核の傘、あるいは「核抑止」(Nuclear Deterrence)という概念は、フォン・ノイマンらが提唱したゲーム理論に基づいてる。
あるいは、少なくとも当初は基づいていた。
フォン・ノイマンの議論は、多くの物理学者(しばしば、ナチスの迫害を逃れて新大陸に渡った人々であった)が、自分たちが恐ろしい破壊兵器の開発に携わる動機になった(か、少なくともそれを正当化したり、納得させたりする材料にはなった)。
囚人のジレンマとは簡単に説明すれば次のようなものである。
ケチな泥棒で捕まった二人組の犯罪者がいる。彼らにはその窃盗で2年の刑が言い渡されており、これから刑務所に入るところである。
ところが、警察は彼らがより重大な強盗殺人事件の犯人ではないかと疑っており、司法取引を持ちかけた。
強盗殺人について、二人組のもう一方が主犯であると自白すれば情状酌量の余地があるとして、仮放免を与えよう、というのである。
しかし、その場合は相棒が8年の刑を受けてしまう。
また、双方が相手の果たした役割について同時に自白してしまえば、仮放免はなくなり、双方に責任ありとして5年程度の実刑が見込まれる。
この場合、二人の犯罪者にとって一番合理的なのはどちらも自白しないことで、二人合わせて四年の刑を受けることである。
しかし、二人はそれぞれ個別に収監されており、示し合わせて協調行動を取ることができない。
犯罪者Aの視点から考えてみると、仮に相棒Bが自白せず、自分も自白しなかった場合は、Aは2年の刑期であり、自白した場合は仮放免である。
また、仮に相棒Bが自白してしまった場合、自分が自白しなければ8年の刑期を引き受けなければならず、自白すればこれが5年になる。
しかし、二人はそれぞれ個別に収監されており、示し合わせて協調行動を取ることができない。
犯罪者Aの視点から考えてみると、仮に相棒Bが自白せず、自分も自白しなかった場合は、Aは2年の刑期であり、自白した場合は仮放免である。
また、仮に相棒Bが自白してしまった場合、自分が自白しなければ8年の刑期を引き受けなければならず、自白すればこれが5年になる。
その結果、犯罪者Aにとってしてみれば、相棒Bが自白しようがしまいが、自白するのが最も合理的、ということになる。
しかし、二人の犯罪者からなるコミュニティ全体からみれば、これは総計10年の刑期ということで、最も不合理な決断、ということになる。
このように、個々のアクターは合理的に振る舞っているのに、全体として不合理になってしまう、ということがあるのであり、囚人のディレンマはなぜそういうことが起こるかを説明したモデルである。
ちなみに、囚人のディレンマはコミュニティを構成するアクターが二人のケースであるが、これを拡張して二人以上多人数のケースに一般化したものは「共有地のディレンマ」と呼ばれる(これについてここで説明する余裕はない)。
また、フォン・ノイマンが作った、こういった議論の枠組みを「ゲーム理論」と呼ぶ。
しかし、二人の犯罪者からなるコミュニティ全体からみれば、これは総計10年の刑期ということで、最も不合理な決断、ということになる。
このように、個々のアクターは合理的に振る舞っているのに、全体として不合理になってしまう、ということがあるのであり、囚人のディレンマはなぜそういうことが起こるかを説明したモデルである。
ちなみに、囚人のディレンマはコミュニティを構成するアクターが二人のケースであるが、これを拡張して二人以上多人数のケースに一般化したものは「共有地のディレンマ」と呼ばれる(これについてここで説明する余裕はない)。
また、フォン・ノイマンが作った、こういった議論の枠組みを「ゲーム理論」と呼ぶ。
さて、二国ないし二勢力による戦争はこういった囚人のディレンマを引き起こしがちである。
次の図では、対立する二国が取りうる戦略を示している。
通常は、「利得」で示して、数が大きい方がいいことがあるという図で描かれることが多いが、ここでは先の「囚人のディレンマ」と合わせるために、大きい方がダメージが大きい図として見て行こう。
次の図では、対立する二国が取りうる戦略を示している。
通常は、「利得」で示して、数が大きい方がいいことがあるという図で描かれることが多いが、ここでは先の「囚人のディレンマ」と合わせるために、大きい方がダメージが大きい図として見て行こう。
ここで、対立する二国があり、相手型に歩み寄ることは何らかの不利益をもたらす、と考えられているとしよう。
ここで、相手型に一定の打撃を与えるような紛争を起こすことで、相手の譲歩を獲得したり、一定の資源や領土を奪うことが、自国の利益に叶う、という理解があるとする。
戦争は通常、そうした前提の元に起こるものである。
ここで、相手型に一定の打撃を与えるような紛争を起こすことで、相手の譲歩を獲得したり、一定の資源や領土を奪うことが、自国の利益に叶う、という理解があるとする。
戦争は通常、そうした前提の元に起こるものである。
ところが、双方がそう考えて、不毛な総力戦に突入することは、双方が多少のダメージを甘受して協調戦略を取ることよりも、さらに打撃は大きい。
こういった認識は、20世紀に入って、兵器の性能が飛躍的に増大し、民間人犠牲者がうなぎのぼりに増えたことなどもあって、一般的なものとなった。
これは、典型的な「囚人のディレンマ」状況である、と見ることができる。
こういった認識は、20世紀に入って、兵器の性能が飛躍的に増大し、民間人犠牲者がうなぎのぼりに増えたことなどもあって、一般的なものとなった。
これは、典型的な「囚人のディレンマ」状況である、と見ることができる。
囚人のディレンマを回避する方法は明らかである。
つまり、(裏切り、裏切り)の組(図の右下)は破滅的で、絶対に選んではいけない、というコンセンサスを、アクター全員が共有すればいいわけである。
「核戦争は破滅的であり、また一発の核を打つことで対立する勢力は直ちに報復にうつるであろう。その結果は人類の滅亡かそれに限りなく近い状態でしかありえない」
この認識は冷戦期に神話的なものとして反復され続けた(小説、映画、アニメなどで何度も見たことがあるだろう)。
「核は恐ろしい兵器であり、絶対に使ってはいけない」という共通認識が、超大国による独占的な軍拡と「核抑止」というバランスを可能にしてきたのである。
つまり、(裏切り、裏切り)の組(図の右下)は破滅的で、絶対に選んではいけない、というコンセンサスを、アクター全員が共有すればいいわけである。
「核戦争は破滅的であり、また一発の核を打つことで対立する勢力は直ちに報復にうつるであろう。その結果は人類の滅亡かそれに限りなく近い状態でしかありえない」
この認識は冷戦期に神話的なものとして反復され続けた(小説、映画、アニメなどで何度も見たことがあるだろう)。
「核は恐ろしい兵器であり、絶対に使ってはいけない」という共通認識が、超大国による独占的な軍拡と「核抑止」というバランスを可能にしてきたのである。
しかし、近年「限定的な核兵器利用」(Limited Use)という概念がしばしば観測気球的に口にされるようになってきており、今回発表された米国の Nuclear Posture Review もその方向性を一歩進めるものになっている。
また、これはある程度、ロシア側も限定利用の解禁に動いている、という前提に立っている。
このことは、囚人のディレンマの構造に当てはめれば極めて危険である、ということである。
つまり、核兵器をめぐる実質的に独占的なアクターである米露は、現在核利用について「破滅的ではなく、効果的な”裏切り”戦略がありうる」と考えるようになっている、ということである。
これは第一に、多くの市民が考えるであろう「いかなる核の利用も、その部分的な効果ですら犯罪的である」という認識と、フォン・ノイマン的な「核の利用は、人類を破滅に結びつけるがゆえに犯罪的である」という認識に乖離が起きている、ということでもある。
しかし、「囚人のディレンマ」モデルが示唆する(より破滅的な)問題は、「核の限定利用」はおそらく、通常兵器と同様にエスカレートするということである。
また、これはある程度、ロシア側も限定利用の解禁に動いている、という前提に立っている。
このことは、囚人のディレンマの構造に当てはめれば極めて危険である、ということである。
つまり、核兵器をめぐる実質的に独占的なアクターである米露は、現在核利用について「破滅的ではなく、効果的な”裏切り”戦略がありうる」と考えるようになっている、ということである。
これは第一に、多くの市民が考えるであろう「いかなる核の利用も、その部分的な効果ですら犯罪的である」という認識と、フォン・ノイマン的な「核の利用は、人類を破滅に結びつけるがゆえに犯罪的である」という認識に乖離が起きている、ということでもある。
しかし、「囚人のディレンマ」モデルが示唆する(より破滅的な)問題は、「核の限定利用」はおそらく、通常兵器と同様にエスカレートするということである。
トランプが考える「限定利用」とプーチンが考えるそれが一致するとは限らないわけであり、ゲーム理論的に考えれば、対立するアクターは「限定利用」が許されるなら、「相手よりちょっとだけレベルの高い範囲の限定利用」を目指そうとする可能性が高いわけである。
そして、相互が「相手よりちょっとだけ高いレベルの限定利用」を(合理的に)求めることが、容易に限定利用の枠を超えて、(不合理な)破滅にエスカレートする、というのが「囚人のディレンマ」の示唆するところである。
そして、相互が「相手よりちょっとだけ高いレベルの限定利用」を(合理的に)求めることが、容易に限定利用の枠を超えて、(不合理な)破滅にエスカレートする、というのが「囚人のディレンマ」の示唆するところである。
ただし、次のような条件下で「破滅的なエスカレートを招かない限定利用」があり得ないわけではない。
つまり、主要なアクターが「限定利用」の範囲がどの程度であるかに同意しており、かつその同意から共通の利益を引き出せる場合である。
これは、「一発でも全面禁止派と最終戦争予防派の間の乖離」という問題は顕在化させるが、現実的に最終戦争が起こる可能性はあまり高くないとは言える。
例えば、ISILのような戦後秩序への反逆者でありかつ核兵器を保有しないであろう勢力に対して、安保理常任理事国の総意の元に小規模核を利用する、という場合である。
これは、一般的な市民運動からすれば極めて憂慮する自体であるし、市民を巻き込むこともほぼ疑いのないという点では国際法違反であるが、一方でこれを防止するパワーポリティクスはほぼ想像ができないという点において、核兵器を常用したい勢力が選択する可能性があると思っていた。
もちろん、例えばISILのような勢力が、10年後、100年後に何らかの形で存続しており、核武装を果たしていない、ということを断言することはできないという点でも、この選択は世界にとってリスクが高い、という批判はできるが、これも反対理由としては弱いかもしれない。
つまり、主要なアクターが「限定利用」の範囲がどの程度であるかに同意しており、かつその同意から共通の利益を引き出せる場合である。
これは、「一発でも全面禁止派と最終戦争予防派の間の乖離」という問題は顕在化させるが、現実的に最終戦争が起こる可能性はあまり高くないとは言える。
例えば、ISILのような戦後秩序への反逆者でありかつ核兵器を保有しないであろう勢力に対して、安保理常任理事国の総意の元に小規模核を利用する、という場合である。
これは、一般的な市民運動からすれば極めて憂慮する自体であるし、市民を巻き込むこともほぼ疑いのないという点では国際法違反であるが、一方でこれを防止するパワーポリティクスはほぼ想像ができないという点において、核兵器を常用したい勢力が選択する可能性があると思っていた。
もちろん、例えばISILのような勢力が、10年後、100年後に何らかの形で存続しており、核武装を果たしていない、ということを断言することはできないという点でも、この選択は世界にとってリスクが高い、という批判はできるが、これも反対理由としては弱いかもしれない。
しかし、米国と並ぶ核保有勢力であるロシアも含めて「限定利用」が相互にありうる、という認識を公的に示すことは、こうした(国際秩序の外部にいる武装勢力相手の”限定利用”という)議論に比べても極めて危険性が高いわけである。
もちろん、フォン・ノイマンの議論によらず、「限定利用であれば一定の段階で核抑止は機能し、報復合戦にはならない」という議論が提起されるのであれば、賛否は別として検討は必要かもしれない。
しかし、現在のところそういった議論を(トランプ政権の内外ともに)誰かが提示しているようには見えないし、理論的にも想像がつかないのである。
しかし、現在のところそういった議論を(トランプ政権の内外ともに)誰かが提示しているようには見えないし、理論的にも想像がつかないのである。