2019年5月15日水曜日

なぜ人文・社会系博士を増やさないといけないと考えられたか、について

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 "人文諸学の再興(と、多少はそこで食っていけるはずの人々)のために"の続き、的な。。


 もう一つ、博士号取得者を増やすという直接の動機がバイオを中心とした「実用性の
高い」分野での国際競争力を増す、ということであったのは間違いないが、決して文系諸分野では増やさなくていいということだったわけではない。
 現在、社会は高度に複雑化しており、IT化などに応じて発生する様々な社会問題もある。もちろん、気候変動などの環境問題は深刻であり、これらは一義的には「科学」の問題だが、対応するためには法律や倫理、経済の問題を考慮しなくていいわけではない。要するに、様々な知識が専門化してきているわけである。




 そういった中で、例えば貧困や環境に関する国家間折衝が気候変動枠組条約や生物多様性保護条約の締約国会議という形で行われ、大々的に報道される。また、貧困や格差の問題はG20やWTO閣僚級会議の際に世界中からNGOも大挙して集まってきて議論がされる。この時、議論に参加しているのは政治家、各国ごとや国際機関の官僚、そしてNGOで働いている人たちということになるが、これらの人々は現在、かなり高い割合で修士号以上の学位を持っている。


 「学位を持っていると出世できる」という風に考えるとなかなかうざったい世界であるが、実際は「キャリアが多様化し、流動性が高まった」ということでもある。すなわち、大学卒業後ある企業や官庁、NGOで働き、何らかの問題に対する関心が高まったらその問題について研究できる大学院に進む。大学院で世界中の専門家と議論したり、フィールドワークを行ったりして専門知識を磨く。その上で再び現場に戻ったり、「より自分の関心に沿う別の働き方」を選んだり、といったことができる。その先でまた課題にぶつかったら大学院に戻り、といった形で「世間」と「学林」の間をいったりきたりするといった生き方が重要になりつつあるわけである。


 なぜ大学が重要かというと、そこでは公開性や無私性、普遍性が重視されるからである。実のところこういった(所謂マートン的な)倫理観は過去のものになりつつあるという見方もあるが、それでもまだ社会の他のところに比べれば建前としては機能している。もしあなたが西側諸国の官僚であれば、ロシアやイランの官僚に対して透明性を保つことは職業倫理に反する可能性がある。一方、もしあなたが研究者や大学院生として議論に参加しているなら、相手の国籍がなんであれ、秘密を作ることが職業倫理に反するのである。こうして、国際的な議論は醸成されていく。


 ところが、日本からの国際的な会合への参加者だけは、学部卒であり、また一つの組織でしか働いたことがない。「気候変動の会議に参加しているということは、あなたは環境法の専門家なのですか?」「いえ、法学部卒なので、特に論文は書いていませんし、今の部署は2〜3年で移動になります」といったことが起こりうるわけである。他の国の代表団が「日本は議論に参加する気があるのか?」と疑ったとしても当然であろう。


 これが、環境、貧困、ジェンダー、民族、紛争、国際法、心理学、等々でも学位を持った専門家を増やさなければいけない事情である。なので、単純に看板としての「学位」が増えるだけでは十分ではなく、所属組織ではなく「問題(Issue)」に置いて一貫したキャリアを構築し、国際的な学術的・専門的コミュニケーションに参画している「学位保持者」を増やさなければいけない、ということである。



 しかし、日本では、仮に博士号保持者が増えたとしても、

・官僚機構には政治任用制度がほとんどなく、霞ヶ関的な決定プロセスにおいて、外来の学位保持者は周縁的な地位に止まらざるを得ない(しかも時給千円強の非常勤だったりして、その金額で「国際的な学問コミュニティーに継続的に参画する」ことは難しい)。


・NGOはキャリアパスとしては限定的で、ポストも少なく、あったとしても極めて安く、これまた「国際的な学問コミュニティーに継続的に参画する」ことは難しい。


・企業は、自前で状況(「例えばなぜ海外の投資機関が石炭火力への投資をやめ始めているか。そのリスクはどう見積もられているか」といった)を分析することにあまり関心がない。グローバルな社会・経済構造の変化をキャッチアップすることよりも、名刺の渡し方や印鑑の角度の方が重要であれば、博士号保持者を雇用するインセンティヴは事実上発生しない。


 という状況で、そういった雇用が増えるはずもないであろう。


 一方、こうした構造では、世界の議論についていくことはできなくなる、という危機感が、少なくとも1990年代の後半に発生していたわけで、それがバイオなど経済的なゲインの大きい分野以外でも「大学院生・博士号保持者を増やす」という決断につながっていたはずである(少なくとも私はそう理解していたので、サイエンスショップなどの仕組みの議論に関わっていた)。


 こうした議論は、鳩山政権が崩壊し、官僚機構がその権限と、「終身雇用」による強固に結束したコミュニティを手放すつもりはないと分かった時に急速に終息に向かったように思う。


 終身雇用性からの転換と「ジョブ型」というのは、本来こういった話にしないといけないわけだが、今のところは「人件費を維持したくて終身雇用にこだわる」か「人件費を切り下げたくて終身雇用の廃止」という二択しか労働者一般には選択肢が提示されていない。もちろん、その二つであれば私は前者の方が遥かにマシだと思うが、それを続ける限り日本が国際的な議論をキャッチアップする能力は刻一刻と減退していくだろう、ということも疑っていない。


 この時にどうするか、という問題を、今一度(90年代後半の議論までさかのぼって)行うべきであろう、と思う。

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