2013年10月5日土曜日

声の不在という問題について 2: スピヴァクとヴァンダナ・シヴァのあいだ

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World Social Forum 2006 (Karachi, Pakistan)
 前回「声の不在という問題について: パキスタン南西部バルチスタン州地震に思う」の続き。
 一度書き始めるともう少し言葉を継ぎたくなり、まぁ、いずれ切りが無くなるのですが、すこし(たぶん、その道の専門家向けの)補足をしておくべきかな、ということで…。
 たぶん「カルスタ的な『現地の代弁』とNGOによる『現地の代弁』」は違うのではないか、という論点について検討する必要があるように思う。
 たぶんカルスタ的視点は限りなく個別性、特異性が高い事例を扱うのに対して、NGOというのは多少なりと(全てのとは言わないまでも一定の規模の)市民の代弁をするという側面があるからである。
 つまり、スピヴァクが有名な「サバルタン」に関して実例として示したブヴァネシュワリ・バドリのケースは、あくまで一回的なものであり、行為主体としてのブヴァネシュワリ自信が慣例と異なる自分を(言葉ではなく身体を使って)歴史に書き記すことを試みることによって第三世界の女性性を規定する「ステレオタイプ」に逆らおうとした事例として書かれている。
 一方で、現代の社会運動が取り上げるのは「資本主義の進化」という巨大で一回性のイベントに対して、世界中の無数の「声なき声」からある程度共通に取り出せる問題についてのものである。



 このあたりをスピヴァクの『ポストコロニアル理性批判』を参照しつつ、簡単に振り返ってみたい(以下、引用ページはすべて同書日本語版から)。



 「私は注117での示唆を持ち出し、下からの、すなわち、いわゆるラディカルな批評が今日排除しつつあるネイティヴ・インフォーマントの視点にたったところからの「開発」へのグローバルな抵抗の「マルチカルチャー」ーその注で引き合いに出したシヴァが使っている、この語のラテン・ルーツに近い意味におけるーの中にあっての、この形態の有用性を指摘するだろう」(p.158)と述べ、社会運動の代表例としてのヴァンダナ・シヴァに(スピヴァクが属する文芸批評陣営が果たせていない)一定の役割を認めているように思われる。

 反英闘争に身を投じていた若い女性であるブヴァネシュワリは政治的苦悩のなかで死を選ぶが、それは敢えて生理の最中に行われた。これは、当時の女性の自殺に典型的であった「許されざる妊娠」によるものではないということを示す必要があったからである、とスピヴァクは読み解く。と,同時に(後で説明する事情によって)「ブヴァネシュワリは、おそらく、サティという自殺行為についての社会的テクストをある一つの介入主義的なやり方で書き直したのだった」(p.447)

 もちろん、中間階級の女性で政治的・社会的知識を持ち、また必要に応じて(たとえ自殺という形であったとしても)政治的エージェンシーを発動させることができたブヴァネシュワリは「『真のサバルタン』ではなかった」(p.448)ことをスピヴァクは認めている。この意味で、サバルタンはスピヴァクにとっても厳密な概念ではなく、相対的な概念である。
 スピヴァクの読み直しがなかったらブヴァネシュワリのエージェンシーは誰にも届くことがなかったわけで、この時ブヴァネシュワリは確かに先進・後進と男性・女性という(グローバルに)構築されたグリッドの中で客体化され、沈黙を強いられるサバルタンであった。
 しかし、スピヴァクという文芸評論家に行為に隠された意味を明らかにされたとき、通時的に対話し合うスピヴァクとブヴァネシュワリの関係は、プラトンとそれを読解するカントのあいだのそれと基本的には異なることがないであろう(プラトンが、せいぜいパピルスと葦のペンを購えばよかったのに対して、ブヴァネシュワリが命を対価にしなければ行けなかったという違いは勿論、重要であるが…)。

 ブヴァネシュワリは誤読されたことをもって結果的にサバルタンなのではなく(カントがプラトンを誤読することはあるだろう)、誤読を押しつける構造に置かれてしまったという実でサバルタンなのである。
 なぜブヴァネシュワリの行為(生理中の自殺)がサティを巡って定着してきた社会的テキストの「書き直し」なのだろうか。サティとは、「ヒンドゥー教徒の寡婦が死んだ夫の火葬用の薪の上に登り、それの上でわが身を犠牲にする」(p.415)ことである。スピヴァクの主張によれば、英国人によってサティの禁止は「茶色い女性たちを茶色い男性だちから救い出す白い男性たち」(p.415)の物語として表象される。一方「インドのネイティヴィスト(土着主義者)たち」は「女性たちは死ぬことを望んでいた」(p.415)と主張する。そしてスピヴァクによれば「二つのセンテンスは互いに相手を正当化するのに大いに効果をあげている。その一方で、人は女性たちの声ー意識(Voice-consciousness)を証言したものに出会うことは決してない」のである。
 この、「サバルタンの声」を消してしまう「白い男性」と「ネイティヴィスト」の共犯関係が問題なのであり、ブヴァネシュワリはそれを「書き直す」ことを試み得たが、「真のサバルタン」というものがいるとすれば、そもそもそういった試みが行えないものたちのことである。

 しかし、そうしてみると、いずれにしてもサバルタンは視ることが出来ないわけだから、ブヴァネシュワリのような「サバルタン的事例」の後背に、その存在を透かしみることが可能なだけであるように思われる。
 その観点からは、ヴァンダナ・シヴァが代弁しようとしている「グローバル化によって破壊される小規模農家の女性たちの文化」という枠組みが外挿的に主張している普遍性と、スピヴァクが(代弁まではいかないにせよ)存在を指し示そうとしている「サバルタン」概念の普遍性はある種の共通性を持つ(二つのカテゴリーの外延が共通なわけではないが、おそらく内包される「人々」は現実問題として重なり合っている)。
 また、そのこと事態を、少なくとも前述の引用文を見れば、スピヴァクは認識していると思われる。シヴァの議論がいくつかの観点から十分ではないと述べているが、例えば「エリートの歴史」にラナジット・グハによる「サバルタン・スタディーズ」という対抗軸と同方向の評価はしているといってよかろう。(ここで論じることはしないが、スピヴァクがブヴァネシュワリの向こうに視た「サバルタン」と、グハの「民衆の政治」(p.391)の向こうに視たサバルタンと、シヴァが代弁しようとしている「グローバル構造化での小農」の関係性と差異を把握することは極めて重要であると思われる)。


 こうした議論を確認することは、先のエントリーで述べた議論について、もう一つの論点を提起することになる。つまり代弁する/声を取り戻す、とはいかなることであろうか、ということである。つまり、ここまで述べたことから正解としての「真のサバルタン」がどこかにあり、それの表象に成功している度合いを、例えばスピヴァクのブヴァネシュワリは80点、シヴァの小規模農家は70点、グハの「サバルタン」は60点、というように点数化できるように単線上にならんでいる、というようなイメージを持たれると、それは違うのではないか、ということである。
 スピヴァクはフロイトについて次のように述べている。
 「フロイトが女性たちをスケープゴートとして利用しているのは、深く両義的なことにも、ヒステリー患者に声をあたえ、彼女をヒステリーの主体に変えたいという、当初の、そしてその後も持続する願望に対する、ひとつの反動形成なのであった。その願望を『娘の仕掛けてくる誘惑』へと仕立て上げた男性的ー帝国主義的なイデオロギー的形成作業は、一枚岩的な『第三世界の女性』を構築しているのと同一の形成作業である。現代のメトロポリスの研究者でそのような形成作業の影響を受けていないものはいない。わたしたちの企図している『忘れ去ってみること (unlearning)』には、私たちがその当の形成作業に参与しているということをーもし必要ならば沈黙を測定することによってー研究の対象へと分節化するということが入っている」(p.410)のである。
 つまり、フェミニズム研究は屡々フロイトを「女性の身体をヒステリー化した」ことを避難しているが、スピヴァクはフロイトの意図は(女性に言葉を返そうというものだったと)いったん肯定しておいて、そのよい意志が逆説的に女性の真の言葉を奪ったと判断しているのである。
 これは、先のエントリーで述べたように、パキスタンの農村部を「イスラム原理主義の巣窟」と表現することとは前提の倫理性が違う一方で、結果としては「帝国主義的なイデオロギー的形成作業」と同様な枠組みのなかにある、ということである。もちろん、第一の問題として女性と「ヒステリー」の関係を何度も、他の問題を排除する形で表象すること、第三世界住民と宗教原理主義の関係を何度も、他の問題を排除するような形で表象することの間には、明らかに相似の関係が視られるであろう。女性にも第三世界にもそのエージェンシーの発動には多様なスペクトルが見られて当然なのであり、仮にスペクトルの中に青なら青、赤なら赤が見られるとして、その光線の発生源を「青い」ないし「赤い」と断言することが不当なのは、形式的に明らかであろう。
 しかし、では、我々のなかの合理性に照らして「第三世界の左派は先進国にとって都合は悪いが合理的なことを言っている」という私の陳述が、フロイトのそれと相似のものでないという保障はあるだろうか? そして、この問題について考えることは、さらにスコープを広げて、第三世界だけではなく先進国の現代社会内部の、専門家と素人の関係、というSTS的課題についても議論を広げるということでもある。これは中々難しい問いであるので、できればそのあたりについてもう一回エントリーを、と思っている。

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