2023年2月13日月曜日

同性婚とインセストから現代の結婚に求められるものを考える

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 同性婚の法制化を求める声が大きくなっている。それに対して反発が広がり、「そもそも結婚は生殖(あるいは出産)のためにあるのであり、出産しないカップルに結婚による法的利益を提供する必要はない」とか「同性婚を許容するなら兄弟姉妹の結婚も許されるべきではないか」といった議論も飛び出した。後者に関しては特に、牽強付会と言っても構わないと思われるが、なぜそのような錯誤が生じるのかも含めて、もう一度「婚姻」と「再生産(子どもをつくること)」の関係を考え直してもいいかもしれない。本稿で述べる論点をまとめるなら、以下のようになる。この三つに違和感を感じない方は、最終節だけ読んでいただいても構わないと思う。そうでない方は、少し長くなるが全文にお付き合いいただければ幸いである。


(1)婚姻は生殖のためにあるのではないし、人類のインセスト・タブーは生物学的(優生学的)根拠に基づくものではない

(2)日本文化のインセスト・タブーは極めて弱い。また、世界的にみて、法律上の近親結婚禁止は範囲縮小の方向に動いているし、今後も一般論としてはそうなるだろう。

(3)人類文化にとって「婚姻」の社会的機能はコミュニティの構築/整理だし、その部分は現在も変わっていない(また変わらないだろう)。ただし大家族性をベースにした伝統的コミュニティから、個人の意思を基盤にしたコミュニティに移行しているという違いはある。

 (なお、本稿では性別を問わず兄弟姉妹を示したい場合は「キョウダイ」と記述する)


・人類のインセスト・タブーは生物学的(優生学的)根拠に基づくものではない


 人類社会の多くは、近親での結婚やセックスを避けるべきだという規範を広く共有している。これを「インセスト・タブー」と呼ぶ。このタブーは、しばしば遺伝学的な根拠に基づくと主張される。つまり、近親交配が進むと生存に不利な特性を持った子どもが生まれることが多くなるので、人類は近親者と子どもをつくることを避けるべきだという規範を持っている、と考えられるのである。これを「インセストの生物学起源説」(生物学説)とでも呼ぼう。

 近親交配が不利になる理由は、遺伝の顕性・潜性(あるいは優勢・劣勢)関係にある。重篤な遺伝病は潜性遺伝であることが多い。つまり、我々は通常遺伝子を母と父からそれぞれ受け継いで、二対持っている。この二対が二つともその遺伝病の遺伝子だった場合、その病気が発現する、ということになる。つまり、両親がその遺伝病を発症していない(一つしかその遺伝子を保持してない)場合でも、その遺伝子を双方から引き継げば、子どもの世代で遺伝病は発症する。それぞれ二分の一の確率なわけだから、この遺伝子を保有している両親から生まれた子どもは4分の1の確率で遺伝病を発症する。近親者であれば同じ遺伝子を共有している可能性が高く、遺伝的に遠隔の人であれば、共有している確率は下がるわけである。とするのであれば、子どもをつくる相手は、遺伝的に遠縁であるほうが安全性は高まる、ということになる。

 生物学説は強力であり、生物学者のみならず、多くの法律家や宗教家も一義的にはここにインセストの根拠を求めてきた。この説明体系は非常に優生学的ではないかという疑義を呈するものもいないわけではないが(大半の社会で)あまり大きな声にはなってこなかった。

 一方、文化人類学者は、長らくインセストの形態に対する生物学的な要素の影響は過大評価されていると主張してきた(もちろん、この主張は長く、社会全般からは概ね無視されてきたといって良いだろう)。文化人類学者に言わせれば、誰と結婚するか、誰とセックスするか、といった問題は、文化的な事象なのである。これを「インセストの文化決定論説」(文化説)とでも呼ぶことにしよう。

 この両者の対立は、非常に膨大な議論を巻き起こしているが、ここではなるべく簡潔に文化説を支持する理由を説明していきたい。まず、インセストは文化・地域によって多様であり、たまたま(生物学を含めた科学が発達した)キリスト教文化圏においては厳格である傾向があるが、事実上インセスト・タブーがないに等しい文化圏も多数見られる。そのキリスト教にしても、旧約聖書のロトの娘たちは(他に相手がいないという事情があったにせよ)ロトとの間に子どもをつくる。聖書でインセスト・タブーの規範について述べられているのは(食物禁忌など多くのタブーと同様に)レビ記においてであるが、レビ記の記述を素直に読めば、実際は親のキョウダイとの結婚は禁止されているが、その子どもについては禁止されていないように読める。日本の現在の法律と同じように、いとこ婚は禁止対象ではないわけである。

 ところが、中世の頃には、カトリック教会は禁止の範疇を大幅に広げていき、むいとこまで禁止されるに至った(実に十四親等である)。現在ではこの規範は劇的に緩和されており、いとこまでが禁止であり、実際はこのいとこ婚も司教が許可した場合は認められる。この「緩和の傾向」というのは一つのポイントなので、あとでまた論じることにする。また、カトリック教会の強硬な立場を尻目に、実際はヨーロッパでもいとこ婚は広く見られた。王族の事例はいくらでもあげることができるだろうし、庶民にとっても一般的であった。興味深いことに、いとこ婚の禁止が強化されるきっかけを作ったチャールズ・ダーウィンその人はいとこのエマ・ウェッジウッドと1839年に結婚しており、この結婚が成立した時、すでにエマの兄ジョサイアはダーウィンの姉キャロラインの配偶者であった。

 いとこ婚が西欧圏の一般市民の感情として強く忌避されるようになってきたのは19世紀を通じてのことである。米国の多くの州ではいとこ婚が禁止されているが、東海岸の諸州は禁止規定を持っていない。19世紀に入ってから連邦に参加した中部から西部の諸州が州法を制定した19世紀に、この問題が活発に議論されていたのであり、それ以前は大きな問題にはなっていなかったことが推測される。つまり、いとこ婚は少なからず実践されてきた一方で、それが問題であるという「眼差し」がこの時期に形成されたのである。このことは、ミシェル・フーコーが同性愛や性的欲望全般に関する言説について、19世紀以降それは抑圧されてきたのではなくて、改めて問題として見出され、「禁止する」という言説が活性化したのだ、という指摘を思い出そう。

 近親婚に関する議論は、他の(同性愛やその他の当時の人々が「アブノーマルである」と考えた性の問題に比べると地味であるが)大枠で言えばこの流れの範疇にある。ただし、注意すべきは19世紀を通じて、ダーウィンが『種の起源』出版後一躍アカデミズムのスターダムにのし上がったのに対して、顕性・潜性遺伝の仕組みを発見したメンデルはほぼ世間から無視されており、(メンデルがダーウィンの著作を丹念に読み込んでいたのに対して)ダーウィンもメンデルの理論に無知だったことは書き添えておかなければならない。19世紀の段階では人々は活発に「近親婚の健康に対する悪影響」を論じているが、その手段は主に疫学的、統計学的なものであり、その仕組みについての知識はほぼ全ての論者が持ち合わせていなかった。



・日本文化のインセスト・タブーは極めて弱い、というよりむしろキリスト教世界が特殊である


古代エジプトのアメンホテプI世もキョウダイであるイアフメス
=ネフェルタリと結婚し、三人の息子を持ったと伝えられる
 では、西欧以外ではどうだったろうか。実は、キョウダイ婚までの近親婚も、広い範囲の文化で見られる。古代エジプト王家の事例などが有名だろうが、我が日本でも例外ではない。聖徳太子として知られる厩戸皇子の両親は、用明天皇と穴穂部間人皇女だが、この両者の父は欽明天皇であり二人は異母兄妹に当たる。この異母キョウダイ同士の婚姻は、平安前期まで、しばしば見られた。一方で同母キョウダイの事例は見当たらないが、これは平安前期までの日本が妻問婚で母方居住だったことによるだろう。母のもとで一緒に育ったキョウダイであれば婚姻の対象にならないが、キョウダイであっても父が同じということで居住が別であれば、婚姻は妨げられなかったわけである。異母キョウダイであるか異父キョウダイであるかは遺伝学的に意味のある問題ではない(つまり「血縁係数上は差がない」)ので、ここを区別するのは「文化の問題」ということになるだろう。一方、允恭天皇と忍坂大中津比売命の子どもである木梨軽皇子は同じ両親を持つ軽大娘皇女と(古事記によれば)「初めは抑えていたものの、このままでは死んでしまうと思い、ついには密通し」、結果として廃嫡、配流され自死する。タブーが全くないということではなかったようである(ただし、インセストそのものが直接に罪に問われたかどうかについては、紀記の記述には議論の余地がある)。古代日本は徐々に中国から男系文化を取り入れていったわけだが、その過程で母方居住も解消され、平安後期にはキョウダイ婚は見られなくなる。ただし、日本は依然として近親婚に最も寛容な地域に属する(東アジアの儒教圏全般が近親婚にキリスト教文化圏以上に厳しいことを考えれば、これは興味深い文化的問題であろう)。法律では三親等までの親族は結婚できないが、判例では叔父と姪の内縁関係を認めている事例もある。判決文は次のように述べている。


わが国では,かつて,農業後継者の確保等の要請から親族間の 結婚が少なからず行われていたことは公知の事実であり,前記事実関係によれば, 上告人の周囲でも,前記のような地域的特性から親族間の結婚が比較的多く行われ るとともに,おじと姪との間の内縁も散見されたというのであって,そのような関係が地域社会や親族内において抵抗感なく受け容れられている例も存在したことが うかがわれるのである。このような社会的,時代的背景の下に形成された三親等の 傍系血族間の内縁関係については,それが形成されるに至った経緯,周囲や地域社 会の受け止め方,共同生活期間の長短,子の有無,夫婦生活の安定性等に照らし, 反倫理性,反公益性が婚姻法秩序維持等の観点から問題とする必要がない程度に著しく低いと認められる場合には,上記近親者間における婚姻を禁止すべき公益的要請よりも遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与するという法の目的を優先させるべ き特段の事情があるものというべきである。


 もし生物学説を採用するならば、血縁関係は希薄であれば希薄であるほど婚姻に適している、ということになる。しかし、世界には様々な文化があるが、その少なからぬ割合がいとこ婚を推奨している。文化人類学では二種類のいとこ婚を区別する。親と異なる性のキョウダイの子どもと結婚することを「交差いとこ婚」、親と同じ性の場合を「並行いとこ婚」と呼ぶ。さて、世界各地を見てみると、この交差いとこ婚が原則となっている文化が圧倒的に多く、並行いとこ婚を選ぶ文化もないわけではないが、少数である。もちろん、遺伝学的な近さという意味では、異父キョウダイ・異母キョウダイと同様に、並行いとこも交差いとこも変わりはない。また先の「叔父と姪」の事例に関して言えば、両者の関係において遺伝子は平均12.5%共通であるはずで、これは計算上両親のどちらかだけが共通のキョウダイと一緒ということになるだろう。前者を許容して後者は許容されないという判断があるとすれば、それは生物学的根拠を持つものではなく、社会的な道徳の問題ということになるはずである。


・「女性の交換」としての婚姻

 では、遺伝学的には等価な関係であるはずのところに、何故差が生まれるのだろうか? 例えば、なぜ交差いとこだけが好まれるかというと、それは共同体間の関係作りに役に立つからである。ここで、男系で家財を継承する文化を持ったA村とB村を想定しよう。A村の女の子はB村に住む「父の姉妹の子ども」と結婚する。またB村の女の子もA村に住む「父の姉妹の子ども」と結婚する。これによって、A村とB村は安定した関係を結び、どの世代でも女性がA村からB村へ、またB村からA村へと移行する。これは村の数が複数であっても成立する。ある世代の女性がA村からB村へ移動し、B村からC村へ、C村からはD村へ移行し、最終的に最後の村からA村に移行するシステムが完成していれば、親族ネットワークによって強化された村々の同盟関係は継続するわけである。文化によっては世代によって流れが逆流したり、もう少し複雑な関係が形成されることもあるが、基本的な構造は(クロード・レヴィ゠ストロースの言葉を使えば)「女性の交換」に他ならない。

 「女性の交換」という言葉は差別的だとしてレヴィ゠ストロースは非難を浴びた。一部の人類学者は「これは逆に見れば男性の交換でもある」とレヴィ゠ストロースを弁護したが、レヴィ゠ストロース自身は前近代にあって、価値があるのは女性であり、女性を他の共同体に送るという行為が同盟関係を結ぶ根拠になるのであり、共同体にとっては男性を送られたって嬉しくない。したがって、「男性の交換」という概念は意味がない、というようなことを言っている。また、レヴィ゠ストロースは南米で調査をしていたおりに、それまで全く関係のなかった二つの部族が同盟を結ぶことをきめ、その時から相手方を、交差いとこ婚関係にある親族をよぶ呼称で呼び始めた例を目撃したとも述べている。この逸話が示唆しているのは、親族呼称というのは生物学的な関係を記述するためのものではなく、社会的なネットワーク関係を示すための言葉であるのだろう、ということである。これはもちろん、少なくともレヴィ゠ストロースが目撃した先住民たちにとって、ということであるが、実は我々にとっても事情はそう変わらないのではないか。日本の「異父キョウダイ婚は許されず、異母キョウダイ婚は許された」というあり方についても、異父キョウダイ(つまり同母キョウダイ)は原則として同居しているのであり、結婚とは誰かがこの親族グループの最小単位から出て、別の親族グループに加わることだからである。



・世界的にみて、法律上の近親結婚禁止は緩和の方向に動くであろう。


 もちろん、現代社会ではレヴィ゠ストロースが述べるような、「女性の交換」を結婚の定義とすることは適切ではない。日本国憲法が「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と述べたのは、「当事者の合意よりイエや共同体の利害に基づいて結婚が決められる」ということは過去のものにしなければいけない、ということを述べた文言である。一方で、「共同体の外部に出て、新しい共同体をつくる」ということの社会的意義は失われていない。繰り返しになるが、婚姻は生物学的な再生産だけの問題ではないし、現代社会で「イエとイエの関係構築」としての婚姻という性質が時代遅れのものになっていくのと同様に、生物学的な機能のための婚姻も、時代遅れのものになっているのである。

 それは、我々の人間関係構築に、性淘汰という概念が全く無意味ということを意味するわけではない。例えば生物が気温の低いところに住むためには、体は大きい方が有利である。同種ないし近縁種であれば北方に住むものの方が体が大きい(低緯度帯に住むマレーグマより、ホッキョクグマの方が体が大きくなる、というようなことである)というのはベルクマンの法則として知られているが、これは人間にも多少は当てはまるだろう。一方で大半の動物にとって体のサイズは、交配相手を決める多様な要素の一つであって、それだけで決まるわけではない。まして、北方の国だからといって身長体重が基準を満たさない男女から結婚の権限を剥奪する、といった法律を制定する国はないだろう。同様に、性淘汰という観点からは、自分に近い遺伝的特徴を持つ相手を避けるように進化した個体は、遺伝的に近縁の個体を選ぼうとする個体よりも淘汰されにくいかもしれない(ただし、この進化的に獲得された遺伝的に近縁の個体を避ける修正を「ウェスターマーク効果」と呼び、19世紀から論じられ続けているが、人類で実際にそれが観察されるのかについては、議論の分かれるところである)。しかし、それを法律が追認する必要があると言えるだろうか?

 交差いとこ婚が生存競争に全く影響がないということではなく、もしかしたら長い年月の中で、交差いとこ婚を続けた結果として重篤な遺伝病を抱えた個体の数が多くなり、滅びていったコミュニティもあるのかもしれない。しかしながら、現代社会において、一般的には十分大きな人工群の中からランダムな交配が起こっているという状態において、たまにいとこ婚が発生したとして、その遺伝的リスクは必ずしも大きくはないだろう(もちろん、潜性遺伝する重篤な遺伝子疾患がどの程度の割合含まれているか、またその遺伝子を持っていたとして、どの程度発病につながるのかといったことによるので、病気の種類によって数字は変わってくる)。一方、小さなコミュニティの中で何世代も近親婚を続ければ、遺伝的リスクは無視できなくなっていくだろう。こうしたリスクを考えるならば、同じ遺伝病を共有する患者やその親族同士の婚姻をコントロールするのがはるかに効率的なのは明らかだが、こういった立法は現代の立憲主義国家では「優生学的」として回避されるだろう。また、日本では法規制の対象にできるのは「婚姻」だが、現代社会では婚姻とセックスは必ずしも同じではないし、セックスも子どもをつくることだけが目的ではない(ただし、米国の大半の州などがそうであるように、国によっては近親者の性行為を処罰する法律がある場合もある)。婚姻を規制することによって、遺伝子をコントロールしようという試みは、仮に社会が政策目標としてそれを受け入れたとしても(つまり「許容できる優生学」というものがあると認めたとしても)、社会実装は今後ますます難しくなるだろう。



・現代社会における結婚の意義は何か?


 さて、現代社会において、婚姻は「性淘汰の手段」でも「女性の交換」でもないとすれば、これは一体なんであろうか? 現代の法体系では、核家族に法的な地位を認め、価値観を共有し、協力して生活を営む最低単位と位置付けている。核家族の内部は親密圏として「それぞれの価値観に任され」、各国の法や慣習が認めるやり方で公共圏と接合される。近年では、家族の中のことに法や警察が介入する必要性が強調される傾向にあるが、それでも職場や街中といった公共空間法におけるトラブルに政府が介入するよりも、はるかに抑制的に行われるし、また行われるべきであるとされる。例えば子どもをどう教育するかというのは核家族の枠組みに基づく親権の一部であり、子どもに対する著しい人権侵害と見做されるケースは別として、親が子どもに対して塾に通うように求めるか、教会に通うように求めるかは親に決定する権利があると見做されている。また、病院や役所、金融機関といった諸機関も、基本的には本人の自己決定が難しい場合、親や配偶者に決定を代行させるような制度設計になっている。核家族は、最小単位のコミュニティとして、経済的利害を共有し、食事からトイレまで共有し、また社会に対しては、お互いの利益を代弁するような関係が求められる、ということである。こうした関係を構築するのに、必ずしも「結婚」という仕組みを利用する必要はないかもしれないが、特に「社会との関係」において結婚は「核家族の実効性」を法的に保証する。また、結婚式などのセレモニーは、周囲の人々に対して核家族の存在を示す役割がある。特に、高齢化した後や死後の手続きは、こうした核家族を前提としている一方で、同性愛の人々にとってはこうした手段が採用できなくなる、というのは全くもって差別的なことに思われる。

 では、セックスは問題ではないのだろうか? 現代社会において個々人がセックスに期待するものは、かなり多様でありうる。もちろん、単なる快楽を求めるというケースがあることを否定する必要はない。また、本当に子どもをつくることだけが目的であり「子どもができないのであれば、あんな相手とあんなことをしたくはない」と考えている人もいるのかもしれない。同時に、この「コミュニティの形成」もセックスの大きな動機になるだろう。最小単位のコミュニティを求めるということであれば、裸や他人には見せない姿を見せてもいい、ということを相互に確認するということも目的になるだろう。また、そうしたことが確認できたという安心感(もちろんそれは幻影かもしれないわけだが)は、社会的な動物である人類にとって、非常に大きな動機になる。アセクシャルなカップルが成立しないと主張するつもりは全くないが、そういった関係性を選ぶ場合は、セックスを伴う場合に比べて、煩雑なコミュニケーションが必要になるだろう。そのため、コミュニティを作ることを決断する最小単位としての二者が、セックスを伴う関係性を選ぶことには、それなりの必然性がある。まだ社会的には家庭の庇護を必要とする10代にとっても、将来のコミュニティ形成、あるいはそこまで計画的ではなくてもその模倣、あるいは単にそういう気分に浸りたいといった動機は重要であろう。

 一方で、現代社会においては当事者間の(つまり憲法が「両性の」と表記するところの)合意は重要である。合意がないセックスは暴力と見做される。この前提をおけば、合意を元にコミュニティを作った二者(つまり一般的には配偶者同士)ではなく、たまたまそこに巻き込まれただけの主体にとって、共同体内でのセックスというのは、極めてめんどくさい問題である。現代社会におけるキョウダイのインセストの問題というのは、基本的にはここに帰着するといって良い。(マンガの設定のようであるが)幼い頃に生き別れたキョウダイであると知らずに恋に落ちた二人が、事後的に血縁関係を知ったという場合は問題にしないという配慮はあり得るし、生物学的な問題は所詮確率論の問題として無視しても、大きな問題ではないだろう。一方で、同居家族内でそれと知ってインセストが起こっている場合については、遺伝学を持ち出す前に、むしろ何らかの暴力や強制の存在をまず問題にすべきである。「キョウダイ同士で愛し合っている」と主張する両者が、誰かからの脅迫や圧力を受けているわけでもなく、経済的独立と社会的な尊厳を持って人生を設計できる環境にあることを確認する必要があるだろう。ただ、「周囲の承認」という観点から言えば、キョウダイの場合はほぼ、元々承認されている状態にある。例えば、当事者が意識不明の状態での治療方針の確認といった場合、配偶者がいなければ親、親がすでにいなければキョウダイということになるだろう。もちろん、キョウダイの関係性をめぐって親と不仲になり、それが原因で病院などで意向の反映を拒否されるというような可能性はあり得るだろう。そういった問題を拾える制度は必要だが、それが法律婚なのかは議論の余地があろう。


・「結婚」の多様的な機能の大半を利用できないグループがある状態は差別である


 長々と述べてきたが、結論は単純である。婚姻とセックスは人生の非常に重要なエレメントであるが、それは必ずしも「子どもをつくる」ためではない。多くの現代人にとって、それはまず生まれた(コミュニティの最小単位としての)各家族を離れ、新しい「最小単位」を作るための手段である(コミュニティの移動という広い意味ではレヴィ゠ストロースの論じたものと変わってないだろう。ただし、それが親族の都合ではなく「二人の意思」においてのみ行われるということが近代自由主義社会における最低限の条件、ということになる)。人間はこのコミュニティで協力して日々の生活に必要な作業を分担したり、資産形成をしたり、相互の健康に配慮したりする。そういった作業のうち、少なからぬ割合が「この人たちは利害を共有する一つのコミュニティのメンバーですよ」という、外部からの認知を必要とする。これは法的なものであったり(相続の関係)、ある程度は社会慣習に基づいたものであったり(何らかの事情で当人の意思が示せない時に、誰が決断を代行するか)、あるいは完全に仲間内の人間関係によるもの(「家族同士の交流」に誰が呼ばれるか)だったりする。問題は複雑であるが、ヘテロセクシャルであれば「結婚」の二文字がこれらをパッケージで保証するのである。

 もちろん、実際は「結婚」というシステムにこだわる必要はないのかもしれない。ただ、パックスのような代替手段は各国で実践されているが、それらの国も結局のところ同性婚の導入にも踏み切っている。何がカバーできないと考えられていたのか、といった議論はされる必要があるだろうが、「子どもを産まないから結婚制度は必要ない」という話ではない(子どもに関しては、もちろんシングルで育てる人も増えている時代でもあり、様々な事情で孤児になる子どももゼロにはならないわけである。子育てを支援する制度を受けるために、カップルをつくることが前提されるべきではない。むしろ、子どもに対する給付や、医療・教育の無償化の拡大などで子ども一人一人に直接的な恩恵がある制度が必要だろう)。

 日本でも「結婚」という「古臭い」制度にこだわるのではなく、「結婚」が保障しているような諸機能を分解し、個別に必要なものだけを利用できるようにする、ということはあり得るように思う。フランスのパックス法がそういった意図で作られている(よく誤解されるが、パックス法は同性カップルのために作られたものではなく、利用者にLGBTQ+という自己認識を持っている人々がどの程度含まれているか、調査も公表もされていない)。しかし、それらの制度を社会的に用意せずに、「子どもを作らないんだからいいでしょ」と、特定のグループを排除することは差別だと言える。

 なお、言わずもがなだと思うが、一応強調していくと、本論考は近親婚、例えば同父母のキョウダイ婚を許容するべきだと主張しているわけではない。それらは、社会制度がどのように組み上げられるかという倫理的な問題だということを再確認した上で、当事者同士の福祉に最大限貢献するような形で制度設計されるべきだということである。当事者同士の福祉を真剣に考えるためには、議論をしたい人がまず読むべきは遺伝学の教科書ではなく、世界人権宣言であり、話を聞くべきは当事者であって生物学者ではない、ということを確認する必要がある。


 


 

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