2019年7月20日土曜日

(包摂的)ポピュリズムが成功する可能性はあるか?

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1. なぜ「マジョリティのヘテロ男性」は差別され得ないのか?


 文化人類学やカルチュラル・スタディーズは"差別というのは、基本的に「コミュニティの境界確定」のためにある"と論じてきた。


 自然界は通常、曖昧なものである。
 例えば、大人と子どもを考えてみよう。
 村の秩序は、たとえば大人になれば村の方針を決める寄合に参加できる、酒が飲める、結婚ができる、と行った「権利」を「大人」に付与するであろう。
 一方、昆虫の類ではない人類に、大人と子どもの境界線が自然に与えられるわけではない。
 大人であるかどうかは、年齢であったり、慎重であったり、第二次性徴があったかどうかだったり、あるいは「戦に出る」能力と行ったなんらかの能力であったりで決められるだろう。
 現代社会であれば、法律は通常年齢を大人と子どもの境目を決める手段として選び、特に誰が何かを宣言しなくても、法律は全ての個人を粛々と大人に分類していくだろう。
 我々にはある日突然、投票のための書類が送りつけられたり、犯罪を犯した時の罰則のルールが変わったりするわけである。




 しかし、前近代的な社会では、役所に文字記録があるわけではなく、誰かが成人したかを機械的に判断するのは難しい。そこで儀礼の登場である。
 日本の元服などもそういうことだが、儀礼には、ある「区別は必要だが、境界の曖昧なもの」の境界線を確定し、その文化を共有するコミュニティ内部での意思統一を図る効果がある。


 この「境界線画定」は様々なものに及ぶし、場合によっては逆に境界を越境させるような「魔術的効果」が期待される。
 メアリー・ダグラスによればアフリカのレレの人々は森の動物と人間の間、人間と水の生き物の間に境界があると考えているが、センザンコウはそれらを越境する存在である。
 なぜなら、センザンコウは森の生き物でありながら魚のようにウロコを持ち、また森の動物たちが一度に複数の子を産むのに対して、センザンコウは人間のように一回の出産で子どもを一匹しか産まないからである。
 逆に、人間であるにも関わらず、双子を産んだ母親は、その動物的特性に着目されるし、センザンコウは子宝を願う儀礼に(動物としては子沢山とはいえないにも関わらず)重要な役割を担う。
 レレの人々は、センザンコウが動物の世界から人間の世界に越境してくることと、女性が人間の世界から動物の世界に越境するように願うことを、儀礼のプロセスの中で関連づけるのであり、この関連性は呪術的な効果を持っていると信じるのである。


 さて、このようにこうした儀礼による区別は、個々の文化に内在的な文脈の中では必ずしも否定的なものではない。
 一方で、もし現代社会において、社会の側が女性の役割を外形的に「出産すること」だけと位置づけ、その役割を押し付けることによって他の選択肢を奪うとすれば、それは非難されることになるだろう。


 さて、最も政治的な「境界画定」は、共同体の外縁である。
 共同体は実際は、複合的であり、一人の人間は様々な共同体に横断的に関わっている。
 ある人はナントカ村の住人として村の共有材(コモン)を利用し、ある家族の一員である一方で、父方、母方のリネージ、クラン、民族に属している。
 また、宗教や生業も、それぞれの共同体を形成するかもしれない。


 そして、特に前近代的な社会では、その曖昧な帰属をどのように画定するかが、人生を決めると言っても過言ではない。
 どの村の住人か、ということによって、水利権や講の参加、家事や健康状態の急変で誰に助けてもらえるか、誰の農作業を手伝い、手伝われるか、そして自分の子どもたちを誰と結婚させ、誰に財産を譲るか、と言いった人生の諸々が、どの共同体に属するかで概ね決まってくるのが「前近代」であり、そう言った束縛からの自由を約束するのが「近代化」である。


 しかし、コミュニティの境界というのは簡単に決まるものではない。
 何を持ってして「XX民族」と言えるのであろう?
 宗教的儀礼を実践していることや両親の所属が基準になるかもしれないが、それらももちろん絶対的なものではない(宗教的儀礼を完璧に実践している人はどの宗派でもあまりいないだろうし、ではどの程度だったらいいのか、という議論に簡単な結論は出ないだろう)
 その時、おそらく最も危険で、しかし残念ながら最もありふれているのが「否定の否定」、あるいは「排除」による所属の画定である。
 つまり、共同体が「あれは我々のコミュニティではない」と名指すことによって、そこに境界線が確定されるということである。




  しかし、お分かりのようにこういった排除は、要するに子どもが遊びで「えんがちょ」するようなものであり、人類のコミュニケーションにとって根元的なものである。
 こういったものを日常世界から完全に除去することは難しいだろう。
 排除は、個別の伝統主義的な文脈で言えば、否定的とは限らない。
 先の「センザンコウと双子の母」の事例で述べたように、儀礼は必ずしも否定的なものではなく、こうした名指しも儀礼の一種だからである。


 しかし、だからこそ、我々はこういった「差別による切断処理」が世俗主義的であるべき市民社会的な領域と切り離されるように、慎重にならなければならない。
 「個人単位の人権」という概念が確立した現代社会においては、こうした名指しをすることは、個人の選択肢を奪うという意味で、肯定的なものであっても問題になりうる。
 例えば、ネパールでは学齢期前の幼女からクマリ女神の化身を選ぶわけであるが、この子どもはもちろん大いに尊敬され、大事にされるが、一方で成人後(つまりクマリ女神の化身ではなくなった時)に、それまで学校へ行く機会を奪われていたことなどによる、様々な問題が生じる。
 同様に、もし米国の高校で「アフリカ系の生徒の陸上適性の高さ」を大絶賛する、ということが起こったとすれば、それはもしかしたら彼らを別の何か(例えばフットボールのチームや生徒会的な業務)から彼らを遠ざける効果が(意図的か否かに関わらず)あるかもしれないと疑うべきであろう。
 こうした、ある属性を名指しし、誰かを排除することによって。そこをコミュニティの境界線にする行為を、「差別」あるいは「社会的排除」(Social Exclusion)と呼んでいるのである。


 したがって、差別は単なる誹謗中傷ではない。
 名指されることでコミュニティへの所属や発言の権利が疑われないような属性は「差別」を形成しない。
 例えば、日本において「大和民族でヘテロセクシャルの男性」であることが排除の有兆項を形成することはありえないので、それらの特性を侮蔑的に表現した「おっさん」が誹謗中傷だったり侮辱だったりすることはあり得ても「差別」であることはあり得ない。
 ただし、より小さなコミュニティ、例えば「最近共学化されたばかりの女子校で、男子生徒はまだ数人しかいない」というようなシチュエーションを想定した場合、男性であることを有兆項として扱って、社会的評価の高い領域(例えば生徒会活動)から排除しようとする、と言ったことはあり得るし、これは(例えば侮蔑的な言葉ではなくて、「男子生徒は運動が得意で」と言った言挙げ型であっても)差別を形成する。
 同様に、「大和民族でヘテロセクシャルの男性」であることが、その社会に所属する自明の属性ではない場合(例えば諸外国における日系人の位置付けを考えてみれば容易にわかるように)、それが差別的に扱いうる属性となることは当然ありうるわけである。

 鳩山元首相がかつて「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから」と述べて大いに反発を買ったが、もしこれが反発を買わず自明のこととされる社会が来れば、可能性としては「大和民族でヘテロセクシャルの男性」であることが差別の対象となることはあり得るかもしれない。
 ただ、それは一方では「差別は概ね解消された」時代だとも言えるだろう。
 例えばオバマ大統領が誕生した頃であれば、人類は「世界がそう言った状態に徐々に近づいている」という肯定的な感情を抱けたかもしれないが、現在はむしろ大きく後退していると言えるだろう。

 ただ、一般論としての日本社会を考えたときに「大和民族でヘテロセクシャルの男性」への差別を考える必要はない。
 もし、その属性に当てはまる人が生活の困難を感じたとすれば、それはマイノリティ闘争モデルではなく、階級闘争モデルでの対応を考えるべきであろう。
 もちろん、クリントン政権誕生前後から、世界的に「マイノリティ闘争はイケてるが、階級闘争は古臭くて機能しない」というイメージづくりが行われてきたことは指摘されなければならないだろう。
 「政権を担える現実的な左派」イメージを作るために中道左派政権のエリートたちは積極的にこのイメージを受容し、拡大した。
 これが、近年の極右伸長の背景にある「リベラル不信」があるとすればそれは妥当だと思う。
 しかし、本来的にはまず階級闘争があるのであり、階級闘争で回収できない諸問題のためにマイノリティ闘争があるのである。
 「マジョリティ弱者」も含めた我々は、階級闘争を再び構築しなければならない(そして、間接民主制をとる国家において単純に「数が多い」ことを考えれば、それが勝利への最短コースであることも、本来は疑いがない)。



2. それでもなお辛い「弱者おっさん」にとって、包摂的ポピュリズムは助けになるか?

 さて、再びセンザンコウを思い出そう。
 区別を導入するという認知的な目的を持った儀礼は、一方で認知される世界を加工する目的にも使われる。
 同様に、コミュニティの境界線を確定するための「差別」は、自分がコミュニティに属していると自分自身が確認したり、他者にそれをアピールするために儀礼になりうる。
 困ったことに、こう言った行為の政治的な効果は、「センザンコウと双子の母」よりはだいぶと実際の社会関係に影響を及ぼすことである。
 つまり、誰かをそのコミュニティに属さないとか、あるいはそのコミュニティにとって反逆者であると名指しし、その排除を積極的に行うことによって、逆に自分がコミュニティに属しているという安心感を得たり、周囲にアピールできる、ということである。
 これはおそらく、センザンコウに祈ることによって多産になるよりは、強力な効果を持っている。


 しかし、なぜこのような操作が必要になってくるのだろうか?
 「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから」という発言について、鳩山は「博愛主義」に基づくものだ、と発言している。
 博愛主義はフランス革命のキャッチフレーズ、自由・平等・博愛に基づくが、現代では博愛(fraternité)という言葉の持つ宗教的、あるいは男性主義的イメージ(fraternity はもともと「兄弟愛」の意味)が嫌われて連帯(solidarity)が使われうことが多い。
 この「連帯と人権」というのは、民主制の大前提となる原理と考えられている。


 つまり、ある人が助けを必要としているとして、国家がそれに応じる条件は普遍的人権のみである、という考え方が我々の社会の前提となっているということである。
 これが達成されていると、先の「社会的排除」(Social Exclusion)に対して「社会的包摂」(Social Inclusion)といい、差別に抗する社会とはすなわち社会包摂的な(Social Inclusive)社会を作る、ということである、と言える。


 しかし、一方で我々は「すべての人が救われるだけの資源を、我々は持ち合わせていないのではないか」という疑惑ないし恐怖を持っている。
 そう言った疑惑に取り憑かれると、社会の「助けてもらえる方」と「助けてもらえない方」の区分線が気になり始めるだろう。
 そして、誰かを有徴項として排除し、自分が「助けてもらえる方」であると示そうとし始める。
 救済のための資源の枯渇に対する恐怖感が動機な訳だから、「助けてもらえる方」は少ない方がいいが、自分がそこに入っていないと困る、というジレンマが論理的に導き出されるだろう。
 また、資源を分配する役割を担う指導者は、公正であれば人権のみを原理として資源を分配するわけだから、資源が足りなくなることが予想されるわけであり、「誰か(つまり自分たち)を優遇する」、つまり公正さ(Integrity)に欠ける指導者である方が好ましい、という屈折した状況も生み出される。
 (ただし、この公正さにかける指導者を支持するということは、自分自身も簡単に裏切られ、切られるというリスクを負うということでもある。どんな理由でも「非国民」とか「反社会的」というレッテルは貼れるわけで、実際にどんな全体主義国家でも秘密警察に捕えられたり、収容所送りになるのはマイノリティだけではないのである)

 こうした認識に立脚し、資源分配に関する恐怖と、それに対して「あなた方を優遇しますよ」というサインを出し続けることによって指示を伸ばすのがこれまで「ポピュリズム」と言われてきた。
 そのため、ポピュリズムとは基本的にその地域の民族的属性にしたがって社会を分断し、マジョリティを優遇するという姿勢によって指示を伸ばす姿勢であった。
 これに対して、ギリシャのSYRIZAやスペインのポデモスなど「左派ポピュリズム」ないし「包摂的ポピュリズム」(Inclusive Populism) と呼ばれる勢力が誕生してきた。
 これは、資源の枯渇に対する大衆の怒りを書き立てることに立脚する一方で、それらは実は本来十分にあり、公正に分配されていないために足りないかのように見えるのである、と論じる立場である。


 ポピュリズムの最大の問題は社会的排除であり、包摂的ポピュリズムであれば倫理的問題はないように見える。
 米国のオキュパイ・ウォールストリート運動が「我々は99パーセントだ」というキャッチフレーズを採用した時に、やはりこの運動が社会排除的なのもではないかという懸念を表明する人々もいた。
 しかし、99%対1%が、属性の問題ではなく、単に経済的な問題であり、再配分政策によって是正が目指されるというコンセンサスが示される中で、「99パーセント」というキャッチフレーズは定着してきた。
 したがって、ポピュリズムが許容可能なものである前提としては、その包摂性を何度でも確認することであろう。
 

 もう一つ、検討すべき問題があるとすれば、ポピュリズムの公正性という問題である。
 包摂的ポピュリズムの前提は、「すべての人の救済は可能だ(したがって行うべきである。それも今すぐに)」ということである。
 しかし、もし実は本当に資源が足らないとしたら、我々は「すべての人の救済」を断念し、右派ポピュリズムに転換すべきであろうか?
 もし、「おやつが十分にあるときは弟、妹におやつを分け与えるが、おやつが少ししかない場合は独占する長子」がいたとして、少なくともその子を「公正である」とは褒め難い。
 同様に「資源が十分にあるときだけ全員を救済する」という包摂的ポピュリズム・リーダーは、本当の意味で信用されるのか、という問題がある。
 もし、排除的ポピュリズムに乗り換えなければならないとしたら、多分早めにやっておいたほうが有利なポジションを手に入れられるだろう、という戦略的計算は誰でもするであろう。
 今の所、世界の包摂的ポピュリズム・リーダーたちは、「資源が足らなかったとき」のことは考える必要はない、という態度をとることに決めているようだ。
 実際のところ、物理的なレイヤーを考えれば、今のところ人類には十分な食料と土地が与えられており、あとは再分配の問題である、という議論は説得力があるように、私も思っている。
 しかしながら、この再配分のレイヤーが、本当に機能するのか、ということに関しては(MMTやベーシック・インカムといった理論が様々提示されているが)、確証を持てる人はいないのではないだろうか?


 包摂的ポピュリストは、憎悪や排除に基づく甘美な擬似連帯を聴衆に与えることができない。
 そのために、「みんなを助けたい」という時のみんなとは誰なのか、つまりあいつを排除していないなら自分の優先順位は下げられるのではないかという聴衆の恐怖を調停する必要がある。
 また、「人々を救済する資源は無限ではないんだよ」というエスタブリッシュメントからのツッコミからも自分たちの議論を防衛してみせる必要がある。
 この二つが同時に可能か、というのが常に包摂的ポピュリストに問われる課題である。
 その負荷に耐えられなければ、包摂的ポピュリストは政治勢力として崩壊するか、極右ポピュリストに鞍替えするかの選択を迫られることになるだろう。


 こうした時、包摂的なポピュリズムであっても、ポピュリズムはしばしば、およそ考え付く限りの社会問題を、一つの解決策で解決できると主張しがちである。
 これは、もう一つの躓きの石であるかもしれない。
 いかなる解決策であっても、その効果は有限であって、全ての人を幸せにするには十分ではないし、複雑で巨大な社会・経済的な事象を扱う以上失敗もある、ということは常に念頭に置いておくべきであろう。
 そして、「資源が足らなかったとき」にも、次の手段を探して、それでもなおデモクラシーを進めていくのだ、という覚悟が必要になる。
 おそらくは、単一の経済理論、単一の政策ではなく、無数の、大して面白くもない、「わかりやすい救済」を求めている人々の心には響かない政策を一つ一つ実施していくことが必要になるだろう。
 それは包摂的ポピュリズムの指導者たちに可能だろうか?


 「段階論」は、少なくとも一時的には包摂的ポピュリズムを正統化するかもしれない。つまり、多くの人々が政治に無関心な状態から「目覚める」ためには、それが自分たちを救ってくれるという信頼感が必要であり、民主制の原則がいかなるものであるにせよ、それは運動の中で学んでいけばいい、というものである。
 基本的に、スペインのポデモスはこの原則を採用していると考えていいだろう(彼らはしばしば、戦略的なポピュリズムとか、ポピュリズムの闘争方針を模倣した左派運動、と自分たちを規定している)。
 日本でもそういった運動を確立することは、不可能ではないかもしれない。


 少なくとも第一の原則として「自分たちが排外主義ポピュリズムに陥っていないか」という確認、また第二の原則として「バラ色の解決策がうまくいかなかったとしても、それでもなお連帯と人権の原則を支持者に説き続ける」覚悟があるか、ということは確認されて良いだろう。
 もしこの原則を満たすのであれば、包摂的ポピュリズムは正規労働者に基盤を置いた既存の左翼勢力と別に(理想的には補完勢力的に)日本を民主化する重要な力になるかもしれない。
 そこに期待するのは、そんなに無茶な話でもないだろうし、本質的にはそこにかけるしか、日本社会(の99パーセント)、特に我々のようなロスジェネおっさんに残された道はないかもしれない。
 


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