2019年3月7日木曜日

塩素とゴールデンライスはどの程度「危険」なのか? (パトリック・ムーア氏の動画への応答として)

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 上の動画とその翻訳”『動画「私がグリーンピースをやめた理由」を訳してみた”が話題になっているようで、私が多少なりと責任を負う領域なのかなぁ、と思うのでブログ書きます。まぁ、いつも書いていることとさほど変わらないのですが…。

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 グリーンピースを辞めた後にグリーンピース批判をずっと続けているパトリック・ムーア氏のインタビューが話題になっていた。この人に関しては、非常に明快な語り口で、重要なことも言ってないこともないし、考えさせる面はなくはない。巨大な多国籍環境団体それ自体が、一種官僚機構化し、目的の追及よりも組織の維持のために活動しがちになるというのは全く自然なことだし、それ自体を検証し、批判する外部の目というのは常に重要であることは言うまでもない。
 ただ、もしムーアが「環境や平和、核廃絶は有効だ」と今でも思っており、にも関わらずグリーンピースのようなやり方はその目的からみて逆効果だから、と本当に思っているようなら、今回のプラガーUのような保守メディアで、そうでない人々に利用されることが明白な中で発言を続けるのはいただけない、と思う。その点で言えば、例えば原発推進や「遺伝子組み換えは体に悪くない」と言った観点から環境左派を批判し続けつつも、基本的にはガーディアンのような左派メディアを基盤に発言し、自分自身でも一定環境運動にコミットし続けているジョージ・モンビオのような人の方が、細かいところで意見の相違はあっても信用できると思う。





1. 塩素の問題
 さて、今回の議論の要点として、塩素の問題と、ゴールデンライスの問題についてみていきたい。ムーアが言うように、公衆衛生という観点から極めて重要な物質である。塩素は水中の細菌や寄生虫などを殺すことにより、飲料水やスイミング・プールの安全性を(世界の大半の地域に提供できるぐらい)安価に提供するために、少なくとも現段階では欠かせない物質である。
 一方で、それをどの程度使うか、ということに関してはもうちょっと複雑な議論がありうる。塩素は、大量に摂取すれば急性の毒性が懸念されるが、水道水やプールに使われている量だと、遺伝子への影響を懸念する専門家もいる(この点少し放射線に似ているだろう)。また、体質によってはアトピーなどへの影響もあるかもしれない。何れにしても、あまり濃度の高い塩素水を摂取したり、長時間使ったりしない方がいいだろう。
 整理すると次のような話である。塩素は確かに細菌や寄生虫に由来する多くの感染症に対する効果が認められ、それらを防止するにはある程度、濃度が高めな方がいい。一方で、発がんなどの長期的な健康影響への懸念を考えれば、濃度は低めな方がいい。その二つの命題の間で(水道水、公衆プールや小学校のプール等での)「ちょうどいい」濃度が決められる必要があるが、これに「科学的正解」があるわけではなく、「高濃度懸念派」と「低濃度懸念派」の間で議論が行われて調整がされていくことになる。
 実際私が子どもであった3〜40年前に比べると、多くのプールで塩素濃度は低く管理される流れになっているようである(こうした論争は、日本でも九十年代後半ぐらいに起こったと記憶するが、細かい事情は要調査)。一方、その結果として毛じらみなどの問題が日本の子ども達の間でも復活してきた、という指摘もされるようになってきた。
 戦後から高度経済成長期にかけて、日本でまだ平均寿命が短く、また貧困や都市インフラの問題などによって公衆衛生上の問題が大きかった時代には、プールの塩素濃度を濃くすることはもちろん、DDTを子どもに浴びせることの社会的要請は高く、また健康上の便益も高かったと言えるかもしれない。経済成長するにつれて都市インフラの衛生管理が向上し、食事なども十分に取れるようになり基礎体力も向上し、寿命も延びる、となると、感染症の類の相対的な脅威の度合いは下がり、一方でガンが人生の主要な脅威とみなされるようになってきたときに、塩素濃度に対する社会的要請に見直しがかかったとしても、それは不自然なことではないだろう。
 もちろん、この観点からすると、社会のマジョリティが「今後長い寿命が予測される年少者」ではなく、高齢者であるようになると、再び感染症の脅威は大きくなる一方で、長期暴露によって発ガン性が(若干)上昇すると言ったことは、大した問題とはみなされなくなってくるだろう。現在の日本を含めた先進国は、この「第二の調整期」の始まりにいるのかもしれない。

 さて、「高濃度懸念派」と「低濃度懸念派」の間での論争はどのように社会的に実装され、解決をみたらいいのだろうか? まず重要なのは、専門家が必ずしも中立ではない、ということである。こう言った問題での発言者を何例か想像して見ればわかる通り、マスコミや政府の審議会で発言権をもつ「専門家」は一般にある程度高齢であり、女性も増えてきたとはいえ男性が多い。一方、先に述べたように「長期的な低濃度の暴露」に懸念を抱くのは、多くの場合若い「母親」(ばかりだとしたらそれはそれでおかしいのだが…)であることが多い。こう言った母親達が持っている懸念は、先に述べた歴史的経緯からすれば非常に理解できることであるが、当然ながら科学的知識や権威などを持ち合わせているとは限らないことから、論争は混乱し、親達は専門家に対する不信感を、専門家は「非合理な素人」に対する不信感を募らせる、ということになりがちである。

 こうした対立はどの先進国でも年々深刻になっていったが、90年代を通じて様々な「参加型デモクラシー」の手法が開発されることによって多少は緩和された。基本的に、あるリスク事象に対して態度を決めてしまった人の意見を変えることは容易ではない。飛行機であれ遺伝子組み換えであれ、危ないと決めてしまった人の目にはそれを補強する情報しか入ってこないし、危なくないと結論づけた人にはその人達が選ぶ情報は全てくだらないデマに思える。これは、専門家であっても対して事情は変わらない、人間の心理学的な性質の問題である。そこで、問題になるのは「多数の人が受け入れられる範囲を決めること」とそうでない人にもなるべく選択肢を与えられるような仕組みを作る、ということである。例えば遺伝子組み換え食品であれば、一定の安全検査を法で定め、販売者に義務付ける、というのが前者であり、その上で食品に表示義務を課す、というのが後者である。「参加型デモクラシー」の手法では、この決定をなるべく市民に開こうとする。これは生活の局面でそれらの物質や技術を受け入れるのは、専門家でも活動家でもなく、(それらを含んだ、しかし一方ではその問題に大きな関心を抱いていない多数の)一般市民である、ということを考えれば当然なことである。
 すでに態度表明し、それを提言する立場にある「専門家」や「活動家」は、それら市民の前で、なぜ自分たちがそう判断しているのかについて説明を行う。そして、市民は自分たちが理解したことを取りまとめる(もちろん、こういった取りまとめは議会プロセスで最終的な法律や規制となる)。このとき、自分の意見を説明する側に求められる態度は、広い視野を持つことでは必ずしもなく、自分の信念に誠実であることの方がむしろ重要であろう。

 したがって専門家が「塩素は公衆衛生上有益である」と述べることも、グリーンピースが「塩素は"悪魔の元素"である」と述べることも、「十分に広い視野に立っているとは言い難いが、それぞれの立場から一定の合理性があり、それらが最終的に、十分に民主的な討議の元に政策に反映されるなら有益である」と言えるだろう。ムーアの議論では前者の後者に対する特権的な正しさが主張されている。これは「塩素の利用を推進する専門家の意見」として有効ではあっても、社会的な結論として受け入れるには十分ではない、ということである。



2.ゴールデンライの問題
 ゴールデンライスについても基本的な問題は同型である。こちらは、まだ社会的に実装された技術ではないので、そもそも「毎年200万人の命を救う」力があるのかも判然としないが、ここではまず、そのムーアの主張を受け入れることにしよう。その上でも、グリーンピースはゴールデンライスを非難するであろうし、私もそうすべきであると考えている。
 というのも、これはムーアも認めている通り、「人類は自然の一部であり、自然から分離して存在するわけではない」からである。多くの場合、特に第三世界において、小規模農家はタネを自家採種している。重要なのは、こうしたタネがタネに対するローカルな知識とともに継承されている、ということである。したがって、農民達はどのタネが干ばつや長雨に強いか、どのタネの収量が安定しているか、どのタネが市場で高く売れそうな品質の実をつけるか、といったことを知っているのである。したがって、多くの農家では数十品種ものタネを保管しておき、その中から十数種類をその年の気候や市場を予測しつつ、作付けする、ということになる。
 さて、ゴールデンライスに関して、そういうことは可能だろうか? 例えばあるインドの農家が「来年はいつも植えている丈夫だが食味に劣るA種を7割、高く売れるB種を2割、それと初めて挑戦するC種を1割。C種は先進国への輸出用にしたいからAとBだけゴールデンライスの遺伝子を組み込んで供給してほしい」と言ったとする。少なくとも現段階ではこれは開発速度的に夢物語だし、開発速度をある程度圧縮することは可能でも、それは安全性管理とのトレード・オフになるだろう。また何より、そう言ったカスタマイズに答えるには、無料というわけにはいかないばかりか、現実的にはこの農家は(今後かなり開発費が下がったとしても)とても巨額の請求書を受け取ることになるだろう。
 したがって、今のところゴールデンライスが普及するとして現実的なのは、ある程度広域の地域ごとによく利用されている品種で開発し、利用したい農家がその「知らない品種」を受け入れることだろう。その場合、農家はローカルな知識が利用できないので、マニュアルに頼らざるを得なくなる。マニュアルへの依存というのは、学校化への依存、ということもである(もちろん、視点を変えれば伝統農法への先進国環境運動と農家の固執は、子ども達から就労の機会と、その結果として先端産業への適応の機会を奪うかもしれない。この点は議論されて良い)。
 有機農法の農家にとって大きなアドバンテージは、開発と生産が一体化していることである。一方、多国籍種苗会社は世界中に広がる様々な品種から、’売れ筋のものを見極め、それを品種改良し、パテント化し、農家から研究開発能力を取り上げて単なる工場にすることでビジネスモデルが成立している。現在、ゴールデンライスに保証されているのは、このプロセスの中で「パテント化されない」という部分だけであり、「農家の工場化」というプロセス全体が排除されているわけではない。こう言ったことに気がついている農家は、ゴールデンライスがトロイの木馬にならないか、ということを恐れているわけである。

 したがって、ゴールデンライスを敵視する先進国の環境運動があったとして、それは一概に間違いだとは言えないのである。結局、ここでも同じ話になるしかないのだが、専門家が「ゴールデンライスは公衆衛生上有益である」と述べることも、グリーンピースが「ゴールデンライスは"悪魔の品種"である」と述べるとしても(もちろんこれらは仮にそう述べたとして、ということだが)、「十分に広い視野に立っているとは言い難いが、それぞれの立場から一定の合理性があり、それらが最終的に、十分に民主的な討議の元に政策に反映されるなら有益である」と言えるだろう。
 もちろん、「落とし所」がないわけではないだろう。ただし、この落とし所についても、先の塩素のケースと同様、専門家が勝手に決めていいわけではない。そこから先はもちろん、デモクラシーの領域の問題である。

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