2019年3月20日水曜日

「小学生のための放射線副読本」について

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 子どもたちが学校から「小学生のための放射線副読本」を、3月12日に貰ってきた(もしかしたら11日に配られていたのかもしれない)。この資料は色々問題があると思うわけで、これを使って授業をするというわけでもないわけであるが、何か納得いかないものを感じる保護者も多いのではないかと思う(もちろん、大半の人は問題だとは感じないと思うが…)。そこで、一応学校に手紙を書いておいた。
 急ぎ書いた手紙なので、書誌データなどが整理されていないので、その辺りを修正してからこのブログでも公開しようと思っていたのだが、そのままズルズルと日が経ってしまっていた。あまり大きくタイミングを逃しても意味がないと思うので、ここに公開しておく。


 子どもたちが学校から「小学生のための放射線副読本」を配られたということで、もらってきましたが、一読して非常に問題の多い資料のように感じました。これは、端的に言って「日本国政府が福島原子力発電所事故の影響を過小に見せ、自分たちの責任から逃れようとする」ための資料であるように感じます。





 いくつか問題はあるのですが、追ってみていきます。
 まず、9ページで、日本人は平均して自然放射線を2.1mSv、医療目的などの人工放射線を3.87mSv受けている、と説明されます。このこと自体は単なる事実ですが、これを「これくらいなら許容範囲」であると見せるような論調には同意できません。この日本の「医療目的の被ばく」は世界的に見ると極めて大きなものです。
 原子放射線の影響に関する国連科学委員会の2008年報告書によれば世界平均の医療被ばくは 0.6mSvに過ぎません。日本で医療被ばく量のが大きくなるのは、主にCTの撮影回数が多いことによるものです。また、このことは震災以前から問題視されており、政府の委員会(「医療放射線の適正管理に関する検討会」)などでも、低減していく方法について議論されています。
 このことからも分かる通り、10ページにおいて「100 ミリシーベルト以上の放射線を人体が受けた場合には、がんになるリスクが上昇するということが科学的に分かっています」という(震災以後政府が繰り返してきた)文言は、それ自体は嘘ではありませんが、「100mSv以下でもガンは増加する」という、近年世界の科学者によって広く共有されたコンセンサスを無視していることになっています。

 一般に、自然界の放射線源以外からの被ばくは「職業被ばく」「医療被ばく」「公衆被ばく」の三種類に分類されます。この内、「職業被ばく」と「医療被ばく」は、被ばくする人のリスクとベネフィットを比較して、基準値が決められます。つまり、CTスキャンはそれ自体がガンの可能性を上昇させる危険なものですが、それによって発見されるかもしれない(脳内出血などの)「より大きなリスク」がある場合に正当化されます。一方、「公衆被ばく」は、被ばくする人に何ら(健康や給料といった)メリットを与えずに、リスクだけ押し付けるような被ばくということになります。そういう意味で、他の二つの被ばくよりも低く抑えられることが求められているはずであり、あたかも「医療被ばくと同等であれば問題なく、また100mSvより低ければ問題がない」というかのような表現は大きな問題があります。
 実際、こうした基準を決めている国際放射線防護委員会(ICRP)は、1990年の勧告(Publ. 60)で、一般市民の公衆被ばくを年間1mSv以下にとどめることを求めています。ICRPの説明によれば、低線量の被ばくによるガンの発生率は、基本的に被ばく量に比例する(LNT/しきい値なし直線仮説)とされており、仮に1mSv以下でも、若干の増大はある、とされています。ただし、仮に公衆被ばくがなくても、世界の多くの場所で自然放射線元から2mSv強の被ばくがあることなどから、極端に低い目標を定めることは意味がないと考えられており、1mSvに留められたという経緯があります。これは、低すぎる目標であるという非難もありますし、他のリスク(例えばベンゼンなど、同様の発がん性があると考えられている化学物質の規制値)と比べて、かなり甘い(危険な)規制値だという非難もあります。ただし、日本では政府委員会などで検討が重ねられたにも関わらず、公衆被ばくを1mSvに抑えることを規定した法律はありません。これは、福島第一原子力発電所の事故についての国会事故調査委員会報告書(p.520-)が明らかにしているところによれば、電気事業者連合会(電事連)などが主体となって、立法を見送らせる強いロビイングがあったためです。

 現状、配られたパンフレットなどで、日本政府がこういった情報を(隠しているとは言わないまでも)曖昧にしているかというと、一刻も早い「復興」を演出するために、原発事故で汚染された地域への、一早い帰還を第一目標としているからです。しかし、どの程度のリスクで帰還するか、といったことは個々人の生活や仕事の事情、また地域への愛着といったものに左右されます。また、「低線量でのガンの発生率は被ばく量にほぼ比例する」という仮説を思い出していただければ分かる通り、七〇歳を超えるような年齢層の人が死ぬまでの二十年弱、被ばくすることと、学齢期の子どもがその後数十年にわたって被ばくすることのリスクは大きく違います。実際に被災地を取材すると、高齢者に「住み慣れた地域」への帰還の希望が強い一方、小・中学生を抱えた若い世帯では帰還を希望する人がほとんどいないというギャップが見られますが、これは(多くの場合、どっちにしても進学のために大半の若者が一度は村の外に出なければいけないという事情を考えなくても)科学的な合理性があるわけです。

  ICRPは、こういった1mSv以上の被ばくに関して、チェルノブイリ事故での経験などを参考に、2007年の勧告(Publ.103)で一定のプロセスを定めています。これによれば、一般公衆が継続的に1mSv以上の被ばくが見込まれる地域は「現存被ばく状況」にあると規定され、こういった地域に住む人については避難と(リスクを理解した上での)居住の両方の選択の権利があり、政府はそれを等しく支援しなければいけないと述べています。というのも、チェルノブイリ事故においては当初住民を強制的に立ち退かせたものの、高齢者を中心に多くの住民が非合法に規制地域に戻って生活している(こういった人々はサマショールと呼ばれている)ことから、「一定のリスクを承知で済むことは了承しなければいけない」という方向に方針が変化したことによるものです。
 もし日本政府がICPR勧告に従って現存被ばく状況を指定した場合、現在の指定範囲を大きく上回り、福島市やいわき市を含めたかなり広い地域の住民に対して「避難の権利」を認め、その避難を支援しなければいけなかったことになります。これは、福島県からのさらなる人口流出を招いたであろうことや、事故処理の予算が大きく膨れ上がったであろうことから回避され、比較的高い線量の一部地域に限定した避難が選ばれました。また、ICPR勧告は一定の範囲に選択の権利を認めることを求めていますが、日本政府は「避難すべし」と決めた地域からの避難はほぼ強制的に進める一方、そうでない区域からの避難は(現存被ばく状況にあっても)あくまで自主避難であるとして(家賃支援などのわずかな例外を除いて)ほとんど何も支援しませんでした。また、避難指示からの解除についても、解除地区の住民に関しては解除後速やかに帰還するように求め、住宅支援などを打ち切ってきました。こうした「住民自身の自主的な判断を認めない」というのは、日本政府の被ばく管理政策の顕著な特徴であり、人権上大いに問題があるところです(例えば、チェルノブイリの影響が続くウクライナでは1mSvから5mSvの公衆被ばくが予想される区域が「移転か、居住か」を選べる地域として指定されており、どちらを選んでも政府の財政・医療支援などが得られるということになっています)。

 また、12ページの福島県での健康調査に関しても、
1)線量があくまで推計であり、特に半減期の短いヨウ素131に関しては、原発事故直後にどの程度被ばくしたか、確実な情報は存在しない。
2)そのこともあって、ヨウ素被ばくで起こるとされている甲状腺ガンの発生については、多く発生しているとする専門家と、検査したことによって隠れていたガンが見つかっただけだとする専門家がおり、現在でも議論が続いている。
 という状況であり、影響がなかったという結論は早計でしょう。

 そのようなわけで「復興」に当てられている第二章以降に関しては、事実上「帰還すること」が規定方針となっており、個々の被災者の選択という観点を欠いていることが問題であると言えます。
 13ページの図では、福島の線量が世界の他の地域と比べても高くないと示すものになっています。しかし、(1)これまで述べたとおり、自然放射線(バックグラウンド)と公衆被ばくを混同することの倫理的問題があり、(2)また、ここで示されているのは代表的な(役場の前など)すでに除染の済んだ場所のことであろうと思われ、山林に近い場所などまだまだ線量が高いところはあるという意味でも不適当です。

 こうした環境を考えれば、福島の状況を「安心して住める場所ではない」と考える人がいることも十分に理解できます。大阪にも現在も「自主避難」を続けている人々が住んでいますが、そういった方々の判断は尊重されるべきで、そこに政府・東電から十分な支援がないという状況は、問題として認知されるべきです。現状で、「復興に向けた取組が着実に 進すすめられています」(14ページ)という表現は適切とは言い難いでしょう。
 もちろん「現存被ばく状況」でリスクを勘案しても「住む」という結論を出すとしても、それは尊重されなければいけない、というのが現在の国際的なコンセンサスであり、福島に住む権利は保証されなければいけません。

 学校教育という意味では、本当は15-16ページの記述が一番重要だと思っています。しかし、この記述は、人権や多様性の尊重という価値の問題と、科学的な事実関係に関する記述が混じり合い、極めて混乱したものになっています。冊子は次のように述べています。
「また、今回の事故の影響で原子力発電所の周辺に住んでいた人が放射線を出すようになるというようなまちがった考えや差別、いじめもおこりました。原子 力 発電所の周辺に住んでいた人が放射線を出すようになることはありませんし、放射線や放射能が、かぜのように人ひとから人ひとにうつることもありません。」

 しかし、事実関係として「まちがった考え」であることと「差別、いじめ」は関係のない問題です。例えば、HIV/AIDSやハンセン病の患者に対する深刻な差別は日本に住む我々が大いに反省すべき負の歴史ですが、これらが「全く感染しない」わけではなく、「適切な社会的配慮があれば、患者の社会参加と社会にとってのリスク管理は十分に両立できる」という問題です。そして、この「両立に向けてきちんと制度設計できるか」ということが、近年しばしば報道などで触れられる「合理的配慮」という問題な訳です。

 この「合理的配慮」ということが言われるようになった一方で、移民や障がい者などを社会的なリスクであると名指しして、排除するといったことが、政治的手法として採用されるということが世界的に進められています。被ばくの問題に関しても、「存在が社会的リスクでないか」という事実命題を、「差別をしてはいけない」という価値命題の根拠にするのは、事実命題は容易にひっくり返るという意味でも大変に危険です。水俣病などの公害病に関しても、もちろんこれらは感染症ではないわけですが、その存在自体が地域の評判を落とし、また治療などで地域社会に有形無形の負担をかけているということが、非難の的になり、患者に対する社会的排除が生じた、ということを我々は見据える必要があります。福島の被災地においても、避難地域の住民が住居補助などを受けているという事実が、そういった補助の対象になっていない地域の住民のやっかみを生んでいる、という面もあります。(科学的な)「事実」の問題ではないのです。





 人権を尊重する、差別をしない、というのは「リスクをどの程度評価するか」「その結果として、どのようなライフプランを選択するか」ということを、国民全体が統一するということではなく、むしろ逆にお互いの感覚や現実認識が異なることを尊重する、というところから始まると思います。その意味で、「福島の放射線量は安全な域である」「復興は順調に進んでいる」といった一面的な見方のみを政府が広報し、それを事実だと受け入れないと「差別がある」かのように言い立てるという姿勢は、それ自体がむしろ差別構造を作り出しているとも言えるものです。


 小学校教育においては、福島で生活している人にも、避難することを選んだ人にも、それぞれのリスク認識と選択があり、相互に尊重できるはずである、というところから子ども達に教えていただきたいと思っています。その面では、この文章の前半で触れた「科学的な事実」の認識というのは、それ自体は本質的に二次的なものです。ただし、政府の広報資料がどういった方向に間違えるか(あるいは、どういった方向には決して間違えないか)、ということを考えれば、一連の間違い方は決して偶然や能力の不足ではなく、一定の目的を持って「間違え」られている、ということは認識する必要があります。小学校低学年では難しいかもしれませんが、遅くとも高校を卒業するまでには、メディアや政府広報を批判的に検証するという能力を身につけることが、公民教育という観点から重要なわけで、もしこういった資料がそういった長期目標に寄与するのであれば好ましいことですが、ただ渡しただけや、内容を肯定的に紹介するだけでは、そういった意味でも逆効果になるのではないかと危惧しています。
 お忙しいところをお読みいただき、ありがとうございました。



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