2016年4月30日土曜日

ワクチン・リスクのオフサイドトラップ: なぜ反ワクチン運動が盛り上がるのか?

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※図版(βとβ’の位置関係)が間違っていたので修正し、それに合わせる形で説明の文章も修正しました。
1)
 どの程度のリスクを受け入れるか、ということは人によって違う。最も重要なのは、そのリスクの需要にどの程度の便益を感じるか、という問題である。死んでもいいからタバコの味が好き、ということは(社会的にそれが是認されるかは別として)個人の決断としてはありうるわけである。同様に、自分の趣味で出かけるなら冬山で遭難するリスクは受け入れられるが、業務で登らされるのは御免であるとか、あるいは業務として行うなら受け入れられるが、趣味にはしたくないとか、そういった選択はありうる。
 また、一般に、(不特定多数に)強制されるリスクや誰か(一般には企業)の利益になるリスクは、自然要因のリスクよりも受け入れ難いということは見られる。同様に、自分が積極的に選択するリスクはより高いレベルまで需要される。もちろん、この「強制されている/選択している」は、基本的には主観の問題である。
 したがって、しばしば人は「ワクチンのリスク」(α)を議論するが、実際は「ワクチンのリスク」が「対策すべきリスク」(β)とどのような関係にあるかを議論しなければいけなく、αが科学的に決定される(不確実性を伴うにせよ)のに対して、βは社会的な問題なのである。そのため、βについては語らないことが科学的な態度であるというかのような誤解(あるいは戦略的に「誤解を装うこと」)が専門家の間に見られるが、もちろんβについて論じずにβの値を決めることは、単に自分の臆見を他者に押し付けることに他ならない非合理な態度である。実際、現在専門家が公衆に対して需要を求めている低線量被ばくのリスクは、奇妙に高いが(拙攻参照)、専門家になるほどこのことに「気がついていない(ふりをしている)」ように見える。

2)
 さて、こう考えてみると、「ワクチンは病魔に対して人類が積極的に選択している武器である」と考える人々は、「ワクチンは、学校や職場などで強制される」や「ワクチンの導入は企業の利益によって決まっている」と考える人よりもワクチン接種のリスクに対して寛容になる、ということは考えられる。このため、後者の人々のリスク選好が下方に(より厳しく安全性を確保する方向に)遷移していることに、前者の人々が気がつかない、ということが起こるわけである(図のβがβ'になる)。





結果的に、前者のグループ(医師や現代医療の積極的な需要者)は、ワクチンが病気に対して綺麗にゴールを決めていると考えるのに対して、後者のグループの人たちのリスク選好が下がっているため、後者のグループからすればこの成果はオフサイドをゴールだと主張しているに過ぎないということになる。
 さて、この「ゴールか、オフサイド・トラップ成功か」という論争を調停するための手段はあるだろうか? 基本的に、このゲームに客観・中立の審判はいない。「専門家」はプレイヤーであると見なされるからである。組織的に、リスク評価の専門家を入れることは一つのアイディアであるが、現状では(少なくとも日本では)実施主体と独立したリスク評価はなされていないと考える人が多いであろう。これは、一般論としては「コミュニケーションが不十分だから」ということになるが、それ以上に、(先に放射線被ばくについて述べた通り通り)欧米のリスク論議よりはだいぶと高いレベルでのリスク需要を専門家が迫りがちであるからであり、これはリスクが相対的に高い事業の事業者やそれを推進したい政府の意向によって、これらリスクの専門家が推奨するリスク対策のレベルが歪められているのではないかという疑惑を引き起こすからである(この点は、次の記事でもうすこし詳細に論じたい)。また、「コミュニケーション」という語彙も多義的で、しばしば「専門家側が科学的な説明をおこない、素人がそれを受容すれば、受け入れるリスク水準も科学者と同様になる」という意味に使われがちであるが、一方でこういった仮定を「欠如モデル」、またそういったプロセスを「PA」(Public Acceptance)として批判されるようにもなってきている。ここでは、「コミュニケーション」によって理解されなければいけないのは「しろうと」側の合理性であり、変容しなければいけないのは専門家側の行動様式である、という観点に立って議論を進めたい。
3)
 まず、専門家は「客観的に<対策すべきリスクの閾値>は確定できる、と考えるかもしれないが、例えばワクチンの場合、それは難しい。一つのアイディアは、自然状態でワクチンが対応する病気のリスクよりも、副作用のリスクが低ければ、ワクチンは利用されるべきだ、というすることである。しかし、実際はワクチンのリスクは病気のリスク(γ)に対して「十分に」低い必要があり、どの程度が十分かというのは、おそらく個人によってだいぶ大きな差がある。
 そもそも、ワクチンによって病気になるグループ(集合a)と副作用が発生するグループ(集合b)には当然ながら差がある。bにaが包含されていれば倫理的な問題はほぼ発生しない。しかし、両者が包含関係にない場合、倫理的な問題が発生する。ここでは、簡単に考えるため、最初に両者に重なりがない場合を想定しよう。これは、リスクの「移転」に他ならないであろう。
 「臓器移植がないと必ず死ぬ4人の患者を救うため、健康な人を一人殺し、そこから臓器を取り出して手術をする」ことが倫理的に妥当であると考える人はいないであろう(いわゆる「サバイバル・ロッタリー」問題である)。では、リスクの移転であれば正当化されうるのか、というのが次の問題になる。未必であれば正当化されると考える人もいるだろうし、それに抵抗を感じる人もいるわけで、少なくとも現状ではどちらが正しいとはいいがたいであろう(私個人としては「リスクの移転」であっても抵抗感を感じる)。
 集合aとbに重なりが認められるもののズレている、という場合(もちろん実態はそうであるケースが多いであろうが、検証は現代の科学では極めて困難である)問題はさらに複雑である。しかし、この場合は、ワクチンの接種が自発的なものであれば、少なくとも形式論的には「接種されることを選択する主体が、自分にとっての便益とリスクを比較検討してそれを選択した」とみなされうるので、形式論としてはこの「サバイバル・ロッタリー」問題は発生しない(もちろん、「同調圧力」という厄介な問題は捨象できないが、ここではあくまで形式論的に議論を進めることにする)。
さて、このように考えると、図のように
 γ > β > α > β'
 のような配列になっている時、おそらく議論は一番紛糾する。これが、αがγに対して十分に低く(他のリスク論と比較するなら直感的には5桁程度が「十分」と認識される可能性が高いのではないだろうか)、また β’ > α も同時に成立していれば、ワクチンは社会問題にならないであろう。そうでない場合は、リスクを十分に説明した上で任意接種にすべきということになろう。

4)
 いや、ワクチンを拒否するのは陰謀論なのだ、という議論もあるが、文化人類学が与えてくれる知見から、こういった考え方は支持できない。つまり、文化人類学的に見れば、行動の原理として与えられる「物語」は、その行動の正当化の根拠ではあっても、そういう行動を選択する理由にはなっていないことも多いからである。
 これは、政治家が表面的には「経済の活性化のために法人税を減税します」というこの背景に「産業界の意向を組んで法人税を減税します」という意図が隠れているのではないか、と同種の疑念である。もう少しいえば、これらの「自分が信じている物語を宣言すること」は、個々の信念よりもその機能に基づいていることも多い、ということである。
 例えば、文化人類学定番のジョークに、雨季が始まるまで調査先に滞在できないため「雨乞いの儀式を先に見せて欲しい」と頼む人類学者というのがある。シャーマンはこれを一笑に付し「雨季でもないのに雨乞いの儀式は行わない」と断る。さて、これを見て「雨乞いの儀式が雨を降らせることを信じているわけではないのだ」と結論づけるのが近代的、科学的理性の持ち主である。そして、人類学者は「儀礼というのは必ずしも額面上の目標を達成するために行われているわけではない。例えば、この場合は雨季と乾季の切れ目を共同体で共有する目的があるのであり(例えばクリスマスや正月が冬至を共同体ないで確認する役目を持っているのと同様である)、ただし、シャーマン自らそういってしまうと、儀礼自体の凝集力がなくなるので、シャーマンは建前上『雨乞い』と言っており、おそらくシャーマンも他の共同体の成員もそのことをよく承知している」と結論づけるであろう。同様に、陰謀論はワクチンに反対する自分の信念を補強し、反対陣営の凝集性を高めるためのツールであって、陰謀論を信じるから反ワクチンになる、という機序ではない可能性が高いであろう。
 しろうとは、科学者が期待する通りには科学的でも合理的でもないが、科学者が予測する以上に功利主義的な観点からは合理的である(そもそもこの「しろうとは功利主義的な観点から十分に合理的である」という仮説が支持できないと、資本主義が成立しない)。陰謀論の背後にあるはずの功利主義的合理性を問題にしなければ、陰謀論問題は解決しないであろう。これはもちろん「陰謀論を真面目に取り上げろ」という提案ではない。そうではなく、摂取される側が納得出来るレベルでの安全性確保、情報提供と、そしてなにより被接種者の主体性の尊重がなされなければ、ワクチン問題は収束しないであろう、ということである。