2015年12月11日金曜日

良いベーシックインカムと悪いベーシックインカム

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フィンランド政府がベーシック・インカム導入、というニュースが話題になった。結果的には、即導入というものではなく、導入を検討中、というニュースであったため、騒ぎは沈静化の方向だが、先進国のひとつが現実的な選択肢として捉えているというのは、大きなニュースであるとは言える。
さて、ベーシック・インカムとは、全国民に固定で(最低限生活できる程度の)現金を給付するというものである。フィンランドのケースでは、800ユーロ(約11万円)の支給が想定されているという。未成年にも配るかといった方法の違いはあるが、基本的に個人単位で配るため、数人で世帯を形成すれば生活費は確保できる。つまるところ、「働かなくても(最低限)暮らしていける」社会がやってくるのである。さて、これはいいことだろうか?

ベーシック・インカムの導入に賛成する根拠として、二通りの理由がある。ひとつは、社会保障という観点からであり、もうひとつは経済効率という観点からである。つまり、前者は大きな国家、福祉国家というソーシャルな価値観に基づいており、後者はネオリベラルな価値観に基づいている。主義主張が違っても、同じ政策が支持できるならいいではないか、という議論はあり得ると思うが、制度設計の細部にわたってこの違いは効いてくる可能性が高く、結果として、両者が支持する「ベーシック・インカム」制度はまったく別物である可能性が高い。
社会福祉派がベーシック・インカムを押す理由は明白である。我が国の生活保護の補足率(必要な人の何パーセントが受給しているか)は極めて低く、その原因でもあるが、受給に際しては、申請を取り下げるように促す、行政からの強力な圧力に耐えなければいけない。ベーシック・インカム型にすれば、こうした理不尽で暴力的とも言える障壁がなくなり、人々はより安心して生活に必要な経済資源にアクセスできるようになる、ということである。
 ベーシック・インカムを「払われない労働」(シャドー・ワーク)への給付と見なす立場も存在する。例えば、「家事労働に賃金を」というのはフェミニズムの根幹をなす主張のひとつだが、ベーシック・インカムをこれの実現とみる立場である。また、後期資本主義社会では労働者が標準的な義務教育を終えただけでは十分な収入を確保することは難しく、高校、大学、大学院へと進学する必要が出て来ている。しかし、これらの「学業」は個々の個人の時間を大きく消費するにもかかわらず、「労働ではなく、その準備段階である」として払われない。ベーシック・インカムはこの(様々な意味での)「労働の準備段階」への給付である、という考え方もある。
 これらの立場の重要な帰結として、現在は世帯単位で把握され、実施されている「生活保護」(やその他諸々の社会権の保護)を、個人単位に切り替える、ということがある。例えば、本人の意志に反して専業主婦を強いられ(好きで専業主婦をやっている人がいることはこの場合何の問題でもない)、また支出を夫に管理されている女性がいるとして、実はそれは社会的には「見えない貧困」かもしれないが、現在の考え方ではそれにアクセスする方法はない。しかし、個人単位のベーシック・インカムであれば、こういった部分にもある程度アクセスすることができるかもしれない(少なくともアクセスする法的な根拠を提供するとは言える)。
 また、より積極的に踏み込んで「労働を至上のものとする価値観のみなおし」の可能性を支持する意見もある。これを、ソーシャルなベーシック・インカム論のなかでも特に「アウトノミア的ベーシック・インカム」として区別しよう。この論点については後で触れるが、山森亮の『ベーシック・インカム入門』に詳しい。
ネオリベラルなベーシック・インカム推進派は、現在の福祉制度が財政的にも制度的にも崩壊に近づいていると考えている。社会保障負担は国家財政を脅かしており、また、個々の職能が専門化、細分化、高スキル化するにしたがって、失業者と雇用のマッチンッグも難しくなっている。そのため、先進国を中心に「大学(院)を出ても仕事がない」という状況は恒常化しており、そのマッチングのコストも馬鹿にならなくなっている。そのため、特別な技能も高い意欲も持たない層は「いっそ働かないでもらい」無理矢理職を探すよりも最低限の給付を与えて邪魔にならないようにしておいてもらった方がよい、という立場である。これを、江戸時代の制度になぞらえて「捨て扶持論」と呼ぶ論者もいる。
さて、両者の最大の違いは、ベーシック・インカムの導入が他の社会保障の撤廃につながるかどうか、ということである。ネオリベラルなベーシック・インカムの推進者は、その根拠として社会保障費の際限ない増大や、マッチング・コストの軽減を問題視しているため、これらの給付は原則としてなくすということになる。失業保険的な給付はもちろん、職業訓練などのために政府が支出することも押さえることになるだろう。より積極的な論者は、障がい者用の給付や、医療給付などもベーシック・インカムからまかなうことを前提に全廃を主張するかも知れない。ただし、生命維持のために高度な医療を必要とする人々は、当然月額10万円では医療費をまかなえない(例えばHIV感染者がエイズ発症を押さえるための薬は、薬価だけで年間百万円以上が必要になる)ため、医療保険は別枠で運営、という主張の方が「穏健」である。
いずれにしても、ネオリベラルなベーシック・インカム論者が目指すところは、国家が果たす役割として、機械的な再配分のウェートが大きくなり、個人の生活や価値観に介入しなくなるということである。しかし、それは「個々人の社会権が満たされるために必要なニーズを国家が把握し、提供する能力の低下」を意味する。具体的には、ソーシャルワーカーの削減や、公的な教育手段(特にリカレント教育)の提供の中止、ということになる。ソーシャルなベーシック・インカム論者は、そういった国家の能力の低下を支持しないであろう。一方で、それらの削減を行わないのであれば、ネオリベラルなベーシック・インカム論者は納得しないであろう。
フィンランドは現在、極右民族主義的な「フィンランド人党」を含む右派連立政権が政権を担っており、またノキアの経営悪化といった経済的な要因により、財政難に喘いでいる。そういった状況で出て来たベーシック・インカム論は当然のことながら、諸給付の停止や削減を狙った「ネオリベラルなベーシック・インカム」論である。私を含めた「大きな政府」支持派は、こういった動きを安易に歓迎すべきではないだろう。「ネオリベラルなベーシック・インカム」からみて「ソーシャルなベーシック・インカム」はよいものではなく、逆もまたしかりなのであり、自分がどちらを支持しているか、見失わないようにしなければいけない。
現状においては、フィンランドでも日本でも「ソーシャルなベーシック・インカム論」が政権によって実施される可能性は極めて低そうである。地道なステップとして、例えば「負の消費税」の考え方を広めるとか(所得税を廃止して消費税に一本化するという場合を除き、どっちにしても所得把握は行わなければならないのであり、また経済効果としては「負の所得税」もベーシック・インカムも効果は同じである上、多少は一般の理解は得やすい概念なのではないかと思う)、また納税の管理を世帯ではなく個人単位に変革することを訴えるとか(個人的には「同性婚制度の普及」より、結婚・家族概念と相続を含めた経済行為を切り離すことが重要なのではないかと思う)、そういったことが必要なのではないか。
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最後に、ソーシャルなベーシック・インカム論をさらに進めた、アウトノミアのベーシック・インカム論について議論しておきたい。山森(前掲書)が紹介するように、これはアントニオ・ネグリの立場で、経済力は「労働の価値」ではなく、必要性によって付与されるべきだ、というものである。この資本主義にとって革命的な議論は、今のところ『スタートレック』の世界(物語の中では通貨が廃止されている)と同程度に夢物語である。しかし、遠い将来、(我々が戦国時代を振り返るのと同じような目で)「21世紀には、まだ必要性ではなく、労働によって購買力が分配されていました」と教科書が記述する世界がくる、と考えてみることは、少なくとも我々の世界がいかに「労働」に価値を置いているか批判的に検証するためにも重要である。ことに、山森はこのアウトノミア的ベーシック・インカム論と、「青い芝の会」の主張の類似性を論じており、それは「労働の価値」が差別の根拠として使われることに思い致させてくれる。
ソーシャルな、そしてアウトノミアなベーシック・インカムは簡単には成功しないであろう。それは、一見成功したように見えた場合ですら、ネオリベラルなベーシック・インカム論に吸収されてしまうであろう(それがフーコーのいうような「生権力」の作用というものである)。であればこそ、我々は(簡単に実現されるものではなく、「いつかあるべき理想」としての)アウトノミアなベーシック・インカム論の図像をきちんと描き、現実と対照できるようにしておくことは重要かも知れない。