2019年3月16日土曜日

コカイン中毒は本当に社会問題の本質なのか?: 視点の多様性のために、カール・ハート博士の議論から考える

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 電気グルーヴのピーエル瀧氏がコカインを使用していたという嫌疑で逮捕された。報道によれば、瀧氏は何十年もコカインを利用し続けていたと供述しているという。一方、瀧氏の仕事ぶりや社会生活は総じて評判の良いものであり、一般的にイメージされる「薬物中毒」患者の姿とは大きく異なっているだろう。しかし、実際はマリファナはもちろん、ハードドラッグを利用していても万人が深刻な「中毒状況」に陥るわけではない(一方で、合法である酒でも、社会生活に支障のある中毒症状を呈することはあるわけである)。この問題に関しては、五年以上前の Democracy Now で、コロンビア大学のカール・ハートのインタビューが放送され、興味深い内容だったので、古い番組ではあるが、ここに紹介してみたい。

 “Drugs Aren’t the Problem”: Neuroscientist Carl Hart on Brain Science & Myths About Addiction






 Dr. Carl Hart はコロンビア大学で神経科学を研究する准教授であり、薬物乱用に関する National Advisory Council のメンバーである。同時に、アフリカ系アメリカ人として初めて名門コロンビア大のテニュア(終身在職権)を得た人物である。そして、彼は著書 "High Price: A Neuroscientist’s Journey of Self-Discovery That Challenges Everything You Know About Drugs and Society." (『高値:ドラッグと社会に関してあなたが知っている全てを覆す神経科学者の自己発見の旅 』)などで、ドラッグそのものが問題な訳ではない、と述べている。
 ハート博士自身が、フロリダ州の貧困地域の出身で、苦学して学問を修めたという経歴の持ち主である。当初、高校のバスケットボール選手として成功した彼は、そこから奨学金を得られることを期待していたが、残念ながらそれはかなわず、奨学金を得るプログラムのために空軍に入隊し、空軍の基地内にキャンパスを持っていたメリーランド大学に進学した。空軍では主にイギリスに駐留しており、そこで放映されていたアメリカの人種差別の歴史等のテレビ番組から多くを学ぶことができた、と述べている。帰国後はノースカロライナ大で学士、ワイオミング大で博士号を取得し、ポスドクとしてカリフォルニア大やイェール大などを転々とした後、コロンビア大に着任する。決してエリートコースとは言いがたいキャリア・パスであるが、その彼にコロンビア大はテニュアを出したということになる。

 その彼によれば、しばしば「薬物の乱用により荒廃したコミュニティ」という言い方がされるが、ドラッグは、少なくとも酒が問題の根幹ではないのと同程度には問題ではない、という。しかし、彼自身も、23年間こうした薬物を研究してきたうちの20年間、こうした言い方を信じてたのであり、根深い誤解であるという。しかし、実際はクラックやコカイン、ヘロイン、メタンフェタミン(覚せい剤)、マリファナなどの利用者の8割から9割は中毒にはならない。これは、例えばアルコール常用者の10%から15%が中毒患者になるというのと比較して、さほど大きな違いがあるとは言えない。アルコール常用者の多くが、毎日ワインを飲みながら、問題なく彼らの仕事を続けているのと同様のことが、他の薬物でも可能である。例えば、ロブ・フォード(トロント市長)やマリオン・バリー(元ワシントン市長)は薬物を常用していたが、職務を問題なくこなしていた。有権者は、バリーが薬物利用で有罪判決を受けた後に、彼を再選させた。少なくとも多くの有権者が、バリーの市長としての仕事ぶりに不満や不信を持っていなかったのである。最近三代の大統領(ここではクリントン、ブッシュ Jr.、オバマ)も非合法のドラッグの経験があるが、彼らの判断力は打撃を受けなかった。
 では何が人々を「依存症」にするのか? 実際は、多様な原因が介在してるのであり、個別事情を丁寧に見ていかなければいけない。鍵になるのは、コミュニティにおける貧困、薬物政策、職のなさといった幅広い(社会的な)問題なのであって、薬物乱用は多様な問題の構成要素にすぎない。この点で、薬物依存に関する動物実験はさほど参考にはならない。
 そして、こういった事実は科学的には60年以上明らかだったのであり、にも関わらず多くの医師や科学者、政策担当者は「アルコール依存は社会的問題である一方で、マリファナやコカインの依存はそれらの物質そのものに原因がある」という立場を崩さなかったわけである。


 ただし、カール・ハートのような認識は徐々に定着してきており、これが多くの先進国の方向性となってきている「ドラッグの非犯罪化」アプローチの基盤になっている。ドラッグそのものが問題なのではなく、ドラッグが依存症を引き起こすとすれば、その個人ないしコミュニティには、より深刻で複合的な問題が隠れているのである。そのことを「問題を抱えているドラッグ・ユーザー」が積極的に誰かに相談できる環境があることが重要なのである。逆に、これまでの「ダメ。ゼッタイ。」式の反薬物キャンペーンや重罰化では、問題を解決するよりも覆い隠し、問題を抱えた人々を排除することになる、ということである。
 一方、我が国での「薬物犯罪」に関する(メディアや社会一般の)認識は依然として、「意思が弱く、非道徳的な人物が陥る非道徳であり、また一度利用してしまったらその科学的な"中毒性"によって更生は極めて難しいため、利用したものに厳罰を課し、それを世間に晒すことによって"まだ薬物中毒になっていない潜在的利用者"をおどしつけ、薬物から隔離しなければいけない」というパラダイムが主流である。こうした認識は改めていく必要があるだろう。
 

 ところで、この話には重要な論点が三つある。
 第一に、未だにアフリカ系アメリカ人の科学者が少ないこと。もちろん、アメリカは実力主義の社会で、ハート氏のような貧困地区に生まれる人々にもチャンスがある。ハートはその格好の事例である、という言い方はできる。その一方で、まだ40代のハート氏が「初のテニュア」であることからもあきらかなように、アフリカ系アメリカ人で科学者になる人はまだまだ少ない。
 大学授業料の高騰化は世界的な潮流である。「良い大学」への進学者の親の所得はそれぞれの国の平均を大きく上回り、経済格差が学歴の格差に直結するというのは世界共通の問題になっている。米国では、様々な奨学金が整備されていると言われるが、貧困層・マイノリティ層が容易にアクセスできるものは限られており、スポーツ奨学金と軍務に就いたことによる奨学金はその一例である。軍が奨学金を提供することには貧困層を狙った「経済徴兵制」であるという批判もある。また、軍の奨学金は軍務と学業の双方を高いレベルでこなす必要があり、そうでないと結局軍の勤務も中途半端に終わり、奨学金も十分に支給されず、退役後には借金が残る、という事情もあると聞く。カール・ハート博士のような成功例は決して一般的ではないのである。
 こうした「進学格差」は日本でも近年注目されるようになってきている。また、「経済徴兵制」も決して荒唐無稽な話ではない、ということも注意しておこう。



 この格差構造は(ハート氏がインタビューで述べているとおり)薬物に関する議論等にも多いに影響しているであろう。これが第二の問題である。貧困エリアは『薬物によって駄目になっている』的言説は、実際は極めて複雑な社会・経済的な問題を極めて単純化する機能を持っている。貧困・マイノリティ地区には違法ドラッグが蔓延しているのであり、その責を「違法ドラッグを利用する意志の弱い、あるいは倫理観の欠如した」マイノリティのせいにするか、あるいはそれを「食い物にしている」マフィア集団のせいにするか、善意のマジョリティは好きな言説を選ぶことができる。後者であれば、我々は「ギャング集団と戦うために警察力を強化し、街の安全を高める」政策を選ぶかもしれない。これはおそらく「善良な中産階級のためでもあり、また、少数ながら存在しているであろう善良な貧困層・マイノリティ層のためでもある」と自己正当化できるだろう。しかし、実際はこうした視点は極めて乱暴なものであり、「違法ドラッグ問題」(として認識されている問題)の本質的な解決にならないばかりか、強化された警察権は、貧困・マイノリティの日々の暮らしを圧迫することになるだろう。
 ハートが述べているように、アルコールと違法ドラッグの違いが、せいぜい相対的なものに過ぎないというのは「科学的データ」のレベルとしては数十年前から明らかであった。しかし、科学者たちはその事実を直視し、必要なのは「違法ドラッグの利用に重罰を科すことではなく、様々なレベルのソーシャル・ケアの能力を向上させることだ」と提言することを避けてきた。この点で、科学は抑圧の主体ではないにしても、共犯者だ、とハートは述べているのである。
 とはいえ、このハートにインタビューはわずか五年ほど前のものだが、その頃から比べても、欧米の専門家の認識は大きく変わってきているように思われる。多くの国で大麻の利用は合法化ないし非犯罪化され、ハードドラッグに関してもかつての厳罰主義は修正されつつある。日本においてこういったアプローチに対して世論はもちろん、政府やメディアが十分に配慮せずに、いまだに厳罰主義が先行しているように見えるのは、大きな問題であろう。


 そして最後に、本稿で議論したいのは、それにカール・ハートが気がつき、挑めたという「マイノリティ科学」の問題である。
 つまり、「科学は客観的だ」という言明に対して、しばしばマイノリティのみが知ることがあり、それらの科学(女性の科学、アフリカ系アメリカ人の科学、先住民の科学)があり得るのではないか、という主張がされてきたが、この是非という問題である。
 そういった主張を「科学の相対主義」と呼ぶ。相対主義にはいくつかのレベルが想定できるが、ここで議論したいのは、その極めて弱い変種である。つまり、宇宙の真理が一つであるかに関わらず、人には自分の経験や利害に応じて気付きやすいこと、気付きにくいことが存在している、ということである。こうした差異は、少なくとも知識を社会的・政治的に応用するような場合に大きな問題になりうる。
 ハートは、貧困層の多いマイノリティ地区に生まれ、コロンビア大学のテニュア教員になったとう、要するにそういった「文化の壁」を横断した人物である。また、興味深いことに、インタビューの中で「軍人として英国に滞在中に、そこで提供されている多くの公共プログラムからアメリカ合衆国における人種差別の歴史について学んだ」と述べている(「英国人はアメリカの人種差別を批判するのに全く遠慮がなかった。彼らがそれを自分たちの問題と考える必要がないからだろう」)。
 そういった多様な視点を経験する中で、ハートが違法ドラッグに関する視点を深めていったのは間違いがないだろう。これは、神経科学の問題であると同時に、社会性を持った問題なのである。大学が多様性を持たなければいけない真の理由はここにある。世界のことを知りたければ、多様な経験や文化を持った人間が集まり、自分自身のバイアスの存在を見直すことに率直になって議論を積み上げなければいけないのである。日本の大学でも「女性の進出」や「国際化」が主張されるが、もしそれらがインパクト・ファクターや経済効果、学位取得者の収入といった狭い視点からのみ評価されるのであれば、アメリカ合衆国の大学文化の競争相手となることは難しいであろう。

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