌に関して、世俗主義という観点から擁護する声と、やりすぎだと批判する声が錯綜している。
私は先の文でも触れたとおり、基本的には「世俗主義」が全てではないと思っており、言論の自由にもなんらかの制限は必要である、という立場である。
しかし、「節度」とは何を持ってであろうか?
「人を傷つけない」というような抽象的な定義ではおそらく不十分だし、そういった抽象的な定義は通常マジョリティ、また
マジョリティの持つバイアスを利用した権力者に都合のいいジャッヂになりがちだ、ということは歴史が教えてくれるであろう。
もちろん、いかなる場合でも人の命を奪うことによる解決には賛同しない(従って、シャルリー誌の襲撃にも賛同しないが、報復であるかのように強化されるイスラム原理主義勢力への空爆やドローン攻撃にも賛同しない)。
しかし、シャルリー誌に対する連帯の言葉が "Je suis Charlie "だったことには若干の困惑を覚えざるを得ない。
"Je suis Charlie "が、スタンリー・キューブリック監督による有名な映画『スパルタカス』のなかのセリフ"I'm Spartacus"を意識していることは疑いを得ない。
これは、映画の中で氾濫奴隷たちにローマ帝国が「スパルタカスを差し出せば他のものは免罪する」と宣言し、その応答としてスパルタカス周りの奴隷たちが口々に「我こそはスパルタカスだ」と叫ぶ、というものである。
"I'm Spartacus" の含意するところは、スパルタカスを殺すなら我々すべてを殺せ、ということである(そして、映画の中でローマ帝国はこれらの奴隷たちをスパルタカスもろとも処刑していく。これは「トロッコ問題」の否定でもある)。
これを今回のケースの合言葉にすることは、確かに「私はあなたの言うことが間違いであると思うが、あなたの発言の権利は命をかけても守る」という(通常ヴォルテールに帰される)言論の自由の理念を適切に示しているようにも思われる。
その一方で、果たして誰がスパルタカスなのだろうか、という疑念も想起させる。
つまり、普段から人類文明の守護者としてローマ帝国の後継者、というイメージをフランスという国家がふりまいてきた、ということを想起するまでもなく、シャルリー誌の作家たちと、襲撃者を比較した時、どちらがよりローマ市民的であり、どちらがより蜂起したトラキア人奴隷であるか、という疑念は拭いがたい。
また、各国の指導者たちまでがあたかも常にシャルリー誌の側にいたかのように振る舞い出したのも滑稽であろう。
このこと自体は、襲撃を免れたシャルリー誌の寄稿者も指摘していた。賛同できる指摘であるように思う。
国民戦線はこの「国民的」なデモから外されたようだが、しかし、そこにヒトラーが加わっていないからといって、エーベルトやヒンデンブルクが参加するデモに加わって喜ぶスパルタカスがあるだろうか?
従って、無限定の言論の自由に賛同しない、という立場をとるにしても、それがどのような根拠に基づいて、どのように制限されるべきか、というのは慎重に考慮する必要があるよう思われる。
一つには、マイノリティ集団(の定義はここでは論じない)に対する暴力を奨励、誘発するようなものはヘイトスピーチと呼んで制限しよう、というものである。
これは、現状では最も共有された言論の自由の制限の根拠である。
しかし、キリストや預言者ムハンマドに対する涜神は、ヘイトスピーチであろうか?
実際は、これらが問題であるというのは、実は問題の根源ではないのではないか、というのがまず主張したいことである。
もちろん、預言者ムハンマドの冒涜は、ひとつのサインであり、そのサインは間違いなく「ある社会がイスラムに対して排除的/ exclusiveである」ことを指し示している。
しかし、預言者ムハンマドへの冒涜がなくなればイスラムを尊重する社会が来るのでもなく、またおそらくイスラムが尊重される社会が来ればムハンマドに対する涜神がなくなるのですらない。
多文化主義的で肝要な社会では、ムハンマドに対する涜神は社会的排除のサインではなくなる、という状況が目指されるべきなのである。
そういう意味で、この事件前からシャルリー誌の読者だったわけではない(フランスでそういった風刺新聞が人気だ、ということを知っていた程度)ので、後知恵になるが、シャルリー誌に掲載される風刺画の例として現れた画像の中で、特に気になっている風刺画がある。
※シャルリー誌の公式Facebook アカウントが閉鎖れたようなので、同じ画像をネット上から拾いました(2016/03/06 追記)。 |
この風刺画では、「怒れるボコ・ハラムの性奴隷たち」と描かれた背景の前でイスラム風の服装をきた女性たちが "Touchez pas a nos allocs!"(私たちの給付に触らないで)と叫んでいるというものである。
この風刺画は、明らかに無関係な二つのテーマを(もちろん「イスラム」という共通点ゆえに)結びつけようとしているように見える。
つまり、第一に、日本でもよく知られた、西アフリカで勢力を拡大しているイスラム原理主義勢力ボコ・ハラムによって現地の(多くの場合キリスト教徒の)若い女性たちが誘拐され、(場合によっては改宗させられ)性奴隷にされた、という問題である。
西アフリカの問題は、宗教対立でもあり、また一方で人口に勝るキリスト教系農耕民が政治権力を握り、それに対してイスラム教が多い遊牧系の民族が反政府運動を展開し、それをアルカイダ・ネットワークが取り込んできた、というような面もあり、単純に「宗教対立」としていい問題ではないが、それでももちろんイスラム教原理主義という問題が介在している(彼らが暴力の正当化の根拠をイスラム主義においている)のは事実である。
一方、もちろんそれらの「ボコ・ハラムの性奴隷」が社会給付を要求できるはずもなく、「私たちの給付に触らないで」と言っているのは、フランス国内のムスリムであるとイメージさせている。
つまり、フランスでは、特に子育て世代に豊富な社会給付があることで知られているが、移民は全般に子沢山であり、その給付を(「真面目に働いた高収入の白人たちが納めた税金を財源に」)過剰に受給している、ということであり、これはまさに国民戦線の言い草である(日本でも生活保護の不正受給という言説があるとおり、登場するキャラクターが変わるだけで、極右の作る物語は呆れるほど相似している)。
従って、この「風刺画」は、控えめにいっても事実関係がまったくめちゃくちゃであり、そしてそのめちゃくちゃな表象の提示が意図することは、ムスリムは世界に混乱をもたらし、「我々」の財を不当に奪っていく、ということであろう。
これは、世俗主義の原理主義化とでもいうべきものである。
ここで問題になるのは、まずボコ・ハラムの犠牲者の主体はまったく忘却されているということである。
同様に、フランスに住む子育て世代の移民が(こうしたヘイトスピーチが横行することによって)抱えている困難への想像力もまったく欠如しているように見える。
もちろん、ボコ・ハラムやイスラム国/ISILが現地で生活する女性たちにとって大きな脅威であるということは間違いがない。
しかし、それを(教皇やオランドに対するのと同様に)風刺し、「敵」として描くことで、あたかも自分たちがその「敵」の「敵」であるように振る舞うこと、またそうした振る舞いの中で現地の(現地の原理主義と世俗の原理主義の中で二重に消された)主体を無視することを正当化することは断じて許されないであろうし、それが言論の自由の目的であるということには絶対にならないであろう。
ボコ・ハラムの犠牲者の声、フランス国内の少数派移民の声を聞くための、多声的な社会を作り上げるための風刺とはいかなるものであるのか、ということからまず考える必要があるのであり、そのためには「言論の自由の擁護」だけでは不十分であり、また「言論の自由を擁護する、しかしその一方で(空爆のような)暴力を行使することを正当化する国家指導者たちを擁護する」ことでは断じてない。
その一方で、曖昧な「節度」というような言葉で言論の自由が制限されることも適当ではなく、むしろこれまで声を上げてこなかった様々な主体が、多声的に声を上げられる社会を目指すためにこそ、風刺を活用していくことが必要である、ということを再確認すべきであろう。
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