「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」のワークショップ、「クライメート・ジャスティスの観点からCOP21 交渉を、そして原発再稼働を考える」でしゃべらせていただきました。
当日、このとおりしゃべった訳ではありませんが、発表原稿を公開しておきます。
他の方の発表は、ATTAC関西のブログに報告が掲載されています(1, 2, 3)。
当日、このとおりしゃべった訳ではありませんが、発表原稿を公開しておきます。
他の方の発表は、ATTAC関西のブログに報告が掲載されています(1, 2, 3)。
「平和と脱中心化のためのソフト・エネルギー・パス」のために
1. 資源の過剰利用、過剰排出
現在、社会運動の中に「原発と気候変動」というテーマを巡って、奇妙かつ不必要な対立があることは、みなさんご存知の通りであると思います。まず、人類による、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの排出の結果として、地球の平均気温が上昇し、地球の生態系やそれに依存する人々の営みに危機的な変化がもたらされる、という見解があります。しかし、これは「原子力ロビー」が、人々に原子力発電を受容させるために生み出したフィクションであり、温暖化は一時的なものであり、また人為的なものではない、という批判がある訳です。「温暖化懐疑論」はより広い人々を含み、例えば重工業や石油産業の振興をもくろむ人々から提供された資金によって、主に右派と呼ばれる人々が主張することもあります。例えば、アメリカの「ティー・パーティ」をはじめとする右派勢力は、基本的にこうした懐疑論の立場を取ります。しかし、ここで問題にしたいのは、主に「反原子力」という立場から温暖化懐疑論を選択する人々のことです。世界社会フォーラムの場でも、数は多くありませんが、こうした立場の社会運動は見ることができます。日本国内でも、同様で、数は多くありませんが、大きな影響力を持つとされる左派の思想家にもこういった考えを持っている人はいます。この議論は、必然的に、「原子力発電は、気候変動の抑制に有用である」という立場の人々への反論ということにもなります。つまり、我々は、人類生活に深刻な影響を与える危機として、気候変動の抑制と原子力発電の放棄の、両方を同時に達成しなければならないのであり、またそれは可能なのだ、と表明する必要がある訳です。
まず、環境問題全般を見渡してみる必要があります。ストックホルム大学にあるStockholm Resilience Centreが発表している、地球環境問題を示した図をみてみます。Planetary Boundaries (地球の臨界点)と題されたこの図は、現在地球が抱えている、主要な九つの環境問題を図示したものです。問題とは、
・気候変動
・バイオスフィアの十全さ(遺伝的多様性と機能的多様性) Biosphere Integrity
・窒素及びリン汚染
・土地利用の変化(森林を農地、道路、都市に転換すること)
・新規物質の放出
・エアロゾル負荷
・淡水の過剰利用
・海洋酸性化
・成層圏のオゾン層破壊
バイオスフィアの十全さと表現されているのは、所謂「生物多様性/Biodiversity」のことです。
このうち、オゾン層問題だけは、人類が比較的よく対応している問題ですが、他はまったく解決の糸口が見えていない、と言えます。
また、一見して気がつくのは、生物多様性の機能面は他の問題に比較して複雑ですが、他の問題はすべて、資源の過剰利用か、利用した資源の過剰排出に関わるものです。また、これらの「過剰利用、過剰排出」が始まったのは、産業革命のときからです。
重要な点は、産業革命以降の我々の活動は、気候変動以外にも様々なやり方で地球環境に影響を与えており、それは基本的に、限りある資源を過剰利用することか、その結果を過剰排出することの結果である、ということです。二酸化炭素は、温暖化だけではなくて海洋の酸性化の主要な原因物質でもあります。いずれにしても、気候変動は仮に否定できたとしても、この「資源の過剰利用、過剰排出」という大規模な問題の一部にすぎず、いずれにしても長期的にはゼロ・エミッションを目指していくしかない、ということです。
2. 環境債務
これをどうすればいいか考える前に、これが社会運動の主要なテーマとして、南北問題と関係しているということに留意する必要があります。
これは、南北格差の問題でもあるということです。なにをもってして先進国というかは定義が分かれますが、一般にはOECD加盟国のうち、国民平均所得が1万ドル未満のトルコ、チリ、メキシコを除外したものを「先進国」としていることが多いようです。この定義に従えば、だいたい全人類70億人のうち、10億人が先進国に住んでいるということになります。もちろん、先進国に住んでいても貧乏な人もいれば、第三世界に住んでいても豊かな人もいる訳ですから、一概には言えませんが、先進国の住人は、産業革命以降、資源利用と排出を積み重ねることによって構築されたインフラを十分に活用することができるわけです。日本は、産業革命のはじまった18世紀半ばには鎖国をしていましたから、この流れに即乗ったわけではありませんが、一世紀ほどおくれた19世紀末には、猛烈な勢いでキャッチアップを開始します。「資源の浪費と排出」という問題を気にする人が殆どいなかった時代を十分活用できたと言えるでしょう。一方、インドや中国をはじめとした、近年経済成長を始めた国々は、環境問題という大きな拘束を受けながら進める以外にないわけです。もちろん、環境問題に対して先駆的な警告を発していた人々は数多くあげることができますが、こうした拘束が国家を縛るようになったのは、1991年にリオデジャネイロで行われた環境サミット以後のことであると言っていいでしょう。リオ・サミットは、市民社会組織が大きな役割を果たした最初の会議としても知られています。
さて、この拘束を、環境債務(Ecological Debt)として論じる考え方があります。例えて言えば、資源や排出量限界というのは、地球が数十億年かけて蓄積した財産のようなものです。そして、産業革命を迎えるとこの財産へのアクセス権が与えられます。先進国は、比較的早くにこのアクセス権を手に入れてしまったということになります。先ほど、70億のうちの10億人が先進国の住民だといいましたが、7人兄弟の一番上の兄が、膨大に蓄積された親の遺産を、おおかた使い尽くしてしまった、ということです。次男、三男(中国やインドのことです)は、遺産を使えるようになったらどう使おうかと楽しみにしていたのですが、いざ財布をあけてしまったらわずかしか残っていなかったので、慌ててそれを使い始めた、ということでしょう。さらに下の兄弟たちは、自分たちが使えるようになるまで、すこしでも遺産が残っているか、不安に感じています。この状況下では、現在残されている遺産を平等にわけるだけでは不十分で、遺産を浪費した長兄は、その浪費によって得られた成果の一部でも、他の兄弟に還元する義務があるだろう、ということです。これが、北が南に負っている「環境債務」である、といえます。これは、グローバルな公正さのために、南北両方の社会運動が連携して取り組んでいくべき課題であろう、と思っています。
3. 平和と脱中心化のためのソフト・エネルギー・パス
さて、次にゼロ・エミッションを目指していく上で、原子力の存在が有用ではない、ということを示さなければ行けません。私の考えでは、化石燃料依存か、原子力依存かの二択である、というのは間違っており、まず原子力への依存をやめることで、はじめて化石燃料への依存を軽減できるのです。
これは主に二つの理由によるものです。第一に、原子力発電は建設のために巨額の資金を必要とする巨大プロジェクトであり、また、近年、安全性に体する要求が高くなっていることを反映して、建設コストは上昇を続けています。従って、原子力は長期的なエネルギー消費予測に基づいて、国家や大企業によって建設され、数十年かけてその資金が回収されます。しかし、すくなくとも先進国では数十年前に予想されたほどはエネルギー消費は伸びていません。これは、人口や経済規模が予測されたほどは大きくなっていないこと、省エネ技術や代替のエネルギー技術が発達したことなどによります。例えば、省エネ技術の発達は喜ぶべきことであるはずですが、国家が原子力のセクターを持ってしまうと、これに投じた巨額の資金や養成してしまった人材を持て余すため、省エネをしたくないという勢力が国家内に出現します。
一方、自然エネルギーの多くは小規模です。火力発電所は小規模とは言いがたい設備ですが、それでも一基あたりのコストは原子力の比ではありません。こうした技術の最大のメリットは、もし必要がなくなれば撤退が容易である、ということです。アメリカの環境学者エイモリー・ロビンスは、前者の、まずエネルギー消費予測があって、それに見合う発電量を中央集権型で供給するシステムを「ハード・パス」、それに対して分散型で地域に即したエネルギー供給を確保する道を「ソフト・パス」と呼んでいます。そして、原子力の最大の問題は、それがハード・パスを前提とせざるを得ないことであり、原子力を利用している限りは、省エネを阻害する圧力として機能する(そうでなければ巨額の投資は無駄になる)、ということを指摘しています。これが、原子力が環境問題の解決にならない、第一の理由です。
第二の理由は、それが対外的には戦争、内部的には警察国家を前提としたシステムである、ということです。現在、原子力に使われているウラニウムは希少資源で、それを確保するためには資源獲得競争に勝たなければいけません。資源獲得競争はもちろん、直接的な軍事力の行使によって行われることもあります。また、日本はこれまで直接的にこれに加担してきた訳ではありませんが、アメリカを中心とした西側世界による世界支配の恩恵を受けていることは疑いを得ません。また、直接的には、例えばカザフスタンのような独裁国家を積極的に支援することで、当該地域の人々の人権を犠牲にして資源を確保している訳です。また、長い資源の供給ラインは軍事力によって守られなければ行けません。核物質は兵器転用の可能性もあり、そういった技術を持たないグループであっても単に放射性物質をまき散らす兵器(Radiological Dispersal Device)、所謂「汚い爆弾(Dirty Bomb)」として利用が可能なため、この安全性はより厳格に守られなければ行けません。もちろん、これは国内であっても同様であるため、放射性物質を管理するということは、そのために監視国家をつくりあげる、ということになるわけです。戦争は最大の環境破壊ですし、警察国家においては人権は抑制されるばかりか、自由な情報交換、市民による政府や大企業に対する監視活動、ソフト・パスのための自由なイノベーション、といったことが阻害されることになるわけです。
我々は、人権を尊重する社会を守りつつ、ゼロ・エミッションを目指していくために、原発への依存をやめなければいけません。また、これは火力発電を利用せよ、ということでは勿論なく、海外からの資源への依存を徐々に減らしていき、ゼロ・エミッションを達成しなければ行けません。しばしば、「火力か、原子力か」という議論がされますが、少なくとも(今のところ電池だけで軍事作戦が可能な兵器が殆どないことを考えても)原子力への依存は、化石燃料への依存から人類を脱却させる訳ではなく、より深い依存へと引き込むことは明らかです。逆に言えば、原子力への依存から脱却することは、将来の化石燃料依存からの脱却のための、重要なステップであるわけです。